中(あたる)とフグ
園内 中が、出張先の下関で、かたくなに断り続けた取引先の接待を、「フグ」と聞いてころりと態度を変えてしまったのは、フグ好きの大阪人の血が騒いだわけでも、本場の高級料理に目がくらんだわけでもなかった。
それどころか、中は、大のフグ嫌いなのである。味がどうこうというのではなく、毒が怖いのだ。
中は常々こう考えていた。『フグを食べてなんともない人も、毎回、奇跡的に助かっているだけで、食ってりゃそのうちあたるはずだ』と。できれば一生、口にしたくないとさえ思っていた。
それなのに、なぜ、フグの接待を受けることにしたのか? それには、ある考えがあったからなのだが……
そのことを話す前に、どうして中が、これほどまでにフグを嫌いになってしまったのか? そのわけを話しておかなくては、なるまい。
園内家のじいちゃん
中の生まれた園内家は、代々、大阪は日本橋に暮らす、ごくごく平凡な庶民の家である。すぐ近くには、鮮魚で有名な黒門市場があるのだが、この環境が、園内家、とりわけ、中の祖父に与えた影響は大きい。
黒門市場は、大阪の台所として、関西なじみの魚を幅広く取り扱っている。特にフグは、黒門名物の筆頭であり、とにかく安くて旨い。
年末には、丸々と太った大量の虎フグが、店先にずらりと並ぶ。それを、どっと押し寄せてきた浪速っ子たちが、次々と買いあさっていくのだ。その光景は、大阪の冬の風物詩にもなっている。
このフグの大量消費こそが、大阪のフグを手頃なものにしているのだ。実に、日本中のフグの6割が、ここ大阪で消費されているというのだから驚きである!
大阪人のフグ好きは、なにもその消費量だけではない。フグを捌ける人の数が、他県と比べ、群を抜いて多いのだ。ただしこれには、玄人だけでなく素人の数も含まれている。
いまだフグの毒による事故があとを絶たたない大阪市は、フグ好きの市民に対し、素人調理をしないよう、注意喚起しているほどである。
生粋の大阪人である園内家の人たちも、例外ではなかった。大阪で身近な魚となったフグは、こんな庶民の食卓にも度々あがった。園内家の子供は、黒門市場を遊び場として育つためか、みな大のフグ好きになる。間近で捌く様子を見られるので、フグの扱いにも慣れたものであった。
特にここのじいちゃんは、無類のフグ好きで、虎フグの肝の色を見れば、毒が有るか無いかが分かると、豪語するほどの人だった。
中のばあちゃん
中のフグ嫌いは、死んだばあちゃんの影響が大きい。そのばあちゃんは、連れ合い――つまり、中のじいちゃん――をフグで亡くしていた。
そう。あの――肝の色で毒の有無が分かるはずだったじいちゃん――は、あっけなくフグの毒にやられて、この世を去っていたのだった。
ばあちゃんは夜毎、幼い中に、じいちゃんが死んだ時の様子を、まるでお伽話でも語るように、聞かせてきたのだった。
「あんたのじいちゃんは、アホなオッさんやってんで。フグ好きの女好きで…… 」
「え! なに好きって?」
「フ、フグや。大のフグ好きやってん。旬の頃は、毎日のように自分で捌いて食いよんねん。それも肝にぼん酢かけて」
「フグって毒があんにやろ? じいちゃん大丈夫やったんか?」
「そやねん。口ん中が痺れたらもう死んでるって言うくらいに、きつい毒があんねんで。それをじいちゃん、『毒が有るか無いかは、肝の色で分かるんじゃ!』言うて、偉そうになぁ…… 毎回、奇跡的に大丈夫やっただけやのに! 忘れもせぃへん。あれは…… えぇぇと…… …………」
「……て、おぉぉい! ばあちゃん、ボケたんか?」
「……あ、そうそう。あれは、ごっつ寒い冬の日やった。じいちゃんは、いつものようにフグの肝を食って、炬燵で横になっとってん。
30分くらい経った頃やったかいなぁ? じいちゃん、鼻から血をぼたぼた垂らしながら台所に駆け込んできてなぁ! 『救急車、呼んでくれ』言うて…… あの時もちょうど、神手医院の医院長が玄関先に立っとって!」
じいちゃんは、ついにフグにあたったのだった。すぐに入院し、胃を洗浄した。そのあと、ひたすら酸素吸入を続け、様子を見守っていたのだという。
ばあちゃんは、徹夜で看病したようだが、その甲斐もなく、翌朝、じいちゃんは死んでしまったそうだ。
「あたったら死ぬから、大阪ではフグのこと【鉄砲】って言うんねんでぇ! アホやろ? 大阪人て。【鉄砲】って名づけたくせに、日本で一番フグ食うねんから」
「ほんまアホやな、ばあちゃん」
「じいちゃんも、よう言うてたわ。『めっさ、テッサ好っきゃねん』て」
「テッサってなに?」
「【鉄砲】の刺身でテッサやねん。
【鉄砲】のちり鍋は、テッチリや」
「凄いな! そのネーミングセンス! 緊張感ゼロやんか!」
「なぁぁ、死ぬやろ?」
「そら死ぬな、ばあちゃん。フグで大阪から人がおらんようになる日も近いなぁ」
「でもな、中。大阪人よりアカンのが下関人やねんで! あいつら、フグのこと『福』と呼んで、有難がっとるちゅうねんからびっくりや!」
「え! ほんまに?」
「そやねん。あろうことか、あんな危ない魚を、わざわざおめでたい席に出さはんねんて!」
「アカン! なんかあったら命日やん!」
「そうや。その神経が一番おめでたいって、思わへんか? なぁ、中……」
そのばあちゃんも、一昨年の暮、九十九歳で、じいちゃんのところへ旅立って逝った。死に際に、中に遺した最期の言葉も、やはり、
「中、あんた、じいちゃんによう似とるよって…… フグだけは食うなよ。食ってりゃそのうちあたるぞ…… 口ん中が痺れたら、もう死んでんねんからな……」
とまぁ、こんな歪んだ考えを擦り込まれ、中は、大のフグ嫌いになったというわけだ。
もちろん、これまでの人生で、フグなんぞ、ただの一度も口にしたことはない。それどころか、フグに似た魚は、素人目に区別が難しいからと、まるで毒キノコでも扱うかのように、口にしてこなかった。そのため、薄造りはヒラメやメイタガレイですら食べたことがない。干物は、袋に『カワハギ』と書いてあっても、「いや、間違ってフグが混ざってるかも知れへん」と、けっして食べようとはしなかった。
ではなぜ、こんな中が、「フグ」と聞いて接待を受ける気になったのか? それには、とんでもない、あきれた理由があったのだった。
次回、中がフグの接待を受け入れた理由から、中の人となりが分かる。
※ フグの毒は危険です。素人調理は、絶対にしないで下さい。