弐
一陣の風が吹き、一の宮はそっと目を開けた。
そして同時に理解する。
――これは夢だと。
何故だか理解できなかったが、そう唐突に理解した。
理解してから、初めて周りの空気が青みがかっていることに気付いた。
「……ここは?」
さくっと音を立てて一の宮が一歩踏み出すと、突然背後に気配がした。
「私の夢ですよ、宮」
美しい公達が一人、音も無く一の宮の後ろに立っていた。
全体に薄く爽やかな色調の衣に身を包み、無作法にも髪を結い上げもせずに垂らしたままのその姿は人の姿をしているにもかかわらず何処からも人らしい温もりを感じることが出来ず、唯人外の美しさを周囲に発散させるだけだった。
その雰囲気に軽く慄く己を知りながら、それでも一の宮は言葉を投げかけた。
「貴方は誰ですか?僕はどうしてここに居るのです?」
「未知の物に対する恐怖よりも、好奇心。成る程」
一の宮の問いに答えず一人勝手に納得すると、公達はゆったりとした動作でその場に腰を下ろした。
公達が地面に腰を下ろしたその場から、風景が変わっていく。
今まで世界にかかっていた紗の絹が取り払われるように、ざぁっと一気に鬱蒼と生い茂った竹林が二人の周りに出現した。
その変化にあっけにとられて周囲を見まわしていると、公達は何処から取り出したのか、朱塗りの杯に提子の酒を注いでいた。
「如何ですか?」
「……酒を嗜むにはまだ早いと言われています」
「大丈夫ですよ、ここは夢の世界。飲む者が茶と思えば茶となり、酒と思えば酒となるのがこの世界の理」
目の前の光景がこの公達の夢の世界であると言うのならばそれはそれで何でもありだろうと一応は自分を納得させると、一の宮は公達の隣に座って杯を受け取った。
ためしに塩水と念じてから一口含むとそれは確かに塩辛く、蜜と念じて飲めば喉を焼きつくさんほどに甘ったるく。
ならば酒と念じればどのような味がするのだろうかと心逸らせながら口にした液体は、今までとは一転、無味乾燥この上なかった。
「……?」
一体何が起こったのか理解できず目を白黒させていると、隣の公達は堪えきれずにくつくつ笑った。
「宮は酒を嗜まれたことが無いのでしょう?知らぬものの味を味わうことなどは出来ませんよ」
至極もっともなことを言われて一の宮は赤面して杯を置き、恥ずかしさを紛らわせるために少し怒った顔で公達を見た。
「貴方は一体何者ですか?」
「おや、これはご気分を害したかな?それは失礼、宮」
そう言って更に忍び笑いを続ける公達に、一層一の宮の面差しに朱がのぼる。
流石にからかいが過ぎたか、と公達は杯を置くと優雅に立ちあがり、一の宮の前に跪いた。
「私は、安倍晴明と申します」
「……せい、めい……!?」
一の宮は今まで怒っていたのも忘れてあっけにとられた。
安倍晴明と言えば、誰もが知る大陰陽師。だが……。
「まさか、そんな……偽りを申すにしても百年も昔の人間の名など名乗って何とするのです?」
「おやおや、私は嘘偽りは申しませんよ。宮は私が狐の子と言われているのをご存知ありませんか?その力を持ってすれば人の世を百有余年生き長らえることぐらい容易いことです。お疑いなら、歴代の帝の裏話でもお話しいたしましょう。花山帝は幾つまでおねしょをしたとか、冷泉帝は清涼殿近くの小屋の屋根の上がお好みだった、とかね。他にも何人の女房に声をかけて振られたとか実はあの玉製は誰某が考えたものだっただとか、色々面白いお話は取り揃えておりますが、宮はどの辺りがお好みですか?」
「……いえ結構。貴方を信じます。ですから祖先の恥ずかしい記憶はそのまま忘れ去っていただけると故人の名誉のためにも良いかと思われますのでどうかそっとしておいてください……」
一の宮はがっくり肩を落として晴明に屈した。
このまま目の前の男の口に扉をつけないと際限無く皇統の権威が貶められそうな気がしたからだ。
「信じていただけて大変嬉しゅうございますよ、宮」
何処までも艶やかに微笑んだ晴明の笑顔の下には、この都中の怨霊を纏め合わせても太刀打ちできないほどの闇が詰まっているに違いないと一の宮はなんの根拠も無く断じた。
「それで、私に何か用があったのでしょう?私は今夜、内裏でちゃんと褥についているはずなのに、このような場所で貴方と話している。――貴方が私をこのような場所まで呼び出したのでしょう?」
「そうです、お噂通り利発な方で安心居たしました」
良く出来ましたと言わんばかりに一の宮の頭を撫でると、晴明はまた一の宮の隣に納まり、遙か彼方上を見上げた。
釣られて見上げた一の宮の視線の先では、ざざっと竹の梢がゆれさざめき、その隙間からは満天の星空が広がっているのが見えて。
「――星が喧しくて仕方が無いのですよ」
「星が、ですか?」
一の宮は不思議そうに隣の男を見た。
星空は、いつもと変わらず、いや、いつにも増して綺羅と輝き、漆黒の帳を埋め尽くしているように見える。
その星空を、男はどこか楽しそうに見上げていた。
「星は雄弁なのですよ。その言の葉を知る者にはね。宮は星の意を汲み取る方法をご存知無いからあの空を見てもそうやって平静で居られる。私は、――興味を掻き立てられて仕方が無い」
そう言って一の宮に視線をずらせた晴明の表情に、一の宮は背筋がぞくりと凍るのを感じた。
「星たちがさざめいています。貴方のさだめが珍しいと。私はこう見えて珍しいものには目がありませんでね。ですからこうして少々強引に貴方にお目にかかった次第なんですよ」
「私の運命……?」
「宮には二つの道行きがある。その選択はこの先百年の時の流れの礎となる。言いかえれば、貴方がこの先百年の歴史を決定するのです。百年は、人とは異なる時間を生きるこの私にも長いもの。そうそう滅多にあることではありませんからね。是非傍で見物させていただきますよ」
そう言って杯を呷った晴明の眼差しは、一の宮を通りぬけて何処か悠久の先を眺めていた。
その視線、自分とは明らかに違うものを捕らえている晴明を傍で感じ、一の宮は真実隣の男がかの安倍晴明だと確信した。
晴明の下知を賜ったものは道を違えること無く栄華の道を歩む。
そう謳われるほどの聡明さを誇る彼の話を一の宮はもっと聞いていたくなった。
「――私は、その二つの道行きの選択にあたり、どうすべきなのでしょうか?」
「宮、私は人の世とは隔絶したものですよ。そんなものの意見を聞いてどうすると言うのです?それに、選ぶのは貴方です。貴方の思うようになさい」
やんわりと歯に衣を着せてはいるもののきっぱりとした拒絶と、それに相応しい醒めた表情。なのに、見つめた瞳のその奥には熱い情熱が滾っている。
その熱にかけて、一の宮は再度教えを請うた。
「顔をお上げなさい、宮。人としての人生の終わりにやっと殿上人になることが出来た程度の者に、皇統に属するものが頭を下げては天の理が狂いましょう」
穏やかに、晴明が一の宮を諭すと、その言葉通りに面を上げ、一の宮は真っ直ぐに晴明を見据えた。
「……全く、そういう真っ直ぐな瞳をされると弱いのですよ。私のように歪んだ性根のものは特にね。久しぶりに純粋なヒトを見たので、特別に『観て』差し上げましょう」
そう言って晴明は杯を置くとそっと一の宮の頬に手を添えた。
男の癖にほっそりとしたその指は氷のように冷たい。まるで人外のもの、死人のような冷たさなのに、嫌悪感など何も湧かず、寧ろそこから清涼な何かが伝わってくるような気さえした。
「――運命の添え星には、もう会いましたね?」
「……添え星?」
「貴方の影となり鏡となって貴方を映し出すものです」
淡々と晴明は言葉を紡いでゆく。その単語の連なりで思い起こされたのは、今日初めて会った同じ顔を持つ侍従の君。
「……そう、その方。大事になさい。何があっても。人の絆は時に血の絆をも超えるものだから」
そう言って、晴明は一の宮の頬から手を離した。
「どうやら、そろそろ刻限のようですね」
晴明はすっと立ちあがると、遙か彼方に視線を向けた。
と、突然、今まであった鬱蒼とした竹林も、満天の夜空も全て虚ろに消えて、辺りは乳白色の霧が漂うばかりになった。
「もうお目覚めのお時間ですよ、宮。それでは、ごきげんよう」
勝手に言いたいだけ辞去の言葉を述べて去ろうとする晴明に一の宮は精一杯手を伸ばした。
「待って下さい!僕はもっと貴方の言葉を聞いていたい……!」
だが、一の宮の小さな手は晴明に届くことは無く、一生懸命後を追って足を動かそうとしてもからだが鉛のように重たくて晴明の姿は遠く小さくなるばかり。
「また、何時会えますか!?」
一の宮の必死の呼びかけに、ふと晴明は足を止めて振り返った。
一瞬期待に気が明るくなったのも束の間、晴明は意味深な笑みを浮かべたかと思うと溶けるように消え去った。
「……っ!」
目を開けて、飛び込んできたのは見慣れた御帳台の天蓋と、追いすがろうとするかのように精一杯虚空に伸ばされた小さな自分の手。
現実の、一の宮の私室だった。
「晴明、どの……」
そう、声に出してみる。
その声を直で自分の耳で聞いて、ようやくあの夢が夢ではなかったことを実感した。
「僕の、運命の添え星……?」
一の宮は瞳を閉じて自分と同じ顔をした子供を思い浮かべた。
今日から本格的に自分の遊び相手として出仕してくるはずの花の君。大切にということは仲良くということなのだろうか?
「宮様、起きていらっしゃいますか?」
宿直の女房が一の宮に声をかけてきて。
一の宮はそれまでの思索を中断してその身を起こした。