壱
笛の音に筝の琴の音。典雅な音と音との重なりの只中で、重厚で華やかな式次第が万事恙無く進んで行く。
しっとりと夜闇が舞い降りた庭に皓々篝火を焚き、煌びやかな装束を身につけた公達が舞い踊り、色とりどりに着飾った人々が座に興を添えている場の上座、しっかりと下ろされた御簾の奥で、今最も幸せな女人とささやかれる姫君は、手にした扇の陰でそっと涙をこぼした。
「申し訳ございません、宮様」
囁きにも似た言葉は誰の耳にも届くことなく、楽の音にかき消された。
** *
御簾を揺らせた風は、仄かに梅の香を運んできた。
一の宮は手習いをしていた筆を止め、ふっと顔を上げて庭に目をやった。
春の優しい日の降り注ぐ庭は、余りにも穏やかで。
「宮様」
……だが、冷徹な声がすぐさま一の宮に振りかかる。
「お手をお止めになりませんよう」
「だけど、王命婦、そろそろ刻限じゃ……」
「気のせいです」
ぴしゃりと言いきったのは、一の宮の向かいに座る、見るからに厳しそうな女房だった。
そんな王命婦を、一の宮は果敢にも恨めしそうに見上げた。
「命婦のいけず」
ぼそっと呟いた一の宮の言葉は、王命婦の額にピキっと青筋を浮き立たせただけで、一の宮はすぐさま自らの過ちと負けを悟った。何故なら、王命婦は何処までもにこやかに、笑顔を取り繕ってはいたが、目はまさしく本気で。
「春の上の巻のお歌の書写が終わるまで、手習いは終わりませんと申しましたでしょう?後十首ではありませんか?とっとと書いておしまいになってくださいませ。でなければ、左大臣家の末の若君にはいつまでだって待ち惚けて頂くことになります」
鬼神の如き迫力で断言した王命婦に負けて、一の宮は素直に再度筆を墨に浸した。
だが、考えるのは別のこと。
――左大臣家の末の若君。
左大臣の祖父と権中納言の父を持つ一の宮より二つ下の若君は、今、都で最も有名な稚児だった。
曰く、都一の美人と称された母君に似て、その微笑みは桜の花が満開になったようだとか、否、微笑むだけで冬の雪の下に花が満開になっただとか、春の花の精の愛し子などと呼ばれることもあり、とにかくその美しさが噂の若君で、逸話に因んで花の君と呼ばれていた。
その花の君が、今日から一の宮付の侍従、つまりは遊び相手として童殿上して出仕することになっているのだ。
その初顔合わせの時間が刻一刻と迫っているのに、一の宮は王命婦に監視されていて。
とっとと噂の若君を見たい一心で一の宮はさらさらと和歌を十首清書した。
春の風が爽やかに吹き込める御殿の中。静まり返った空間に響く、優雅な衣擦れの音。
「本日より出仕いたします童でございます」
そう言って、平伏した左大臣の隣でおっとりとした水干姿の子供が優雅に頭を下げた。
「お初にお目もじ仕ります、一の宮様」
多少舌足らず気味に挨拶して面を上げた花の君を見て、一の宮は先ほどの驚きが夢ではなかったことを再度確認した。
チラッと脇に坐す王命婦を見れば、先程までの一の宮と同様、衝撃の余り表情が固まっている。
――誰も彼も、驚かされたのは噂の左大臣家の末の若君の美しさなどではなく。
「吃驚なさいましたでしょう?育つにつれ一の宮様に似てまいりますので、これはきっと宮にお仕えさせよとの神仏の思し召しに違いないと考えましてね。いやはや、かように人生の終わりに差し掛かったこの時にこのような巡り合わせの子を持つとは、望外の喜びでもあり、また心の震える思いもします。何とか一角の人物として育て上げ、宮の元へとはせ参じさせるのが私の宮への最後のご奉公になるかと思えばこそ、未だに至らぬところも多い若輩者ですがこうして出仕させたのですよ」
いつもは人身の位の極みに立つ者に相応しい堂々とした、人を寄せ付けない雰囲気の左大臣が、今日ばかりは表情を崩して、唯人の顔を見せていた。
そして、左大臣の言った言葉はけして祖父の欲目などではなく。
――花の君と一の宮は余りにも似通いすぎていた。
違いを見つけ出そうとしても、年の違いしかあげ連ねることが出来ないほどに。
「――驚きました」
一の宮はやっとそれだけを言うと、目の前の花の君をまじまじと見つめた。
その視線を受けてニッコリ笑いかけてくれるその顔は、まるで鏡を見ているかのよう。
「……左大臣家の末の若君は光る君もかくやと言うほどの美しさと聞いていたので、まさか私と同じ顔の方がいらっしゃるとは思いもよりませんでした」
「この子が光る君を思い起こさせると言うのであれば、差し詰めその今光る君は一の宮様に相違ございますまい。お血筋も無論、詩歌の才も楽の才も秀でていらっしゃる。きっと今源氏として優れた方におなりになることでしょう」
一言返せば二倍三倍の世辞を返してくれる左大臣の流麗な言葉回しの横で、一の宮は隣に座る王命婦の機嫌が急降下していくのを肌で感じ取った。
表面こそ笑顔を取り繕っているものの、その内にあるものはもはや般若と言っても良いほどの気配。
「まぁ、一の宮様が光源氏の君のようにおなりあそばすことはありませんでしょうに、左大臣殿。一の宮様は今上の唯お一人の日嗣の宮であらせられます。光る君のように臣下に下されるような事がある筈がございませんわ」
「おや、これは失礼いたしました、女房殿。確かに失言でございました。一の宮様、どうかお赦しください」
王命婦の強烈な言葉に、左大臣は表面上穏やかに謝辞を述べた。
一の宮がそれを笑って流すと、場は収束に向かって予定通りの筋書きをたどり出した。
「それでは、明日以降、よろしくお導きくださいませ」
「……宮様」
左大臣と花の君の姿が見えなくなると、王命婦は畏まって一の宮を振り返った。
「かの若君にはけして御気を弛められませんよう、お願い申し上げます」
「どうして?明日からは僕の友達になるのに」
「あちらにその気が無かったらお終いでございます。かの君が何か珍しい菓子などを持ってきたと言ってもけしてお召しにならぬよう、まずはこの私にお知らせ下さいませ。それと、花の君の伯母君に当たる梅壷の方へお誘いがあるやも知れませんが、これもまた私にお知らせ下さいませ。いえ、むしろ出来る限りお断り下さいませ」
王命婦の鬼気迫る覇気に気おされて、一の宮はどうしてと聞くことすら出来ずにただただ頷くと王命婦は一礼して一の宮の御前を辞した。
自らの局に下がるべく渡殿に差し掛かった辺りでふと歩みを止め、王命婦は梅の咲き誇る庭に目を渡した。
「……左大臣め、宮を今光る君の境遇に追い落としたは自分であると言うのに、あのような物言い……!決して赦しはいたしません!」
ギリっと音を立てて王命婦は歯軋りをし、まるで仇敵であるかのように庭の梅を睨みつけた。
同じ名を持つ殿舎に住まう女を思いながら。
「宮は私がきっと守って見せます、中宮様」
祈るように、胸のうちで誓いを立て瞑目した王命婦に、渡殿の反対側からやってきた女の童がそっと声をかけた。
「王命婦殿、あの、陰陽師の方が局でお待ちです」
「……すぐに参ります」
――誰もいなくなった渡殿を、春の爽やかな風だけが通り過ぎていった。
まるで拭い切れぬ情念をそれでも薄れさせようとするかのように。