47 「反撃1」
――いつだって、誰だって、愛はなにかを狂わせる。
「……まさか、そなたもスレイを愛していたのか?」
龍神クリカラの震える声は、静かに響いた。
その声は、アンテサルラだけではなく、近くに倒れているニール、そしてスレイ本人にも届いていた。
度々アンテサルラが口にしていた「愛しい人」という台詞。それはまるで、本心ではなく挑発するために使われていた言葉だとクリカラは思っていた。いや、クリカラだけではないスレイもまたそう思っていた。
だが、それが違うことに今更ながらに気がついた。遅すぎたと言ってもいい。
アンテサルラは、少年の顔で自嘲するような笑みを浮かべると、アンテサルラの声でクリカラへと苛立った声で返す。
「だとしたら――なんだというのだ。その男は妹を選び、私は選ばれなかった。私は、それが許せない、ただそれだけ」
「そなたの、そなたのたったそれだけの感情で……アンテサルラよ、わかっているのか?」
クリカラは震える声で言葉を紡ぐ。
「誰にでも思い通りにならないことはある、それが世界の理だ。余にもままならないことはある、それはアンテサルラ、そなたも同じはず」
「いや、違う。私は神だ――神々というお前たちとは違う高みにいるのだ。お前たち神々にとって不可能なことがあったとしても、神である私にはそれがあってはいけない」
傲慢でしかないアンテサルラの言葉に、絶句して動きをとめていたスレイがゆっくりと、そして怒りを込めた声を放つ。
「やはり貴様は変わっていない、これだけの時が経ったというのに、貴様は何一つかわっていない!」
「なにが変わっていないというのだ?」
「すべてがだっ! 貴様は、昔もそうだった。神々の中から頂点である神を選ぶ際にも、貴様はその地位を欲しがり、様々な手を使い貴様は神となった。私はそれを止めようとして体を、力を失った!」
「懐かしい」
アンテサルラは笑う。
幼さの残る少年の顔で、なにもかもを嘲るように笑う。
「――だからなんだというのだ?」
「なに?」
「スレイ、私の愛しい人よ。お前がどれだけ私に怒りを募らせようと、どれだけ憎しみの感情を向けようと、私は変わらない。変われない」
クツクツとアンテサルラは笑う。笑い続ける。
スレイの神経を逆なでするように、この場にいるすべての者を馬鹿にするように。
「結果を見ろ、戦神スレイ。君がどれだけ私を非難しようと、私が神々の中で頂点である最高神であることは変わらない。覆すことのできない事実だ。君に力があったのならば、他の神々に力があれば、私が今こうしていることはなかった」
「…………ッ」
「弱き者が、強き者に逆らおうとすること、それ自体が間違っているのだ。今ならまだ許そう、スレイよ――哀れな神よ、妹を忘れ、私のものとなると誓え」
「私を馬鹿にするなよ、そんな馬鹿なことがまかり通ると思っているというのか?」
「拒否するのならば、この場にいるすべての者を殺す。人間も、異種族も、神も、君以外のすべてを殺す。もちろん、君が会いたがっている妹も殺してあげよう」
静かに、しかし狂気を孕んだ言葉に、スレイは絶句する。
自分も狂っているが、アンテサルラはそれ以上に狂っている。
壊れていると言ってもいい、もうコレはもう神ではない。神という名の別ものだ。
「さあ選べ」
スレイに選択肢などないも同然だった。
ニール・クリエフトは神々の会話をずっと聞いていた。
神々の会話を聞いていた唯一の人間だった。
神々が集まるなど、それが例え器に宿っているからといえど、まるで神話のようだと思った。
だが、神話のような英雄譚などではない。悲劇などでもない。
まるでどこにでも転がっているような話だ。実にくだらない。
ニールに目的があったように、神々にも目的はあった。しかし、それが実に人のようではないか。
力だけは神と呼ぶに相応しいものを持っているというのに、人のような感情でその力を振るうその姿は、呆れを通りこしてどこか滑稽であった。
――神も人も、変わらないのかもしれない。
いつだって愛ゆえに、誰かは誰かと大なり小なり争う。神話を紐解けば、多くの神が、人間が、異種族だって変わりはしない。
ニール自身も愛から始まった復讐のために、利用し、利用され、犠牲を出した。そのことに、後悔はしていない。きっと、過去に戻ったとしても同じ選択をするだろう。
彼もまた愛ゆえに狂ってしまったのだから。
ゆえに、酷く、アンテサルラたちが哀れに見えた。
「神であっても、心が、感情が、思いがある。それゆえに、それが歪んでしまえば壊れてしまうのは人も、神も変わらないということか……」
馬鹿馬鹿しい。
実に馬鹿馬鹿しい。
神々が、そんな神々を信仰している人間も、そして自分自身も。
この終わりのない狂った神々を止めてくれ。
心からニールは思う、巻き込まれる命が哀れでしかたがない。
そんな時だった――
突っ立ったまま動こうとはせずに、ゆえに神々からも放置されていた黒い獣が――少し動いた気がした。
どくん、とニールの中に残っているわずかな力の残骸が同調するように脈打った。
「まさ、か……」
信じられない、とばかりにニールが目を見開く。
空気が音を立てて動いた。
そして、彼の視線の先にいる、人の姿をした黒い獣が――吼えた。
「うるぁああああああああああっ!」
その耳が痛くなるほどの咆哮は、この場にいるすべての人間、異種族、そして神々に届いた。
誰もが、先ほどの黒い獣を思い出し、身を固くする。
クリカラ、スレイ、そしてアンテサルラは、獣から発せられる強い神気に警戒を強くした。
黒い獣はさらに吼える。
吼えて、吼えて、喉が裂けろとばかりに、天が裂けろとばかりに、悲鳴のような咆哮を上げ続ける。
そして、ガラスの砕けたような音が響いた。同時に、咆哮が止み、痛いほどの静寂が訪れる。
――だんッ
黒い獣が一歩踏み出した。すると、獣を被う褐色の肌が崩れ、空中で分解していくかのように塵となって消える。
――だんッ
一歩、確実に大地を踏みしめる度に、褐色の肌が砕けちり、白い肌が姿を見せる。
長く伸びきった髪が風に舞いなびくと、伸びた分だけがまるでなかったように霧散した。
邪魔な髪がなくなったことで現れた瞳には、理性が宿っていた。
「椎名、一成……」
一番近くにいたニールが恐る恐る彼の名前を呼んだ。
もう彼の姿は人の姿をした黒い獣ではない。ニールが覚えている椎名一成その人だ。
しかし、なぜだろう。どこか力強い、そんな雰囲気を持っている。
「なんだか、ずっとここじゃないどこかにいたよ――ただいま」
「……おかえりなさい」
つい、返事を返してしまったニールに、一成は苦笑するような笑みを浮かべると、彼に近づき腹部に左の拳を叩き込んだ。
「がッ……」
「これはお返しだ。だけど、もう――立てるだろう?」
「え?」
一成の言葉が理解できないと言わんばかりに、ニールが驚き困惑した顔をする。が、すぐにその意味がわかった。
体が動くのだ。痛めつけられ、動かすことができなかった体が動く。痛みや辛さは残ってはいるものの、戦えるほどに回復している。
「これは、一体?」
「悪いけど、アンタだけを治してやることはできないから、そのくらいで我慢してくれ」
そう言うと、一成は地面を軽く蹴って、風のように消えた。
どこに、とニールが一成を追おうとしたが、その姿を捉えることすらできなかった。
「まさか、貴様――」
なにが起きているのかわからないニールの代わりに、アンテサルラが怒りや憎しみなどの感情を混ぜたような表情を浮かべて、一方を睨みつけている。
その先には、一成と、彼の仲間をはじめとした帝国の兵士たちと、サンディアル王国の兵士たちがいる。
いつのまにあれほどの距離を移動したというのだ。身体強化をしたとしても、速過ぎる。
呆然と眺めているだけのニールは更に驚かされることになる。
一成が仲間たちに向けて左手を掲げた。彼は、仲間と言葉を交わしているが、その声は聞こえない。
何度か言葉を交わしたのだろう、すると彼の左手から白く眩い光が放たれた。その光は、離れているニールでさえ包み込もうとする暖かな光だった。
その光はニールの痛みを和らげる。そして、それだけではなく、倒れていた兵士たちが動き出し、傷ついていた兵士たちの傷が癒えていく。それは、一成の仲間たちも例外ではない。
圧倒的な力に押しつぶされそうになっていた兵士たちが、そんな力などなかったように、自身の体を確かめている。
「一体、なにをしたというのだ……」
クリカラが小さく、驚きの声を上げた。
スレイは小さな体を小刻みに震わしている。
そして、
「貴様、会ったのだな――私の妹に、アーズリィにっ!」
つ、とアンテサルラが唇を噛み締め、血が流れる。声は震え、体も震え、今にも爆発しそうなほど感情が高ぶっているのがわかった。
そんな神などに見向きもせずに、一成は人々を癒し続ける。敵も味方も関係なく。
そして、眩い光が収まった。
彼は仲間と再度言葉を交わすと、こちらへと向かって歩いてくる。
一歩一歩確実に、瞳に闘志を燃やし、戦うために向かってくる。
よせ、と叫びたかった。
人間が神に敵うはずがない、真なる器であろうが、神の力を与えられようが人間という器である限り神には敵うことなどできないのだ。
「スレイの真なる器よ、貴様は会ったな、私の妹に、魔神アーズリィに! まさか、その力を再びこの目で見るとは思いもしなかった。大地の恵みを与える癒しの力……貴様はアーズリィからその力を借り受けたな?」
「だったらなんだ?」
一成は歩みを止めない。
アンテサルラが一成を引き裂こうと思えば、あっという間に、それこそ本人が気づかないうちに引き裂かれ無残に命を奪われてしまうだろう。
それでも、一成には恐怖が浮かんでいない。
「忌々しい、妹を思い出させるその力を私の目の前で使ったことを後悔しろっ!」
アンテサルラの力があれば、離れていた距離からでも存分に強大な力で一成を蹂躙できたはずだった。だが、そうはしなかった。
憎しみと、恨み、そして怒りの感情を露にし、あえてその手で一成の命を無残に理不尽に奪おうとした。
刹那の瞬間、アンテサルラの姿が消える。ニールたちには見えない速さで一成に襲い掛かったのだ。
――ごんっ
次の瞬間だった。
ニールは信じられないと大きく口を広げた。
クリカラは目を大きく見開いた。
そして、スレイは――笑った。
「さっきからうるさいんだけど、お前誰だよ?」
そこには右の拳を振り抜いた一成が立っており、アンテサルラは一拍置いてから地面へと音を立てて落ちたのだった。
最新話投稿しました。
今回はニール視点でお送りしました。反撃を開始します。