44 「覚醒1」
ぬるま湯に浸かっているような暖かい感覚だった。
心地いい。
このままゆっくりとしていたいと思う。だが、なにかそれでは駄目だと思った。
椎名一成は、色鮮やかな花々に囲まれ、植物の絨毯の上で目を覚まさない。
うっすらと意識だけはある。
だが、どういうわけか、目が覚めない。
自分を呼ぶ声が聞こえる。
聞いたことのある声だ。何度も聞きたいと思った懐かしさを思い出すような声だった。
――誰だろう?
無意識に疑問が浮かんでは消える。
自分が自分でなくなっていく、足元から自分という存在がゆっくりと解けていってしまいそうな感覚すら覚えた。しかし、そこに恐怖はない。
自分という存在が解けてしまった後に、どうなるかはわかっているからだ。
それは――融合すること。
自分だった存在が、本当の自分と一つになる。
体も、意識も、心さえも。
それが怖いことだとは微塵も思わない。自分が解けてしまうことが、消えてしまうことではないのだから。
――だけど、なぜだろう。
どこかでそれを望んでいない自分がいる気がする。
もっと、自分の意思でなにかをしたい。自分は自分のままでありたい。変わってしまいたくはない。
そんな思いを心のどこかで思っていることに気がつく。
「それがあなたの願望。このまま器として消えてしまうのは嫌だと言っているのね。でもね、あなたが目を覚まさない限りそれは叶わない」
少女の声がした。
幼さの残る、鈴のような声だった。
その声に、どこか懐かしさを感じる。遠い遠い昔に、どこかで聞いたことのある声に似ている。
――既視感。
まさにそれだった。
「あなたは一体だあれ? あなたからはスレイの力を感じるけど、でも別人。できればお話したいなぁ。でも、もうすぐ起きるよね?」
少女にはわかっていた。
彼がもうすぐ目を覚ますということを。
少女が分け与えた神力は、一成を癒した。精神ゆえに傷を負っていないように感じるが、そうではない。
生きている者すべてが、心に傷を負うのと同様に、精神にも傷を負う。
だからといって、癒すことができるとは限らない。
例えば、心が傷つき精神を病んだとする。時間が解決してくれる場合もあるが、それも程度によるだろう。下手をすれば廃人となってしまう。
しかし、一成の場合は少し違う。精神が文字通りの傷を負っているのだ。
ゆえに目覚めることができない。意識が戻りつつあるのに、後一歩のところで目を覚ますことができない。
だから少女は神気を分け与え癒すことを試みた。
そして、それは成功した。
「いつ以来だろう……誰かと話をするなんて、楽しみ」
無邪気に、無垢に、少女は笑う。
楽しそうに、嬉しそうに、少女は一成の目覚めを待ち続ける。
その後、どれくらいの時間が経っただろうか。黒一色の空間に正確な時間はない。
この空間にずっといる少女ですら、自分がどれくらいの時間を過ごしているのかわからない。
思い出して、悲しくなった。寂しくなった。
自分の知り合いはどうしているだろうか?
とても優しい姉、生意気な少年、そして愛した人。みんなは元気だろうか?
記憶があやふやで、少女はどうして自分だけこんなところにいるのかわからない。時折、そのことがとても怖くて、なんとかして思い出そうとするけれど、思い出すこと自体がいけない気がして長い間わからないまま。
毎日が不安で、退屈な変わらない日々。
大地を司る少女の力があるからこそ、植物たちが寂しさを和らげてくれるものの、少女は『人』との触れあいに飢えていた。
そんな時に、一人の少年が現れたのだ。
どうして現れたのか、どこから来たのか、そんなことは一切わからない。ただ一つ、少年から懐かしく愛しい人の力を感じた。
それだけで少女は嬉しくなる。
だから、
「早く目を覚ましてね」
微笑みながら、少女は願った。
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
ここではない、どこかで誰かが自分を読んでいる。
――一成ッ!
女性の声だった。強い意志の宿った、聞いていて心地の良い声だった。だが、その声も悲しさに溢れている。それが悲しかった。
自分を呼ぶ声が聞こえる。
元気がある少年の声だった。背伸びをした少女の声だった。導くような女性の声だった。気遣うような女性の声だった。戦う友へと向ける男性の声だった。
そのすべてが悲しみに溢れていた。
どうして自分の名を悲しげに呼ぶのだろうか。
なぜ、自分は返事もできずに目を閉じているのだろうか。
――返事をしなければいけない。
そう思った、その時。
じわりと体の内側から熱を感じた。
熱い力だ。
力は大地のように、生命の息吹を感じさせるほどの力だった。
新しい命が生まれるように、死した命が輪廻を巡り生まれ変わるように。
一成の中で、力が沸き、巡る。
――動け。
体を動かしたい。いや、動かさなければいけない。
――目を開けろ。
見ろ、どこにいるのか。自分に何が起きているのか把握しろ。
――足掻け。
無様でもいい。泥まみれになっても構いはしない。
――目覚めろ。
そして、自分のなすべきことをしろ。
――消えるな。
自分の中で、誰かが叫んでいる。
このまま解けてしまっても構わないと思っていたのに、それを否定する大きな声が響く。
誰だろう。
一成はゆっくりと目を開けた。
そして、そこには。
――俺はお前だ。
自分自身が立っていた。
「ん? 神力が動いた……あなたのなかでなにが起きているのかな?」
少女は首を傾げる。
植物のベッドに横たわる少年から、強い神気を感じる。少女が与えた神気だけではない、それをきっかけに彼の中に眠っていた神力が目覚めたのだ。
ようやく少女は気づく。
「そっか、あなたはスレイの真なる器なんだね。だから、スレイの力を持ってる。ああ、そういうことかぁ」
少女は初めて器という存在を見た。
その初めてが、愛しい人の器というのは運命を感じた。
ゆえに、少女は観察する。興味深く、注意深く。
愛しい人と同一ともいえる少年を観察し続ける。
そして気づいてしまった。
「あれ? あなた……呪われてる?」
凝視する。
少年の中に、小さな呪いが施されている。
「うん? 違うね、これはスレイにかけられた呪い。でも、あなたにも影響が出ているんだね、同じ存在だから」
少女は一人頷きながら納得する。
「スレイにとっては、記憶操作に近いけど。あなたは人間だから負担が大きい、だから目を覚まさないんだ」
なら、と少女は植物たちを動かし、少年とできるだけ距離を近づける。
檻から手を伸ばし、少年の胸に小さな掌を乗せる。
「君の呪いだけなら今の私でも解くことができるよ。えいっ!」
ズン、と少年を中心に圧迫感がかかる。
可愛らしい掛け声とは裏腹に、もの凄い神力を少女が使ったのだ。
少年が苦しそうにうめくが、少女は力を緩めはしない。
我慢をしてもらわなければ、解けないのだから。
心の中で「ごめんね」と呟きながら、少女は少年に力を使い続けた。
「立てるだろ? 立てよ」
そう言われて、一成は自分が寝ていることに気が付いた。
ゆっくりと立ち上がると、目の前にいる自分以外はすべて黒一色の世界だった。
「ここがどこか、なんて質問はなしだ。聞く必要はないだろ、お前にはわかってるはずなんだからさ」
「……俺の中?」
「正解。言ってみれば、ここは俺たちの心の中さ。俺とお前は本来なら一つの存在なはず、だけどなんらかの理由で別れちまった。まったく参るよな」
目の前の一成が肩をすくめて見せる。
そのどこかスカした態度に覚えがある。高校を停学になってから、街で喧嘩ばかりしていたときの自分だ。
「別に俺があの時の俺ってわけじゃない。でもな、人間にはいろいろな面がある。それはお前にだってわかるだろう? お前みたいな奴、俺みたいな奴、他にもウジウジした奴や、暗い奴、いつも怒っている奴に、頭のイカれた奴まで居やがる。俺はそんな中ではマシな方さ」
「じゃあ、俺は?」
「うーん。お前はもっとも俺の中で俺を占めている人格ってところか? もちろん、お前の中にだって俺はいるんだ。今は、こうして出てきてるけどな。誤解がないように、出てくるつもりはなかったし、お前に取って代わるつもりだってない。ただ、いろいろと言っておこうと思ってさ」
――お前は気づいてないみたいだから。
一成はそう自分自身に告げた。
だが、その言葉の意味がわからない。
「わからなくていいんだ、気づいてないんだから。じゃあ、まあ、さっさと始めるか。まず、俺たちは神の器だった。それはいいか?」
「あ、ああ」
「だけど、神が器を手に入れるには、俺たちが同意しないと駄目だ。しかし、同意すれば必ず神が宿れるわけじゃない」
言っている意味がわからなかった。
一成のそんな内心に、わかっているとばかりに一成が続ける。
「器として覚醒してなければ受け入れることができない。俺たちは覚醒し始めたが、覚醒しきれたなかった。だけど、ニールとの戦いで俺たちは覚醒した。原因は、神気を浴びたからだ」
「待て、だったら龍神にやられた時だって、そうだろう?」
「いや、違う。ニールが使った力に理由があるんだ。表のお前は気づけないことだから、裏の俺たちが教えてやる。ニールの力は戦神スレイの力――俺たちの半身の力を使っているんだよ」
どうしてだかは知らないけどな、と一成は付け足す。
「だけど、そのおかげで俺たちは覚醒した。真なる器となった。力も魔力ではなく、神力になり、人間という殻を破ったんだ」
「じゃあ、俺はもう人間じゃないってことか?」
「まだギリギリ人間――じゃないな。人間でもなく、神でもない。中途半端な存在だ。そこで、お前は選択をしなきゃいけない」
一成の態度が変わる。
真剣に、身を案じているような表情を浮かべて、心配するような声を出す。
「どんな選択をしても、後からああすればよかった、こうしとけばよかった。そんな風に思うことは今に始まったわけじゃない。いつだってそうだろう?」
「そう、だな」
「だけど、今回お前がしなければいけない選択は、今までしてきた選択よりも大きい。それこそ、俺たちが生きるか死ぬかの選択だ。一度は死に掛けた命だが、だけどこうして俺たちは今を生きている、だから精一杯足掻いて生きてほしい」
――だから、器になることに同意しないでくれ。
泣きそうな表情を浮かべ、懇願するような声で一成はそう言った。
いったい、どうしてそんな顔をしているのか、どういう意味で今の台詞を言ったのか、問おうとして――視界が変わった。
「あっ、よかったぁ。目が覚めたんだね」
少女の声が響いた。
最新話投稿しました。「覚醒」を経て、仲間たちに視点を移動させる予定です。
後々にはスッキリさせますので、今しばらくお付き合いください。