42 「降臨」
苦しくて苦しくてしかたがなかった。
呼吸が上手くできず、口をパクパクと上下させながら、意識すら失うことができない。
結城悟は勇者である。
彼の中で勇者は強者であった。
ゆえに、自分は強者であるはずだ。しかし、今はこう無様に地面に伏して動くことができない。
ありえない。信じたくない。
思考だけが唯一動く。だが、逆にそれが悟のプライドを余計に傷つけた。
どれだけ、その苦しく屈辱の時間が続いただろうか。ふと体が軽くなる、呼吸がしっかりとできることを確認すると、今までの分を取り返すかのように大きく深呼吸を繰り返す。
「どうしてだよ?」
悟はゆっくりと立ち上がる。彼の瞳には暗い闇が宿っていた。
「どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけなんだッ!」
本当ならば、這い蹲るのは自分の敵のはずだ。異種族というに人間の敵を倒す、アンナのために。
そう思ってきたというのに――
「馬鹿にするなぁああああああッ!」
恐怖と屈辱をエルフに覚えさせられて、仲間に助けられなければ斬り殺されていた。
それだけでも我慢できないというのに、自分よりも前に勇者をやっていた奴が生きていた。その元勇者がニールと戦い、なにか別のものへと変わった。
理解できない、したくない。
駄目だ、と悟は自分に言い聞かせる。理解してはいけない。それをしてしまったら、自分の価値がわからなくなってしまう。
だが、もう遅かった。
したくないと思えば思うほど、そちらに意識してしまう。そして、自覚してしまった。
「僕は勇者のはずなのに、主人公のはずなのに、僕よりもまるであいつのほうが主人公みたいじゃないか――だったら僕はなんなんだよぉ」
この世界は悟のために用意された舞台。そう思っていたのに。
異種族を、魔王を倒し、ハッピーエンドを迎えるはずだったのに。
障害が立ちふさがっているのではない、あきらかに邪魔をされている。
――許せない。
宿った闇が育ち、狂気となる。
小さな狂気は、悟の中で大きく育っていった。
一成を憎み、ハイアウルスを憎み、ムニリアを憎んだ。役に立たないサンディアル王国兵を憎み、ニールすら憎しみの対象になった。
憎しみが育ち、狂気と混じり憎悪となる。
ふらつく体を荷馬車に預けると、荷馬車が燃えた。
真っ黒な炎によって。
狂気と憎悪がまるで炎になったようにさえ思えた。
そして、悟は気づく。これが自分の魔力から生まれた炎なのだと。
笑う。笑う。笑う。
これだけ感情が壊れそうなほど暴れているのに、こんなにも苦しい思いをしたというのに――この程度なのか、と。
炎上する馬車から離れ、ゆっくりと歩き始める。
「ひ、ひぃいいいッ!」
誰かの悲鳴が聞こえ、悟は思い出す。
すぐ近くに転がっているのは、人質として使おうとしていた帝国へと逃げた裏切り者の家族たち。
「ああ、そういえば、いたね」
すっかり忘れていたとばかりに、興味なさ気な声をだす。誰もが悟を怯えた顔で見ている。それが心地よかった。
胸が少しだけ軽くなる。だが、本当に少しだけだ。
もう利用価値はないだろう。戦場で何が起きているのか悟にはわからない。見てもきっと理解できない。ならば、人質がいると言ったところで無様でしかない。
「いっそ、殺そうかな……」
暗い瞳のまま、そんなことを言う悟にカーティアたちの親は怯えを隠せない。
カーティアの父である、ユリウス・ドレスデンだけが、悟の狂気に怯えながらも必死に何かをうったえようとしている。だが、猿轡が邪魔でなにを言っているのかわからない。
「あまり大きな声をださないでね」
なにを言っているのかわからないのに少し苛立って、猿轡を外してみると、唾を飛ばさんばかりの勢いでユリウスは悟を責め立てた。
「貴様はなにをしているのかわかっているのか? せっかく戦争が終わったというのに、どれだけの理由があって帝国と戦っている! しかも私たちが人質だと? ふざけるな、私はサンディアル王国の貴族、ドレスデン家の――」
「うるさいって」
猿轡を外したことを心底後悔しながら、悟は護身用に持っていたナイフをユリウスの喉元に一閃した。
鮮血が噴出し、悟を赤く染める。噴出した血は地面に赤い水溜りをつくり、どんどんと広がっていく。
ユリウスは最後までに口を動かしていたが、なにを言っているのかわからなかった。もしかしたら、本人は喉を切り裂かれたことすら気づいていない可能性もある。
そう思うと酷く滑稽だった。
「さて、と」
地面に倒れながら震えている四人を見る。
誰もが恐怖に表情を歪ませている。そんな大人を見ることで、快感に近いものが悟の体を支配する。
「こ、殺さないでください」
「ああ、どうしようかな。利用できるかもしれないから生かしておいてもいいけど、騒がれても嫌だしなぁ。でも、猿轡をするのも面倒だから、どうしようか? ねえ、ここで死んじゃうのと、必死で黙って僕の言うことを聞くのって、どっちがいい?」
「言うことを聞きます、だから」
「大丈夫、素直に言うことを聞くならなにもしないよ」
最後には殺すけどね。
そう心の内で付け足しながら、悟は笑みを浮かべた。
この場にニールがいれば変わったかもしれない。だが、ここにはいない。それが現実だ。
悟は壊れてしまった。
恐怖と屈辱、自分が主人公だと信じて疑っていなかった願望が壊されたこと、そのすべてに耐えることができなかった。否、耐えることを拒否したのだ。
――気に入った。
どこかで女の声がした。
癖のある甘さを持った声だった。
――私はお前が気に入った。どうだ、力を与えよう。
誘うように甘い声が響く。
「だ、誰だッ?」
あたりを見回すが、声の聞こえる範囲では地面に倒れている四人しかいない。
ならば、この声はどこから聞こえてくる?
――私は神だ。
――お前の近くで暴れまわっている神よりも強く上位な存在。
――お前の感情は好ましい、実に好ましい。
――負の感情は力の糧となる。
――私を受け入れろ。受け入れると言え。さすれば、私がお前に絶大な力を与えよう。
――お前にはその資格がある。
――今、この場で、お前だけがその資格を持っている。
酔いそうなほど、甘美な誘いだった。
甘ったるい声と誘惑に、心を説かされてしまいそうになる。
「僕、だけ?」
悟は体を震わせながら、ゆっくりと呟いた。
――そうだ。お前だけ。お前だけが私を受け入れることができる。
――さすれば、お前は私から与えられた力で、お前に屈辱を与えた奴らを殺すことができる。
――さあ選べ。
――お前次第だ。
――弱者のままでいるか?
――それとも強者になるか?
「僕は強者になりたいッ!」
――ならば受け入れろ。
――私を受け入れろ。
――その願いを叶えよう。
「受け入れる、僕はこの声が誰でもいい! 僕に力をくれるのならば、誰だって構わない! 僕に力をッ!」
――私はアンテサルラ。
――最高位の――神だ。
――お前も名乗れ。さすれば契約は交わされる。
悟は震えた。
これでいいのか、と一瞬の迷いが生じた。
だが、勝者になりたい。屈辱を味わうのではなく、屈辱を与える側でいたい。
誰も逆らえないくらいに、強くなりたい。
願望さえ自覚すれば、迷いは消えた。
もう躊躇いなど自分の中にはない。アンナのためだとか、そんな感情もなくなった。
心が軽くなった気がする。
「僕は結城悟だッ! 僕に力をッ!」
――結城悟、お前に力を与えよう。
――ここに契約は交わされた。
その瞬間、天空から巨大な光の柱が降り注いだ。
そして――
「ああ、久しぶりに大地に立った」
悟の姿で、声で、アンテサルラは言葉を発した。
「嬉ことに、戦神スレイだけではなく、その真なる器までいる。龍神クリカラも私を呼ぶとは面白いことをするものだ」
光の中から、悟は歩き出す。
もう悟はいない。体は支配され、意識は消えた。
真なる器ではない者が、強大な力を持つ神を受け入れればこうなってしまう。
「礼を言う、結城悟。短い付き合いだとは思うが、私の目的を果たすと同時に、お前の願いも叶えよう」
そう呟きながら、神は嗤う。
楽しそうに、嘲るように。
「ん?」
ふいに気づいた。
四人の人間が大地に倒れたまま、これでもかというくらいに恐怖に顔を醜く歪ませている。
「力を持たぬ哀れな人間よ、私の慈悲を受け取るがいい」
アンテサルラはそう言い放ち、四人へ向かい手をかざす。
瞬間――パァン、と四人の首から下が膨張し、弾けた。
残ったのは、醜く歪んだ顔だけ。
「さて、これを手見上げに懐かしい顔を見に行こう。そうだ、せっかくだから邪魔なものはすべて殺そう」
愉悦の表情を浮かべアンテサルラは笑う。
四つの首を片手にぶら下げて、子供のように笑い続ける。
――ここに神アンテサルラが降臨した。
最新話投稿しました。アンテサルアの登場です。