38 「勇者来襲12」
――ドクン。
一成のなかで、なにかが鼓動する。
――ドクン、ドクン。
鼓動は続く。
心臓が、いや、体の内側から、なにかが外へと出たがっている。
――ドクン、ドクン、ドクン。
なにかが鼓動するたびに、椎名一成という殻が内からが破られそうな気がした。
いや、それは気のせいではない。
確実に、一回の鼓動で殻が少しずつ破られていく。
――ドクンッ。
強い鼓動が脈打つと、バキッと体のなにかが壊れた音が確かに聞こえた。
それは、不吉な音であると同時に、力を与えてくれる希望の音でもあった。
一成は思う。
自分はどうなってしまうのか、まるで根本から変わってしまいそうな不安に震えながらも、体を微塵も動かすことのできない恐怖。
なによりも、自分がどこにいて、誰なのかということすら刹那の感覚で忘れてしまうことがある。
どのくらい時間が経ったのかもわからないまま、ただ戸惑いと不安、そして恐怖に支配され続ける。
いずれ自分は、自分とは違うなにかに変わってしまう。
そんな予感がした。
――ドクンッ。
そして、その予感は少しずつ確信へと変わりつつある。
じわり、じわりと力が湧いてくる。
仲間たちに告げたように、体から力があふれ出そうとしているのがわかった。
だが、それは一成の力ではないこともわかる。
とてつもない力だった。
自分の体の中に、これほどの力が存在していたなんてことが信じられない。
どうにかなってしまいそうだった。
――ドクンッ。
鼓動は続く。少しずつ、そして確実に、鼓動は強くなっていく。
鼓動するたびに、自分のなにかが変わっていく。
なにかが変わっていくと感じるたびに、自分ではなくなっていく。
そんな感覚が、恐ろしかった。
しかし、次第にその感覚すら死んでいく。
不安がなくなった。戸惑いもない。恐怖すら消えた。
だんだんとなにも感じなくなった。
――ああ、なんだか自分じゃなくなった気がする。
そんなことすら思った。
その変化を受け入れたわけではない。だが、それでも変化は続く。
一成は、自身の変化を人事のように感じている。
もう、抵抗したいとも思わない。
そして、本当の変化が始まった。
――バキンッ。
ついに内からなにかが弾けた。
弾けたなにかは、椎名一成という殻を割った。
体をなにかが侵食食していく。少しずつ、じわじわと、しかし確実に、侵食は続く。
まるで少しずつ自身が食われていく、そんな感覚さえ覚えたが、それでもとくに感情は動かない。
もう壊れてしまった、そんなことすら一成は思った。
――バキンッ。
殻が割れていく。
確実に、椎名一成という殻が割れていく。
すべてが割れ切ったとき、自分はどうなるのだろうか?
不安や恐怖を感じたわけではない。ただ、漠然とそう思った。
――バキンッ。
自分という破片が周囲に飛び散っていく。
砕けた破片は、まるで鏡のように一成のことを映していた。
戦う一成、涙を流す一成、笑っている一成。
それは過去の自分だった。
懐かしむわけでもなく、一成は過去を見続ける。
破片は降り続ける。
細かい、一枚一枚の破片が、一つずつ一成の過去を映している。
それは幻想的な風景だった。
そして、儚げな風景だった。
美しくもあり、切なくもあり、そしてなによりも失えば二度と手に入らない大事なもの。
手を伸ばして破片を掴みたい。そんな衝動に駆られた。
しかし、体は動かない。
――バキンッ!
そして、一番大きな音が響いた。
視界が黒く染まっていく。
思考が黒く染まっていく。
自分が溶けていく。
ぬるま湯にゆっくりとつかるように、暖かな日差しの中で、ゆっくりとまぶたを閉じるように、意識が消えていく。
――さあ、復讐を始めよう。
誰かの声が聞こえた。
――憎き、アンテサルラを滅ぼすために、私を受け入れろ。
――君は私の器だ。私の半身であり、もう一つの可能性。
――私は君で、君のもう一つの可能性でもある。
――私たちは共にあるべきだ。
男の声が、今にも眠ってしまいそうなほど意識が薄れている一成の脳裏に響く。
優しげな声だった。それでいながら、その声には強い意志と、押さえきれない怒りを感じることができる。そして、誰かを思う、深い愛情も。
一成に語りかけている男は誰かを深く愛していたのだとわかる。
それが羨ましいと思った。
一成は、誰かを愛したことはない。好意を持ったことがあっても、それは愛情ではない。
どこか冷めた人間だったことは自覚している。
ゆえに、男の声から感じる深い愛情に羨望を覚えた。
――だが、今は時間が必要だ。
――もうすぐ私は君のもとへとたどり着く。
――その時に、会い見えよう。
男の声が遠ざかっていく。
ノイズが混じるように、距離が遠くなるように。
――一時の別れだ、愛しい半身よ。
――いずれ、また。
――バキンッ!
最後の殻が、割れた。
そして、一成の意識は途切れた。
漆黒の世界。
一成の体は浮いていた。
右も左もない、上も下もない、ただ漆黒に染まった世界。
肉体ではなく、精神体の一成は意識を失ったまま浮き続けている。
意識はない。
ただ、眠るように、安らかな表情を浮かべて一成はその場にただ、浮かび続けていた。
そんな彼に、虚空から蔦が伸びてくる。
一成を支えようと、蔦は手足に絡みついていく。
蔦は枝分かれをし、ただ漆黒の世界に広がっていく。
ある一定の空間に蔦が広がると、蔦のいたるところから色とりどりの花が蕾をつける。
緑の葉が広がり、植物が空間に根付く。
蕾は次第に花を咲かせ、一成を中心に鮮やかな花弁を広げていく。
それは、幻想的な絵のようだった。
少し少し漆黒の空間に、色鮮やかな植物が侵食していく。
どこかへ続く道のように、植物たちが生まれ、育ち、広がっていく。
そして、植物たちによって作り出された一本の道の果てに、一人の少女の姿があった。
太い幹に囲まれた、植物の監獄の中に、その少女はいた。
純白のドレスを身に着けた、裸足の少女。
若々しい樹木のような美しい髪が、地面に広がっている。
正確な年齢はわからないが、十台半ばを過ぎたぐらいだろう。まだ、幼さが残る、愛らしい容姿をしている。
彼女は歌っていた。
長い時を歌っていた。
彼女の歌に反応して、植物たちが踊りながら生長していく。美しい歌声が響き渡るたびに、新たな命が芽吹いていく。
――美しい。
どれだけ言葉をならべようが、最後にはこの一言に落ちくはずだ。
この光景を見る者は、この幻想的な美しさに目を奪われ、心も奪われるであろう。
少女は歌い続ける。
愛しい人を想う歌を。
愛しくて愛しくて自分の気持ちが抑えられない。
だが、愛しいあなたは、私のせいで怒りに狂ってしまった。私のせいで呪われてしまった。
しかし、あなたは呪われたことに気付かず、自身の行動の矛盾や破綻に気付くことなく、多くの人を苦しめる。
あなたはいつか、その呪いに気付いたとき嘆き悲しむだろう。
こんなことはしたくなった、こんなはずではなかったと。
だけど、私には慰めることができない。あなたに触れることすらできない。
唯一できるのは、ここから願いと思いを込めて歌い続けること。この歌が届きますようにと願いながら、あなたへ向けて歌い続けること。
私の歌であなたの呪いが解けますように、あなたが呪いに少しでも早く気付きますように。
そして私は、あなたに会いたい。
そんな内容の歌だった。
愛情に溢れながらも、悲しく儚い旋律の歌が響く。
植物は少女を慰めるように、色とりどりの花を咲かせていく。
ふと、少女が歌を止めた。
植物たちも動きを止める。
少女は気付いた、漆黒の空間に一人の少年が、自らの歌でできあがった色鮮やかな植物たちに囲まれて意識を失っていることに。
「――スレイ?」
思わず、その名を口にした。
その名は愛しい人の名前。
長い生の中で、唯一愛し、今も愛し続けている大切な人の名前だった。
少年から、彼の力を感じる。
肌の色は違く、髪型や服装なども、自分の記憶にある最愛の人とは違っている。
だが、見間違えるはずがない。
強さを感じさせながら、優しさと儚さを備える彼の神気――それが少年から伝わってくる。
愛しい人の神気を、本当に久しぶりに感じたことで少女は嬉しさを我慢できずに涙を零した。
この暗く孤独な世界で狂わなかったのは、愛しい人への愛と、慰めてくれる植物たちのおかげだった。
涙を零しながら、彼女は檻の中から必死に手を伸ばす。
だが、少年に届くことはない。それが辛かった。
ゆえに、少女は再び歌い始めた。
歌に再び反応して、植物たちが動きだす。
蔦が少年に何重にも撒きつくと、ゆっくりと道を引きずってくる。
ゆっくり、ゆっくり。怪我などさせないように。
少女の意思ではなく、植物たちが少女のためを思い自ら判断し動いているのだ。
やがて少年は少女の檻の前へと寝かされる。
伸ばした少女の手が、少年の頬へと届いた。
そして、気付く。
彼は愛しい人であって、愛しい人ではないことに。
同じ存在ではあるが、少女の愛した人ではないとわかってしまった。
だが、それでも、彼を感じさせてくれた少年に少女は感謝する。
意識を失っていることはわかっている。いつ、目覚めるかはわからない。
それでも、問わずにはいられなかった。
「あなたは、だあれ?」
最新話投稿しました。出てきた少女の正体は後に明かします。