36 「勇者来襲10」
アンナ・サンディアルは自室にて書物を読んでいた手をピタリと止めた。
アンナ――ではなく、魔神は歓喜の笑みを浮かべる。
「ああ、私の力を感じる――目覚めたか、椎名一成」
書物を机の上に置き、魔神は立ち上がる。彼は窓へと近づき、城下を見下ろすと感慨深く大きく息を吐いた。
思い出すのは、眷属と民と暮らした古の神代の時代。
肉体を持ち、力を持ち、眷属と共に民を守るために、敵対する神々や、人を害する存在と戦い続けた懐かしくも愛しい日々。
そして、いつも自分の隣には最愛の人がいたことを思い出す。
「だが、もうすでに彼女はいない……」
寂しそうに、悲しそうに魔神は呟く。
「この国は平和だ。いまだ世界は統一されず、大小の争いがあることも変わらない、だが、少なくとも私が生きていた時代よりも平和で穏やかだ」
その言葉は穏やかだった。
魔神は城下町で笑う人々を見て微笑む。
途中、一人の子供が転んで泣くが、母親を見つけると自らの足で立ち上がり涙を拭って母親の元へと駆けていく。
そんな光景を見守っていた魔神の笑みはより深まった。
もしかすると、本来の魔神はこのような人物なのかもしれない。
「この国の国王は先代と比べられているせいで評価は高くないが、決して悪い王ではない。むしろ、よき王だと私は思うよ、アンナ」
だが、アンナからの返事は返ってこない。
そのことになにか思うことがあったのか、魔神は浮かべていた笑みを消して無表情になる。だが、その感情のない顔が悲しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「器と騎士が、勝手に仲間を殺すために出奔してから君は主導権を手放してしまった。いや、それは私が力を貸さなかったせいか? だが、私はもう君に、これ以上の力を貸すわけにはいかない。これ以上の力の貸与は君自身の体が持たない」
やはり返事は返ってこない。
アンナの精神は、深いところで眠っている。
悲しみのせいで。
家族になると信じて疑わなかった仲間を、部下が命を奪いにいってしまったのだ。力量を考えると希望はない。
例え、カーティアたちが帝国にいるとしても、ニールならば目的を達成してしまうだろう。
――そう思ってしまうことに、アンナも魔神も疑問を覚えなかった。
そして、アンナは悲しみに暮れて、魔神に体を譲り渡してしまった。
だが、それはアンナにとって悪いことではない。魔神が体を支配することによって、体の崩壊は遅くなる。
それだけが、たった一つの救いだった。
「哀れな少女、アンナ……君は目的のために対価を支払ったが、それでももう時間がない。だが、ここにきて、君と私の望まない筋書きの中で、ようやく私の真なる器が覚醒した。これで私たちは前に進むことができる。君も私も復讐に捕らわれ呪われたもの同士、最後まで共に歩もう」
返事が返ってこないことはもうわかっている。彼は、窓から離れ、壁に描かれた魔法陣に手をかざす。
「さあ、私の半身よ――今、迎えに行く」
古代語を唱え、魔法陣に魔力を込める。
そして、少女の姿は部屋から消えた。
白き龍、シャオは龍神と離れ、一人別行動をしていた。
感じる魔力を手繰り、とある人物の元へと歩いていく。
目的の場所は、一般的な民家だった。
彼女はノックもせずに扉を開けると中へと入る。すると、そこにはエルフの姉妹が血だらけとなって倒れている。
「やはり、魔力を返されたせいで大きなダメージを受けたか」
シャオの声に、シェイナリウスがピクリと反応する。
「お前は、誰、だ?」
弱々しい声で、呟いた。シェイナリウスの意識は保たれているが、それももう限界に近い。
大結界という大魔術を、たった二人で即興で作り上げたのだ。それだけ、二人のエルフの魔術技量の高さを伺える。だが、それでも限界はある。
妹のレインは意識を失い、呼吸もかすかにしている程度だった。
シェイナリウスはまだ大丈夫かもしれないが、レインのほうはそう時間がかからずに事切れるだろう。
「少し待て」
シャオはそう言い放ち、二人の傍へとしゃがむと、倒れている彼女たちの背中に手を当てる。
そして、
「強い痛みが伴うが、我慢しろ」
返事など聞かずに神気を二人に流し込んだ。
「あああああ……ッ!」
「ぐッ」
エルフの姉妹が苦痛の声を上げるが、シャオは構いもせずに神気を流し続ける。
しばらくして、息を切らしたシェイナリウスとレインの体は癒えていた。もっとも、消耗の激しかったレインはすぐに起き上がることはできないだろうが、シェイナリウスはゆっくりと起き上がろうとする。
「あまり動くことは進めない。あれだけの魔術が壊されれば、その反動は恐ろしいものだ。幸い、神気を流し込むことで傷と生命力を癒したが、失った魔力まで回復していない」
「助かった、礼を言う」
結局、起き上がることができず、倒れたままシェイナリウスは礼を言った。
「構わない、私は命令に従っただけなのだから」
「命令……それは、いったい誰の?」
「私は龍だ。その私に命令できるのは、龍神王様だけ」
「なッ……まさか、龍神はもう一成の命を奪いに来たというのか?」
「間違ってはいないが、正確には違う。龍神王は真なる器を見極めようとしていた、だが、神の力を感じ、その力を確かめるべくこの地へとやってきたのだ」
「神の力だと……?」
シェイナリウスの疑問に、「そうだ」とシャオは肯定する。
「お前も感じただろう。エルフの大結界を破った強大な力、あれが神の力だ」
「馬鹿な……ならば、一成は神と戦っているのか?」
「そうではない。神の力を持っている人間と戦っている。その人間がなぜ神の力を持っているかは、不明だ。しかし、龍神王様が介入したのだから、いずれ不明な点もはっきりするだろう」
「……そうか。しかし、なぜ龍神は私たちを癒すようにと?」
そのもっともな疑問に、シャオは簡潔に答えた。
「一つは、あれほどの結界をたった二人で、なんの触媒もなしに張ったことに対する敬意。もう一つは、あのお方の優しさゆえだ」
「優しさ?」
「そう。龍神王様は器の破壊という、一見すれば残酷な役目を負っているが、その役目に反してお心は優しく、慈悲深いお方だ。お前たちの結界も力ずくで破れることができたが、その反動で今のお前たちのようになることを危惧し、結界内にいる者たちを巻き込まないために、時間をかけて解除を試みたりするほどに」
表情こそ無表情だが、シャオの声からは確かに、龍神に対する敬意と慕う気持ちが現れていた。
だが、彼女の無表情が強張った。
「どうか、したのか?」
「これは――なんだ、この力は?」
シャオの戸惑いの声に、シェイナリウスは疑問の声を上げようとして、続けて気付く。
とてつもない強大な力が、圧迫感として襲いかかってきた。
なによりも、この感覚は魔力ではない。魔力も感じるが、それ以上に別の強いなにかがシェイナリウスだけではなく、シャオをレインをも襲う。
「これは……?」
苦しさと、吐き気さえ覚えながら、シェイナリウスはシャオへと問う。
「この力は、真なる器――お前たちの仲間である椎名一成のものだ」
「馬鹿な、一成はこんな力を持っているはずがない」
「本来ならば、な。だが、あの人間は器だ、真なる器なのだ」
「それがどうしたというのだ」
「覚醒した。つまり、真なる器として完成した。ゆえに、龍神王様に破壊される」
「……ッ!」
思わず息を呑む。
だが、わかっていたことではないか。
龍神は一度、一成の命を奪いにきている。しかも、問答無用にだ。
だが、その時は、大きく一成を負傷させたものの、命だけは奪わなかった。
――それは器として完成していなかったからか。
いまさらながらにそう思う。
だが、考えてみればそうだ。一成はもちろん、魔王リオーネや自分たちでさえ、一成が神の器であることは知らなかったのだ。
だから、見逃されたということだろうか。
――しかし、今回は違う。真なる器として完成したと目の前の龍は確かに言った。そして破壊されるとも、それはつまり……一成の死だ。
「駄目だ、それだけはやめてくれ」
懇願するように、シェイナリウスはシャオに向けて声を出した。
「私はまだ、一成になにもしてやれていない。一度、後悔し、再会も果たしたというのに、なにもできないままこれでお終いだというのか? 師としてなにもできず、ただ神の都合で殺されるのを見ていろと言うのかッ?」
「残念だが、そうだ」
シャオの瞳に写るシェイナリウスは涙を零していた。
だが、彼女はなにもできない。
大結界を破られた反動で、いくらシャオが癒したとしてもしばらうは動けない。龍神ならば、そう長い時間をかけずに一成を葬るだろう。
苦しみを極力与えないために、慈悲深く。
シェイナリウスを哀れに思う。彼女は、ここで自身の言ったようになにもできない。
エルフであろうが、神には逆らうことはできないのだから。
「私は龍神王様の元へと向かう。お前は――好きにしろ」
気付けば、自分の言い放った言葉に驚いていた。
好きにしろ。
まさか自分の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。
いつものシャオならば、冷ややかに動くなと言うはずなのに。
そのことに疑問を覚えながら、シャオはシェイナリウスとレインに背を向けて歩いていく。
「私は、無力だ……だが、それでも私は一成の師だ」
残されたシェイナリウスは、悔しさに唇を噛み締めながら、疲労と脱力感、そして痛みに悲鳴を上げている体を無理やり動かす。
「ぐ、う……うううううっ」
壁に手をつき、震える膝をなんとか支えながら、少しずつ立ち上がろうとする。
「姉、上?」
「レイン、気付いたか?」
「はい、実は少し前から、ですが体が動きません」
「気にするな、私も似たようなものだ」
妹の意識があることを知り、姉の意地を張って、声を上げることを我慢し、立ち上がった。
ゆっくりと、シェイナリウスはレインの元へ向かう。
「立つことはできるか? 私は一成の下へと向かう」
「私も、一緒に……」
「ならば手を貸そう、さあ」
立っているだけでもやっとだが、自分よりも消耗が激しい妹の手を取り、力の限り引っ張り立たせる。
「すみません、姉上」
「大丈夫だ、いくぞ。一成の所へ」
レインに肩を貸し、互いに互いを支えるように、二人は歩き出した。
仲間として、師として、個人として、シェイナリウスとレインは一成の下へと向かった。
最新話投稿しました。魔神の登場が近づいています。エルフ姉妹も一成の下へ。