35 「勇者来襲9」
――それは黒い獣だった。
元勇者椎名一成――であった、その少年は、別のなにかに変わってしまった。
特に姿形が変わったわけではない。
それでも異形だった。
「うるぁぁぁぁああああああッ!」
顔や裂けた衣類からのぞく肌は褐色に染まり、黒髪は倍以上の長さとなって獣の鬣のよう。
理性を宿した瞳ではなく、間違いなく正気を失っている瞳は、さまざまな場所を追いかけている。
――まるでなにかを探しているかのように。
外見が変わったとしてもその程度。だが、彼の中でなにかがかわってしまったことに、ニールは気付いていた。
「し、椎名、一成……あなたはいったい、どうしたというのですか?」
呆然とその場に立ち尽くしながらも、ニールは恐る恐る声を出した。
「馬鹿者、声をかけるな!」
龍神が叱咤したが、既に遅かった。
ニールの視界から一成が消えた。
大きく目を見開く、その瞬間――横から襲いかかってきた衝撃にニールは大きく飛ばされた。
音を立てて、地面を数回跳ねると、最後には地面を滑るように転がっていく。
しばらく地面を転がり、ようやく止まると、ニールは何度も咳き込み、血の塊を吐き出す。
だが、獣の攻撃は終わらない。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああッ!」
咆哮とともに、黒い塊がニール目がけて降ってくる。
正体はもちろん、一成だ。
蹴りでもなんでもない、ただ高い場所からニール目がけて足を突き出し、踏み砕こうとしたのか、単純に追いかけただけのか。
いや、なにも考えていないだけかもしれない。
「うわああああッ」
ニールは今まで上げたこともない悲鳴を上げて、横に飛び退くと、膝を着いたまま一成から逃げ出す。
先ほどまでの彼とは思えない、恐怖に歪んだ表情を浮かべていた。
後ろを振り返れば、無感情無表情の一成がクレーターの中にいた。
魔力など感じなかった。
一成は唯一の武器である、魔力による身体強化は使っていない。だというのに、地面には大きなクレーターができていた。
信じられない。
そう思うだけで精一杯だった。
ニールがいつも浮かべている温和な笑みは見る影もない。ただ、恐怖だけが顔に張り付いている。
ようやく気付いた。ニールは自分が――変わってしまった一成を襲れているということに。
「馬鹿な、そんな、馬鹿な、私は……私は――」
ニールの右腕に光が集まっていく。
さきほど、一成に向けて放った光の剣。龍神によって霧散してしまった、その光の剣が、光の塊となってニールの右腕に宿る。
右腕が焼けるような激痛に襲われる。筋肉がきしむ音、血管がちぎれるような音がはっきりと聞こえてくる。
だが、それでも、ニールは右腕に光を集め続ける。
「よせ、人の身で神の力を直接使うことなどできん!」
「黙れっ!」
龍神の制止を声だけで振り切ると、ニールは光をさらに集める。
光は力となり、ニールの体内へと循環される。しかし、それは危険な行為だった。
与えられた力であり、制御できない力だ。唯一、自身で制御できる力以外を、剣という媒体へと封じることで、圧倒的な力を手に入れた。
だが、今は違う。
ニールがやろうとしていることは、制御することができなかった力を、何の媒体もなく、その身一つで使おうとしているのだ。
真なる器でもない、器ですらない、ただの人間でしかないニールにとって、それは死と同様のはずだ。
だが、彼はやめなかった。
「私は死ぬことはできない、私には目的がある。その目的を果たすことができるのならばどんな犠牲も払う、どんなことでもしてみせる、そう決めたはずだ!」
光が収束していく。
しかし、右腕だけではなく、肩や、胸までが、内からはじけそうになる力に耐えられず、皮膚が裂けて血が噴出する。
叫びたくなる痛みがニールを襲うが、ニールは決して痛みに恐怖したりはしなかった。
なぜなら、それ以上に目の前の――化け物のほうが恐ろしかったから。
「私はあなたのような化け物に殺されるわけにはいかないッ」
光が収まり、彼の右腕には一本の光の剣が。
刃は細く、長さも今まで使っていた剣と遜色ない。重さは感じない、だが、持っている自分自身でも圧倒されそうな力を感じる。
「見ろ、私は成功した! 戦神の力を制御してみせた!」
ニールは歓喜の声を上げる。
「あなたのおかげだ、椎名一成。あなたに心から恐怖し、死にたくないと思ったからこそ、私は至った!」
あとはこの剣で変わり果てた一成を切り伏せればいい。それだけだ。
――それだけだった。
だが、戦神の力を制御しただけで、一成に勝てるという理由にはならない。
「やめよ!」
「いいえ、やめません! 私は神の力を制御した、ならば私のほうが力が上です」
慢心しているわけではない。
だが、ニールは強大な力を制御することに成功し、その強大な力を得たからこそ、目の前の化け物を倒すことができると思っていた。
「違うっ! そこまで制御しておきながら、そなたには気付かないのか! その力は戦神の力――それは椎名一成の力でもあるのだぞ!」
その言葉はニールに届くことはなかった。
いや、届いていたのかもしれない。
だが、その言葉にニールが反応するよりも早く、クレーターの中から音もなく移動しニールの前に現れた一成が、光の剣を持つ彼の右腕を掴む。
骨が折れる音がした。
痛みを堪えながら、ニールはその力を放とうとしようとする。が、それよりも早く一成が折れた腕にさらに力を込め、自身に引き寄せた。
そして、空いた腕で一成はニールの顔面を殴りつけた。鈍い打撃音が響く。何度も、何度も、何度も。
鈍い打撃音に、水音が混ざる。
褐色に染まった一成の肌に、ニールの血が何度も何度も飛び散っていく。
――にたり
黒い獣ははじめて、感情見せた。
なにかを見つけて歓喜した子供のように、長年捜し求めていた最愛の人を見つけた孤独な者のように。
満面の無垢な笑みを浮かべたのだ。
そして、再度ニールの顔面を強打すると、手を離した。
音を立てて、力なくニールはその場に倒れこむ。ただし、光の剣だけは決して放さなかった。
そのことに不満を感じたのか、一成の笑みが消える。
一成はしゃがみ込み、ニールの髪を掴むと、自分の目の高さまで彼を持ち上げると、声を出した。
「その力は“私”のものだ。返してもらおう」
口調も、そして声も、一成のものではなかった。
わからない、別の誰かが一成を操っている。そんな印象さえ受ける。
「ならば奪い返すまでのこと」
一成の体を使い、何者かが声を出す。
拳に力を収束させ、意識があるのかないのかわからないニールに向けて、その拳を放とうとする。
だが、
「させぬ」
少年の体を持つ龍神がその拳を両腕で受け止めた。
轟音が響き、龍神とニールの背後の地形が削り取られる。
「覚醒ではなく、暴走したな……おかしい、そなたは真なる器ではないのか? 器が神を宿していない状態で、神と同じ姿になることはありえない。これではまるで――そなたが戦神ではないか?」
「黙れ」
言葉と同時に、拳が、蹴りが、龍神の小さな体を襲う。
だが、龍神は拳を捌き、蹴りをかわし、受け止める。
力量は拮抗しているように思われた、だが、
「この程度か、椎名一成」
受け止めた拳を離さず、龍神は至近距離から神気を放った。
しかし――
「馬鹿な……」
篭手に亀裂が入り砕ける寸前になり、神気をもろに浴びた上半身の衣類は無残になことになっている。それでも、一成の体には焼けど一つなかった。
それだけではない。先日に負った、神気による火傷すらない。回復しているのだ。
「ありえん」
驚きを隠せないまま、龍神は再度神気を放つ。ダメージをまったく与えていないわけではないだろうが、ほぼ無傷に近い。
神気を受けてダメージをほとんど負わないということは、神気に耐性がある特殊な体質か、もしくは神気を持っている存在――神――であるかのどちらかだ。
だが、椎名一成は人間だ。真なる器という、神の唯一完全な器であり、同一の存在といっても過言ではないが、それでも神ではない。
――ならば、目の前にいる存在はなんだというのだ?
そこまで考えて、龍神は思考を、動きをピタリと止める。
釣られるように一成も動きを止めた。
「詮索はよそう。気にはなるが、それは余の役目ではない。余の役目は――器の破壊。神の力を地上でいたずらに使わせないこと。今のそなたは危険過ぎる」
龍神は神気の質を変えた。
少年を覆い隠すように溢れ出すのは、真紅の炎。
龍神は神気を炎へと変換した。言うなれば、神炎。
浄化の炎。
本来ならば、龍という本性で放つことが一番の威力があるのだが、それでは一成から無意識に放たれている力によって身動きが取れない者まで巻き込んでしまうことは間違いない。
こんな状況でも、龍神は相手を一成だけに絞り、周囲への配慮さえする。
それを甘いと言う者もいるだろう。事実、龍の中には、龍神の考えについてこられず離反するものもいるのだから。
「結局、喧嘩をすることはできなかったな――興味を持った人間の最後がこのようとは酷く残念でしかない」
神炎を纏った龍神は、一成を滅するべく莫大な炎を放った。
真紅の炎は、すべてを焼き尽くさんとばかりに荒々しく音を立て、一成の逃げ場をなくすように囲み檻を作る。
檻の網目は炎によって埋まり、一成を包み込んでいく。
「さらばだ」
言葉とともに、龍神は開かれていた掌を握り締めた。
「うぉおおおおおおおおおおおッ!」
瞬間、一成は大きく咆哮し、放たれた炎の中へと消えた。
最新話投稿します。暴走した一成をニール視点から。
一成の内面、他の仲間からの視点は後日お届けします。