三十八年後に、あなたを蘇らせる
◆ 作品概要・コンセプト
「愛とは、変わり続けることか。変わらないことか。」
凍結保存技術が発達した異世界。主人公の女性科学者・ミズカは、38年前に事故で意識を失い「完全凍結(クリオ封印)」された初恋の青年・ルカを、自分の人生をかけて蘇生させようとしてきた。23歳で始めた研究が、61歳になった今もまだ終わっていない。そしてついに、その日が来た。
蘇生したルカは、あの日のまま23歳だった。ミズカだけが38年分、老いていた。
本作は「時間の非対称な愛」を主題にしながら、凍結保存・蘇生という科学技術を異世界ファンタジーとして昇華させた純愛物語。読者が最後の一行を読んだとき、思わず涙がこぼれる結末を目指す。
◆ 主要登場人物
ミズカ(水薫)61歳 / ヒロイン
フロンティア蘇生研究所の最高技術師。凍結保存技術の世界的権威。23歳のとき、幼なじみのルカが事故でクリオ封印されて以来、38年間蘇生研究に人生を捧げてきた。白髪混じりの黒髪、穏やかな眼差しの中に揺るがない意志を持つ。
ルカ(流夏)23歳(封印時) / ヒーロー
蘇生後も肉体的には23歳のまま。幼い頃からミズカと一緒に育ち、事故の直前に「好きだ」と告げる直前だった青年。目覚めた直後は混乱しているが、38年後の世界でミズカを探す。
テオ 45歳 / サブキャラクター
ミズカの研究室の副所長。長年ミズカを支え続けてきた片思いの存在。ルカの蘇生を誰よりも複雑な思いで見ている。
◆ 詳細あらすじ
凍結保存技術が医療の一翼を担う異世界。「クリオ封印」とは意識を停止させ、肉体の時計を完全に止める技術であり、不治の病や重大事故の際に用いられる。封印中の人体は老いず、傷つかない。しかし「蘇生」は封印よりもはるかに難しく、成功するまでに 10 年、20 年、場合によっては永遠に蘇れない者もいた。
フロンティア蘇生研究所の最高技術師・ミズカ(61 歳)は、その分野の世界的権威だった。
彼女の動機はただ一つ。38 年前、事故によってクリオ封印された幼なじみの青年・ルカを、自分の手で目覚めさせること。
23 歳の春に始まった研究。最初の 10 年は失敗ばかりだった。30 代では成功率が少しずつ上がったが、ルカの封印レベルは「深度Ⅴ」という最難関で、技術が追いつかなかった。40 代でついに「深度Ⅳ」の蘇生に成功。50 代には「深度Ⅴ」の臨床例を積み重ね、61 歳の今日、成功率 98.7%まで来た。
蘇生の日、封印カプセルが開くと、そこには 38 年前のままの顔をした 23 歳の青年がいた。
「……ミズカ?」ルカの最初の一言は、疑問符だった。目の前の白髪の女性が、自分の知っているミズカだとは、すぐには信じられなかった。
それだけ言って、ルカは黙ってミズカの皿に一品多く盛った。理由は言わなかった。
ミズカも聞かなかった。その小さな動作が、三十八年の何かを縮めた気がした。
「違う」とルカが言った。「ただ……お前の料理を食べるのが、三十八年ぶりかと思って。俺には昨日のことなのに」
「食べ方が変わりましたか」とミズカが聞いた。
蘇生後の初日の夕食を、ミズカが用意した。テーブルに料理が並んだ。ルカが席についたが、すぐには箸を持たなかった。
ルカにとって、事故は「昨日」だった。だがミズカにとって、38 年は「人生そのもの」だった。恋愛も、結婚も、自分の人生のほぼすべてを、この研究に費やしてきた。
蘇生後のルカは、この 38 年後の世界に戸惑いながらも、少しずつ現実を受け入れていく。ミズカの老いた手を見て、テオという男性がずっと彼女を支えてきたことを知り、自分のために失われた 38 年という時間の重さを理解する。「俺のせいで、お前の 38 年が……」
ルカはミズカに告白しようとする。しかし自分は 23 歳で、彼女は 61 歳。その非対称な外見に、言葉が出なかった。一方ミズカは「ルカには若い未来がある」と身を引こうとする。ふたりのすれ違いは、愛情の深さゆえの遠慮だった。
転機は「封印夢記録」の発見だった。蘇生技術の副産物として、封印中の脳活動の一部が夢として記録されていることが判明。38 年分の夢の記録を解析すると、ルカは凍結中も繰り返し同じ夢を見続けていた。ミズカを呼ぶ夢を。
「呼んだ。だから座ってくれ」
「今……名前で呼んだね」
低く、短く、ルカが言った。ミズカが動きを止めた。
「ミズカ」
ミズカが「ルカには若い未来がある、だから自由になってほしい」と立ち上がろうとしたとき。
名前で呼んだのは、その日が初めてだった。
蘇生してから、ルカはミズカを「お前」と呼び続けていた。
「遅かった、ではなくて。やっと来たね。」ミズカの言葉は、38 年間の研究の終わりであり、ふたりの始まりだった。
第一章
封じられた夏
── 三十八年前 ──あの夏は、雨が少なかった。
七月の終わり、ミズカは自転車で川沿いの道を走っていた。荷台には研究室から借りてきた資料が山積みになっていて、段差を越えるたびにずり落ちそうになる。気を遣いながら漕いでいると、前方から声がした。
「遅い」
土手の上に、ルカが立っていた。
夕陽を背にしているので顔はよく見えなかったが、腕を組んだ立ち姿は一目でわかった。二十三年間で覚えこんだシルエット。
「先に来てたの」
「三十分も待った」
「ごめんって。資料が思ったより多くて」
ミズカが自転車を止めると、ルカが坂を下りてきた。資料の束を黙って受け取り、荷台に積み直す。手際がよかった。研究のことは何も知らないくせに、こういうところだけ気が利く。
「何の資料」
「凍結保存の論文。低温生物学の先生に借りた。ウシ胚の生存率のやつ」
「……わかんない」
「わかんなくていい。私が読むから」
ルカは何も言わなかった。自転車を押して土手の上に上がり、川の見えるベンチに座る。ミズカもその隣に座った。夕陽が川面に反射して、水が金色に見えた。
こういう時間が、ミズカは好きだった。ルカと一緒にいて、特別なことは何もしないで、ただ川を見ている。小学生の頃からずっと、そういう時間だった。
「ミズカ」
「なに」
「話したいことがある」
声の調子が、いつもと違った。ミズカは川から目を離し、横を向いた。ルカの横顔が夕陽の中にある。どこか、緊張しているように見えた。
「なんか改まって」
「うん。改まって言う。だから聞いて」
ミズカは頷こうとした。
そのとき、音がした。
後で何度も思い返すことになるその瞬間の記憶は、不思議なほど断片的だ。金属が擦れる音。誰かの叫び声。自転車が倒れる音。ルカが川の方に倒れていくのを、ミズカは止められなかった。
坂が崩れた。大雨もなかったのに、土手の端が音もなく崩落した。ルカは落ちた。
川底のコンクリートに頭を打って、そのまま動かなくなった。
ミズカが駆け下りて、ルカの名前を呼び続けた時間がどのくらいだったのか、今でもわからない。救急車が来て、担架に乗せられて、病院に運ばれた。脳への損傷は、蘇生不可能と判断された。
「クリオ封印を推奨します」と医師は言った。「現在の技術では蘇生不能ですが、将来の技術向上を待つという選択肢があります」
ルカに身寄りはなかった。両親はすでに亡く、親族は遠方にいた。決断は、事実上ミズカに委ねられた。二十三歳の大学院生に、そんなことを決める資格があったかどうか、今でも時々考える。
「封印してください」
ミズカは言った。声が震えなかったのは、震える余裕もなかったからだ。
手続きに三日かかった。封印カプセルに収められたルカは、フロンティア蘇生研究所の保管室に移送された。二十三歳の大学院生だったミズカが個人で契約できる額ではなく、大学の指導教員が手続きを助けてくれた。
その日から、ミズカの研究テーマは決まった。
凍結保存された意識の蘇生。それ以外のことを、彼女は以後、一度も考えなかった。
* * *
── 現代 ──
今日、ルカを起こす。
ミズカは朝の四時に目が覚め、そのまま眠れなかった。六十一年生きてきて、こんなに眠れない夜は三度しかなかった。母が死んだ夜。研究で初めて「深度Ⅳ」の蘇生に成功した夜。そして今夜。
鏡の前に立つ。白髪の混じった黒髪が、肩の上で揺れる。刻まれた皺が、光の角度によっては深く見える。六十一歳の顔が、そこにある。
あの夏から、三十八年経った。
研究所の廊下を歩く。まだ誰も来ていない時間。磨かれた床に自分の足音だけが響く。蘇生室 B の扉の前で、一度立ち止まった。深呼吸を三回。それが、ミズカの儀式だった。発表の前も、大切な手術の前も、必ず三回。
扉を開ける。
室内は静かだった。中央に置かれた封印カプセル――流線形のガラスと金属の筐体――の中で、ルカは眠り続けていた。三十八年前と、まったく同じ顔で。
二十三歳の横顔。
ミズカは椅子を引き寄せ、カプセルの前に座った。こうするのは何百回目だろう。
深夜に研究が行き詰まったとき。誰かに怒鳴られて、泣きたいのに泣けなかったとき。
「もう無理かもしれない」と、心が折れそうになった夜。いつもここに来て、この顔を見た。
「今日、起こすよ」
ガラス越しに声をかける。返事はない。三十八年間、一度も返ってきたことのない返事。それでも話しかけ続けたのは、ミズカが少し、おかしくなっていたからかもしれない。あるいは、それが正気を保つ唯一の方法だったか。
カプセルの表面に、指先で触れる。冷たい。いつだって冷たい。
この冷たさが、いつか終わる。
六時になると、テオが来た。副所長の白衣が、ドアの隙間から現れる。四十五歳になった彼の顔も、ミズカが初めて会った頃とは変わった。でも目の奥の、何かを心配するような光は、変わっていなかった。
「また夜中から来てたんですか」
「眠れなくて」
「……今日、本当にやるんですね」
ミズカは答えずに、モニターの電源を入れた。起動音。数値が並ぶ。三十八年分のデータが、一画面に収まっている。成功率九十八・七パーセント。ミズカの人生を全部かけて、やっとここまで来た数字だった。
「後悔はないですか」とテオが言う。
ミズカは少し考えた。後悔。その言葉が意味することを、正確に考えた。三十八年間、自分の人生を研究に費やしてきた。恋愛もしなかった。子供も持たなかった。
友人のほとんどは、別の人生を歩んでいる。それは後悔か?
「ない」
即答した。
「……嘘つかないでください」
「嘘じゃない。後悔ゼロとは言わない。でも、やり直せるとしても、同じ道を選ぶ。
それが答えよ」
テオは何も言わなかった。長い沈黙の後、「わかりました」とだけ言って、準備に入った。
蘇生プロセスは八時間かかる。ミズカは一度も席を立たなかった。数値を見続けた。グラフの山と谷を見続けた。ルカの脳波が、三十八年間の眠りから少しずつ動き始める。その瞬間から目を離せなかった。
午後三時十四分。
カプセルが、音を立てて開いた。
蒸気が漂う中、ルカがゆっくりと目を開けた。焦点が定まらない瞳が、天井をさまよう。それからゆっくりと、ミズカの顔に向いた。
「……ミズカ、?」
疑問符のついた声だった。
ミズカは笑った。泣かないようにしながら、笑った。三十八年間、この瞬間のために生きてきた。この一言のために、人生を全部使った。それでも、
「やっと来たね」
声が、少し震えた。
第二章
目覚めの三十八年後ルカが最初に言った言葉は、疑問符だった。
「ミズカ?」 ではなく、「ミズカ、?」だった。イントネーションが上がった。
目の前の人間が、自分の知っているミズカかどうか、確信が持てないという声だった。
ミズカはその違いを、正確に聞き取っていた。
「そう」と彼女は答えた。「ミズカよ」
ルカはしばらく動かなかった。カプセルの中で半身を起こした姿勢のまま、ミズカの顔を見ていた。白髪の混じった髪。刻まれた皺。六十一歳の顔。
彼の目が、ゆっくりと下に向いた。自分の手を見た。それから部屋を見渡した。
見慣れない機械。知らない設備。白衣を着た人間が何人かいる。テオが離れた場所に立っている。
「……どのくらい」とルカが言った。
「三十八年」
沈黙があった。
ルカは何も言わなかった。ミズカも何も言わなかった。蘇生室の中で、モニターだけが音を立て続けた。バイタルが安定していることを示す、規則的な電子音。
三十八年。
ルカにとって、事故は昨日のことだった。夕陽の川。崩れた土手。落ちたときの感覚。それだけがあって、次の瞬間にはここにいる。時計は三十八年分進んでいるのに、自分の中では一秒も経っていない。
どう受け取ればいいのか、言葉が追いつかないのだろうとミズカは思った。三十八年間、この瞬間のことを何百回も想像してきた。ルカが目覚めたとき、何を言うか。
何を聞くか。どんな顔をするか。でも想像の中のルカは、いつも二十三歳のままだった。目覚めたルカが混乱するということを、ミズカは頭ではわかっていたが、どこかで「ルカなら受け入れる」と思っていた。
甘かった、とミズカは思う。
三十八年は、受け入れるには重すぎる。
* * *
その日の夜、ルカは別の部屋に移された。蘇生後の観察室。清潔なベッドと、最低限の設備。窓からは研究所の中庭が見えた。
ミズカは一時間後に会いに行った。ノックをして、返事を待ってから入る。ルカはベッドに座って、膝の上に手を置いていた。ぼんやりした目で窓を見ていた。
「入っていい?」
「どうぞ」
声は、あの頃と同じだった。低くて、少し穏やかな声。ミズカは椅子を引いて、ベッドの傍に座った。
「何か食べた?」
「食べた。ゼリーみたいなやつ」
「最初は消化のいいものしか食べられない。一週間くらいかかる」
「そう」
ルカは窓から目を離さなかった。中庭に木が一本ある。秋の木で、葉が半分落ちかけていた。
「九月か」とルカが言った。
「うん。九月の十四日」
「あの夏は七月だったから」
「そう」
また沈黙。ミズカは急がなかった。三十八年待ったのだ。沈黙くらい、いくらでも待てる。
「ミズカ」
「なに」
「いくつになった」
「六十一」
ルカがミズカを見た。初めてまともに、正面から見た。ミズカは視線を受け止めた。逃げなかった。六十一歳の顔を、見せた。
ルカは何も言わなかった。また窓に視線を戻した。木の葉が、一枚落ちた。
「研究してたの」とルカが言った。「俺を起こすために」
「そう」
「三十八年」
「そう」
ルカの肩が、少し下がった。深呼吸したような動き。
「なんで」
ミズカは少し間を置いた。
「起こしたかったから」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘ではなかった。他に理由を言葉にしようとすると、うまく出てこなかった。三十八年間、自分がなぜこの研究をしているのか、人に説明したことが何度もある。でもそのたびに、どこかに違和感があった。「科学的な挑戦のため」「蘇生技術の発展のため」どれも嘘ではないが、どれも全部ではなかった。全部を言葉にするなら、
「起こしたかったから」以外に言い方がない。
ルカは何も言わなかった。
ミズカは立ち上がった。
「ゆっくりしていい。急がなくていい。三十八年分、戸惑うくらいいい」
扉を閉めるとき、ルカがまだ窓を見ていた。木の葉が、もう一枚落ちるところだった。
* * *
翌日から、ルカは少しずつ外に出るようになった。
最初は廊下を歩くだけだった。蘇生後の体は、三十八年眠っていたことが嘘のように機能していた。筋力の低下も、感覚の鈍化も、予想より軽かった。ミズカの研究チームが開発した蘇生プロトコルが、体の再起動を丁寧に行っていたからだ。
問題は体ではなかった。
ルカは研究所の中を歩きながら、ものを見続けた。壁に貼られたポスター。廊下を走るロボット搬送機。スタッフのバッジに記された日付。三十八年分の変化が、至るところにあった。
テオがルカに付き添っていた。ミズカの指示だった。「私が隣にいると、変に気を遣わせる気がして」とミズカは言った。テオは「あなたが気を遣ってるんでしょう」と答えたが、指示に従った。
テオとルカは最初、あまり話さなかった。テオがルカのペースに合わせ、ルカが立ち止まれば自分も止まり、歩き出せば一緒に歩いた。それでいいとテオは思っていた。言葉は後でいい。
三日目の朝、ルカが食堂のテレビを見ていた。ニュースが流れていた。知らない国の名前。知らない政治家。知らない技術の話。ルカは黙ってそれを見ていた。
「テオさん」とルカが言った。
「うん」
「ミズカは、この三十八年、何をしてた」
テオは少し考えてから、「研究」と答えた。
「それだけ?」
「……それだけ、ではないけど。でも、ほとんどそれだけ、かな」
「恋愛とか」
「しなかった」
ルカは画面から目を離さなかった。テオも、それ以上は口を挟まず、黙って画面を見つめていた。
「……なんで」とルカが言った。
テオは答えなかった。答え方を探した。「あなたのためだから」と言うのは簡単だが、それはテオが言うことではないと思った。「ミズカに聞いてほしい」と言うのが正確だったが、それを言うタイミングでもなかった。
「さあ」とテオは言った。「本人に聞いてみたら?」
ルカは何も言わなかった。画面に、また知らない地名が流れた。
* * *
一週間後、ミズカはルカを外に連れ出した。
研究所の近くに公園があった。緑が多く、朝は人が少ない。ミズカがよく早朝に歩く場所だった。ルカと並んで歩きながら、ミズカは何を話すか考えていた。でも考えすぎると言葉が出なくなるので、考えるのをやめた。
「木が多いな」とルカが言った。
「秋だから」
「三十八年前もこういう公園あった?」
「あった。でも木はもっと小さかった」
ルカが立ち止まって、一本の木を見上げた。幹が太い。長い年月が、年輪になって内側に刻まれている。外から見てもわからないが、中には三十八年分の時間がある。
「俺の知ってる世界は、もうない?」
ミズカは少し考えてから、「ある」と答えた。
「川はまだある。空もある。秋になったら木が色づく。それは変わってない。変わったのは、周りの速さだけ」
ルカは木から目を離し、ミズカを見た。
「ミズカは変わった?」
ミズカは笑った。
「三十八年分ね」
「中身が」
「中身も」
ルカはまた木を見た。風が吹いて、葉が何枚か落ちた。地面に落ちた葉は、少しの間転がってから止まった。
「話したいことがあった」とルカが言った。
ミズカの足が止まった。
あの日、ルカが言おうとした言葉。「話したいことがある」と言って、続きを言えなかった言葉。三十八年間、ミズカはその続きを考え続けてきた。何を言おうとしていたのか。友達として、大切な話なのか。それとも。
「覚えてる」とミズカは言った。「川沿いのベンチで、そう言って、続きが言えなかった」
「うん」
「今は、言える?」
ルカは少し間を置いた。
「……今はまだ、言えない」
「そっか」
「でも、いつか言う」
ミズカは頷いた。急かさなかった。三十八年待ったのだ。
ふたりはまた歩き始めた。秋の朝の公園を、並んで歩いた。
第三章
時間の傷ルカは研究所の図書室で、三十八年分の歴史を調べ始めた。
テオが端末の使い方を教えた。ルカは飲み込みが早かった。インターフェイスが変わっていても、基本的な操作の概念は同じだった。三日もすれば、一人でデータベースを引けるようになった。
何を調べるかは、最初は決まっていなかった。世界のことを知りたいとも思ったが、それよりも先に調べたいことがあった。
ミズカの研究。
彼女の名前で論文を検索すると、三十七件が出てきた。一番古いのは三十三年前。
最新のものは三ヶ月前。スクロールするほど、論文の質が変わっていくのがわかった。
最初の五年間は試行錯誤の跡が見える。失敗を重ね、方向を変え、また戻ってきた痕跡。十年目あたりから少しずつ成果が出始め、二十年目には「深度Ⅲ蘇生成功」という論文がある。三十年目に「深度Ⅳ」。そして去年、「深度Ⅴ蘇生プロトコルの確立」。
ルカはその最後の論文を開いた。英語で書かれていて、専門用語が多くてよくわからなかった。でも図表は読めた。グラフが右肩上がりに伸びていった。数字が積み重なっていった。三十八年分の、数字だった。
ルカは端末を閉じた。
窓の外を見た。中庭の木が、今日は風に揺れていた。
* * *
その日の夕方、ミズカは図書室に来た。
「ここにいると思った」と彼女は言って、向かいの椅子に座った。
「論文、読んでた」とルカが言った。
「私の?」
「うん」
ミズカは何も言わなかった。
「三十七件あった」
「そんなになったか」
「最初の五年は、失敗ばかりだったんだな、とわかった」
ミズカは窓の方を見た。「そうね」と言った。「最初の五年は、何をしているのかも正直わかってなかった。深度Ⅴの蘇生なんて、当時は理論すら曖昧で」
「なんで諦めなかった」
ミズカは少し考えてから、「諦める選択肢がなかった」と答えた。
「選択肢がない、じゃなくて、選ばなかった、だろ」
ミズカは笑った。「鋭いね」
「昔からそういうとこ、直さないな」
「どういうとこ」
「誤魔化す言い方をする。本当のことを言いにくいとき」
ミズカは少し黙った。三十八年経っても、ルカはミズカの癖を覚えていた。三十八年前の記憶で、今の自分を見ている。
「……選ばなかった、が正確ね」
「なんで」
「あなたが目覚めないまま、私が別の何かを選ぶイメージが、どうしても浮かばなかった。それだけ」
ルカは端末に目を落とした。閉じたままの画面。その中に、三十八年分のデータが入っている。
「……俺のせいで」とルカが言った。
「違う」
ミズカが即座に遮った。珍しく、強い言い方だった。
「私が選んだこと。あなたのせいじゃない。私のせいでもない。あの夏の土手が崩れたのは、誰のせいでもない。でも、その後どう生きるかは、私が選んだ」
ルカは何も言わなかった。
「後悔してない、とは言わない。三十八年、後悔ゼロで生きてきたとしたら、それは嘘だから。でも、後悔は人生の一部で、全部じゃない。私の三十八年は、ここに来るためにあった。そう思ってる」
ルカがミズカの手を見た。老いた手。研究を続けてきた手。ルカの知らない三十八年を生きた手。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
ミズカが立ち上がった。
「夕飯、食堂で食べる?今日は消化のいいもの以外も食べていいって、担当医が言ってたから」
「……うん」
ふたりは図書室を出た。廊下を並んで歩いた。ミズカの歩幅は、三十八年前より狭くなっていた。曲がり角では、一拍だけ速度を落とす。ルカはその違いを、歩きながら覚えていた。
* * *
テオは夜、自分のオフィスで書類を処理しながら、ルカのことを考えていた。
テオがこの研究所に来たのは、二十年前だった。当時のミズカは四十一歳で、すでに研究所の中核を担っていた。採用面接でミズカは「この研究に賭ける覚悟があるか」と聞いた。テオは「あります」と答えた。半分は本気で、半分は見栄だった。
二十年働いて、テオはミズカのことを少しずつ知っていった。彼女が何に情熱を持ち、何に迷い、何に傷つくか。深度Ⅴの蘇生が本当に可能かどうか、テオ自身も確信が持てない時期があった。でもミズカは疑わなかった。疑いがないのではなく、疑いを超えた場所にいるように見えた。
そのルカが、今ここにいる。
テオはミズカのことが好きだった。研究者として尊敬していた。それ以上のことも、正直なところあった。でも二十年間、それを言わなかった。ミズカには別の時間があることを、テオは知っていたからだ。
テオは何も言わなかった。静かに廊下を歩いて、遠ざかった。
ルカが振り返らずに言った。「見るな」
廊下に気配がした。テオが扉の前で止まっていた。中に入らなかった。入れなかった。
来なければよかった、と思った。来てしまったから、知ってしまった。三十八という数字が、こんなに重いとは思っていなかった。
三十八冊。
ミズカの不在を確認してから、一人で棚を見ていた。ファイルが年度順に並んでいた。
二十三年度、二十四年度、二十五年度……。ルカは指でなぞっていった。六十一年度まで、ある。
ルカが、ミズカの研究室に無断で入っていた。
ルカが目覚めた今、テオは何かが終わったような気がした。終わったというのは正確ではない。終わることができた、という感覚に近い。ずっと誰かを待っていて、その人がやっと来た。だから自分はここで一歩引ける。そういう感覚。
書類を一枚、処理した。窓の外に、夜の中庭が見えた。木が暗闇の中にある。
テオは立ち上がり、電気を消した。
* * *
ルカが研究所に来て三週間が経った頃、ミズカはルカを川に連れて行った。
電車で三十分。かつて事故が起きた川ではなかった。別の川だった。でもミズカは「川の近くが好き」と言った。水が流れている音が聞こえると、落ち着く、と。
川沿いのベンチに座った。秋が深まっていた。水面が灰色に見えた。
「この研究所を出た後、どうするか、考えてる?」とミズカが聞いた。
「まだ」
「急がなくていい。ただ、ここはずっといられる場所じゃないから」
「わかってる」
ルカは水面を見ていた。ミズカも同じ方向を見た。
「就職するとか、学校に行くとか、色々選択肢はある。三十八年のブランクがある人間のための支援制度も、今の時代はちゃんとある。うちの研究所も連携してるから、手続きは一緒にできる」
「……俺、二十三歳に戻ったんだよな、体は」
「そう。今の制度では、クリオ封印されていた期間は年齢に算入されない。戸籍上も二十三歳相当の扱いになる」
「じゃあ、ミズカより若い」
「三十八歳、年下ね」
ルカがミズカを見た。
「おかしくないか、それ」
「おかしいよ」ミズカは真顔で言った。「すごくおかしい。でも事実だから、おかしいまま受け入れるしかない」
ルカは川に視線を戻した。しばらくして、「ミズカ」と呼んだ。
「なに」
「あの夏に言おうとしてたこと」
自分の脈が一拍だけ速くなったのを、ミズカ自身が気づいた。
「俺、ミズカのことが好きだった」
川の音がした。風が吹いた。ミズカは動かなかった。
「好きだった、って、過去形ね」
「今も、かどうかは……正直、まだわからない。三十八年のことを、俺はまだ全然わかってない。お前が六十一歳で、俺が二十三歳で、それが何を意味するのかも、うまく考えられない。だから今は、言えなかった言葉だけを言う」
ミズカは川を見たまま、「ありがとう」と言った。
「礼じゃないんだけど」
「わかってる。でも、ありがとう以外に言えることが、今は見つからない」
ルカは川に手を伸ばした。届かなかった。ベンチから川面まで、二メートル以上ある。それでも伸ばした。水に触れるつもりではなく、ただ伸ばした。
ミズカはその手を見ていた。
三十八年前のままの手だった。
第四章
やっと来たね封印夢記録の存在を、テオが教えてくれたのは、ルカが来て一ヶ月が経った頃だった。
蘇生プロセスの副産物として、封印中の脳活動の一部が記録されていることがわかっていた。凍結中の脳活動は完全には平坦化せず、通常の意識活動には届かない小さな周期信号が残る。それが夢に似た形で記録される。研究所ではそれを「封印夢記録」
と呼んでいた。
「ルカさんの記録を、解析してみたいんですが」とテオが言った。「もちろん、強制ではないし、ルカさんが嫌なら公開しなくていい。ただ、研究上、重要な資料になりうる可能性があって」
「どんなことが記録されてる?」
「まだ解析していないので、わかりません。でも通常の封印夢記録は、封印前の記憶の断片が繰り返し現れることが多い。夢の内容を整理したものです」
ルカは少し考えてから、「いい」と言った。
解析には一週間かかった。三十八年分のデータを処理し、パターンを抽出する作業は、チームの全員が関わった。
結果をテオがまとめ、ミズカに先に見せた。ミズカはそれを一ページずつ読んで、長い間何も言わなかった。
「……ルカに見せる前に、私に見せたのね」
「あなたが関係する内容が多かったので」
「そう」
ミズカはもう一度、最初のページに戻った。
封印夢記録の解析結果は、十四ページにわたっていた。三十八年分の夢のパターン分析。出現頻度の高いシーン。繰り返された記憶の断片。
最も高い頻度で現れたのは、川沿いのベンチの場面だった。夕陽。二人。ルカがミズカに何かを言おうとしている。それが三十八年間、繰り返されていた。
* * *
ルカに解析結果を渡したのは、翌日の午後だった。
図書室。ルカは一人でそれを読んだ。テオもミズカも、同じ部屋にいたが、声をかけなかった。
十分後、ルカが顔を上げた。
「俺、ずっとあの夢を見てたんだな」
「そう」とテオが答えた。「三十八年間、高頻度で同じパターンが繰り返されていた」
「ミズカに言おうとして、言えなかった、あの日の夢」
「そうみたいです」
ルカは解析結果を机に置いた。ミズカを見た。
「ミズカ、お前も読んだ?」
「昨日、見せてもらった」
「だから今日、こんな顔してんのか」
「どんな顔」
「泣きそうで、泣かないようにしてる顔」
ミズカは視線を外した。窓の外に、中庭の木がある。葉が全部落ちて、枝だけになっていた。
「……見えるの、相変わらず」
「昔から」
テオが静かに立ち上がり、「少し外しますね」と言って、部屋を出た。扉が閉まる音がした。
図書室に、ふたりだけが残った。
ルカが立ち上がり、ミズカの傍に来た。ミズカは動かなかった。ルカがミズカの隣に立って、同じ窓を見た。枝だけになった木。空が白い。
「俺、三十八年、夢を見てたんだ」とルカが言った。「お前に言えなかった言葉を、夢の中で何度も言おうとしてた。言えなくて、また目が覚めて、また言おうとして、また言えなくて」
ミズカは窓を見たまま、動かなかった。
「お前は三十八年、俺を起こすために生きてた。俺は三十八年、夢の中でお前を呼んでた。ずれてたんだな、方向が」
「ずれてたね」
「でも、向いてた方向は同じだった」
ミズカが、窓から視線を外した。ルカを見た。三十八年前のままの横顔。二十三歳の顔。その目が、ミズカを見ていた。
「好きだ」とルカが言った。「過去形じゃない。今も」
ミズカは何も言わなかった。
「三十八歳、年下で、おかしいのはわかってる。外から見たら変に見えるのもわかってる。でも、それはお前が決めることじゃなくて、俺が決めることだ。俺が好きだと言うことの責任は、俺が取る」
ミズカは何も言わなかった。
長い沈黙があった。
それからミズカが、ゆっくりと笑った。三十八年間で身につけた、泣かないための笑い方ではなく、本当に笑ったときの顔で。
「……やっと来たね」
「三十八年かかった」
「待ってたから、いい」
ルカが、ミズカの手を取った。老いた手。研究を続けてきた手。三十八年を生きた手。それをルカは、両手で包んだ。二十三歳の手で。
ミズカは手を引かなかった。
* * *
その夜、テオはミズカに「ご報告は?」と聞いた。
ミズカは少し考えてから、「色々あった」と答えた。
「そうですか」
「……テオ、二十年、ありがとう」
テオは少し間を置いた。
「何の話ですか」
「わかってるでしょ」
また間があった。
「……あなたのために働いてきたわけじゃないですよ」とテオは言った。「研究のためです」
「そうね」
「ただ」
「ただ?」
「……あなたが笑ってると、いいなとは思ってた。ずっと」
ミズカは何も言わなかった。
「引き続き、副所長として働きます。それは変わらない」
「……よかった」
テオは微笑んで、書類に目を戻した。
ミズカは廊下に出た。夜の研究所は静かだった。蘇生室 B の扉の前を通ったとき、足が止まった。扉を見た。もうルカはあの中にいない。永遠にいない。
三十八年間、この扉の前に来るたびに感じていた重さが、今夜はなかった。
ミズカは廊下を歩き続けた。
第五章
三十八年分の春冬が来て、正月が過ぎ、春になった。
ルカは研究所を出て、市内のアパートに移った。テオが手続きを手伝い、ミズカが家具を選ぶのに付き合った。二 LDK のこじんまりした部屋だった。窓から川が見えた。ルカが川のそばがいいと言った。
「理由は?」とミズカが聞いた。
「水の音が聞こえると、落ち着く」
ミズカは何も言わなかった。川の近くが好きと言ったのは、ミズカ自身だった。
三十八年前から。
ルカは大学の聴講生として、週に三日、キャンパスに通い始めた。三十八年の空白を埋めるためではなく、新しいことを覚えるために。三十八年後の世界の言語を、ゼロから学ぶように。
ミズカは研究所に残った。蘇生プロトコルの改良、後継者の育成、新しいプロジェクトの立ち上げ。やることは尽きなかった。でも仕事の密度が、以前と少し変わった気がした。前は仕事がすべてで、それ以外は隙間だった。今は、仕事の外に何かがある。
週に二回、ルカとミズカは会った。特に決めたわけではなく、自然にそうなった。
川沿いを歩くか、どちらかの家で夕飯を食べるか。話すことは、特別なことではなかった。ルカが大学で面白かった授業の話。ミズカが今日行き詰まった研究の話。ルカが見つけた、三十八年後の世界で好きなもの。
ミズカが気づいたのは、ある日の夕暮れだった。ルカのアパートの台所で、並んで料理をしていた。ルカが玉ねぎを切りながら泣いていて(玉ねぎだから、と言い張った)、ミズカがだし巻き卵を失敗して(三回目でやっと成功した)、ふたりで笑っていた。
ああ、と思った。
こういうのを、幸せと言うのだ、と。
* * *
春の終わり、ルカが「川に行きたい」と言った。
どの川かは言わなかったが、ミズカにはわかった。事故が起きた川。あの夏の川。
ふたりで電車に乗った。三十分かけて、昔の土地に行った。川沿いの道は、記憶より整備されていた。あの土手の崩落を機に、補強工事が行われたのだと、後で調べてわかった。
ベンチが新しくなっていた。でも配置は同じだった。川が見える位置に、二人がけのベンチ。
ふたりは並んで座った。夕陽が川に落ちた。三十八年前と同じ色だった。
「ここだった」とルカが言った。
「そう」
「あのとき、お前に言いたかったことを、ここで言えなかった」
「言えたよ、最終的に」
「三十八年かかったけど」
「かかったね」
ルカが川を見た。水が金色に光っていた。
「ミズカ」
「なに」
「これから、どうする」
ミズカはすぐには答えなかった。「これから」という言葉の重さを、測るように。
「どうする、って?」
「俺とミズカのこと」
「……」
「俺は三十八歳年下で、見た目は二十三歳。お前は六十一歳で、ひどい組み合わせだとは思う。でも」
「でも?」
「一緒にいたい」
川の音がした。
ミズカは川を見たまま、少しの間何も言わなかった。三十八年間、この人のために生きてきた。この人が目覚めることだけを考えてきた。目覚めた後のことは、あまり考えていなかった。考えると怖かったから。目覚めた後に何が来るか、期待すると、それが裏切られたときに耐えられない気がしたから。
だから今、こうして隣に座って「一緒にいたい」と言われても、どう答えていいかすぐにはわからない。
でも、わからないまま、言えることはある。
「私も、一緒にいたい」
ルカが、ミズカの手を取った。
川が、夕陽を映していた。三十八年前と同じ川が、同じ色で、流れていた。変わったことと、変わらないことが、並んであった。
ふたりはしばらく、何も言わなかった。それでよかった。言葉は出尽くした。
残ったのは、川の音と、夕陽と、手のぬくもりだけだった。
* * *
夏になった。
ルカのアパートの近くで、夏祭りがあった。ルカが「行こう」と言い、ミズカが
「浴衣なんて持ってない」と言い、ルカが「関係ない」と言った。ふたりは普段着で出かけた。
人混みの中を歩いた。焼きとうもろこしを食べた。ルカが射的で全弾外し、ミズカが一発だけ当てた。ルカが悔しがり、ミズカが笑った。
花火が始まった。大きな音と光が、夜空に広がった。
ルカが空を見上げていた。ミズカも同じ方向を見た。火の花が咲いて、散って、また咲いた。
「きれいだな」とルカが言った。
「そうね」
「三十八年前の夏、こういうの見たっけ」
「見てない。あの年は、夏祭りの前に……」
ミズカが止まった。あの年は、夏祭りの前に、ルカが封印された。
「……だから今年、見ような」とルカが言った。「三十八年分、まとめて」
ミズカは笑った。本当に笑った。
「まとめては無理よ」
「じゃあ、毎年見よう。来年も、再来年も」
ミズカは空を見上げた。花火が、また一発上がった。
「……うん」
それだけ言った。その一言に、三十八年分の重さがあった気がした。でも今は重くなかった。ただ、軽かった。春のあとに夏が来るみたいに、それは当たり前の軽さだった。
エピローグ
封じる前に、言えなかったこと
── 三十八年前の夏、続き ──あの日、ルカがミズカに言おうとしていた言葉は、「好きだ」だった。
もっと正確に言えば、それだけではなかった。「好きだ」という言葉の前に、長い準備があった。何日も考えた。どう言うか、どのタイミングで言うか。川沿いのベンチを選んだのは、ふたりがよく来る場所だったからだ。特別な場所にしたくなかった。ただいつもの場所で、いつもの顔で、言いたかった。
「ミズカ、話したいことがある」
そこまで言えた。
次の言葉を言う前に、土手が崩れた。
ルカはコンクリートに頭を打った瞬間、意識が遠のくのを感じた。ミズカの声が聞こえた。自分の名前を呼ぶ声が、どんどん遠くなる。そのとき、ルカが最後に思ったことは「言えなかった」ということだった。
封印の中でも、ずっとその言葉を持っていた。言えなかった言葉が、夢になって繰り返された。ミズカのいる場所に戻る夢。言えなかった言葉を言う夢。でも夢の中でも、ルカはいつも言えなかった。言おうとして、言葉が形になる前に、夢が終わった。
三十八年間、ずっとそうだった。
* * *
── 現在 ──
秋になった。ルカとミズカが、川沿いのベンチに座っていた。あの川ではなく、研究所の近くの川。でも秋の夕暮れの色は、どこも同じだった。
「ルカ」
「なに」
「夢記録のこと、また読んだ」
「うん」
「三十八年間、ずっとあの場面だったんだって。言えなかった言葉を、また言おうとする夢」
「うん」
「……眠っている間も、ずっと私のことを考えてたの?」
ルカは川を見たまま、少し間を置いた。
「考えてた、というか……俺の中に、ずっとあったんだと思う。言えなかった言葉が。
それが夢になってた」
「そう」
「俺が眠ってた間、ミズカは俺を起こすために働いてた」
「そう」
「俺は眠ってた間、ミズカを呼んでた」
「そうらしい」
「……ずれてたな、やっぱり」
「ずれてたね」とミズカが言った。「でも、今ここで重なった」
ルカが、ミズカを見た。夕陽の中の顔。六十一歳の顔。三十八年分の時間を生きた顔。
ミズカは言葉に詰まると、川を見る。三十八年前もそうだった。顔も手も時間を生きて変わったのに、その癖だけが残っていた。
「ミズカ」
「なに」
「好きだ」
ミズカは川を見たまま、動かなかった。
「三十八年前に言おうとして言えなかった言葉を、今ここで言う。夢の中でも言えなかった言葉を。三十八年分、溜まってたやつを全部、今言う」
「……聞こえてる」
「好きだ」
「聞こえてる」
「三十八年分」
「聞こえてる」
ミズカの目から、涙がこぼれた。
三十八年間、泣かないようにしてきた。弱さを見せないようにしてきた。泣いてる時間があれば研究をしろ――それが三十八年間、自分に課した命令だった。でも今は、誰にも見せなくていいと思っていたものが、勝手にあふれた。
ルカはミズカの手を取った。三十八年前に知っていた手とは違った。指には時間が刻まれていた。
ルカはその手を、両手で包んだ。
「この手は、知らない」
ミズカの肩がわずかに揺れた。
「……そうでしょうね」
「でも、これから覚える。三十八年分、全部は無理でも、今からの分は」
川が流れていた。夕陽が沈んでいた。三十八年前と同じ色の空が、ふたりの上にあった。
「やっと来たね」とミズカが言った。
「遅くてごめん」
「遅くない」
「三十八年」
「待ってたから、ちょうどいい」
ルカは笑った。
ミズカも笑った。涙の向こうで、笑みがこぼれた。六十一歳の顔で、三十八年ぶりに、本当に笑った。
川が、夕陽を映していた。
どこかで、風が吹いた。
了
(本作品は第 9 回アイリス異世界ファンタジー大賞への応募作品です)




