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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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【第40話】 眠っても止まらない宿

「この客室変更なら、俺が確認してから返す」


 レイノは届いた紙を右へ置き、次の報告へ手を伸ばした。


 寝台を二つ減らし、低温を好む客へ区画を譲りたい。基本食の豆を別の穀物へ替えたい。移動式宿泊棟を半日だけ別の休息地点へ回したい。


 どれも小さな変更だった。だからこそ、すぐ答えられると思った。


 接続先を減らしたくない。どの宿にも、眠る場所を失ってほしくない。レイノは一件ずつ条件を読み、蓄積済みの休息品質が崩れない範囲を確かめていった。


「次です」


 セリオが新しい紙を差し出す。


「生命維持を担う拠点から、受け入れ上限変更の確認です。暖房は低出力、寝床は残り四つ。今夜、六人が到着する可能性があります」


「近隣の空きは?」


「一か所あります。ただし移動には休息地点を一つ挟む必要があります。現地責任者は、四人を受け入れて二人を振り替える案を出しています」


「なら、接続状態と食事量を――」


 言いながら、レイノの指が別の報告へ止まった。


 遠方の小さな客室で、寝台の位置を窓際から壁際へ替えたいという確認だった。室温のむらが減る可能性がある。だが、壁側には床から細かな振動が伝わると書かれている。


「先にこっちを返す。寝台位置を変えるなら、振動を確かめてからだ」


「レイノさん」


「すぐ終わる」


 ところが、追加の確認が必要になった。床材。客の体格。暖房の出力。寝台を動かす間の代替場所。


 返答を書き終えた頃には、最初の報告から半刻以上が過ぎていた。


 セリオが生命維持拠点から届いた二通目を机へ置いた。


「現地は待機を続けています。受け入れも振り替えも開始していません」


 レイノの手が止まった。


「どうしてだ。案は出ていただろ」


「上限変更には、あなたの確認が必要だと登録されています」


「だが、四人までなら――」


「その判断を返していません」


 責める声ではなかった。それが余計に胸へ刺さった。


 安全を確かめるために抱えた判断が、客を寒い道の途中で待たせている。


 レイノは椅子を引いた。立ち上がった瞬間、視界がわずかに揺れる。机へ手をつき、それでも連絡用の紙を取ろうとした。


「今すぐ返す。四人を受け入れて、二人は近隣へ――」


「遅い」


 先行地域から届いたミレナの返答は、いつも通り短かった。


 セリオが読み上げる。


「『現地で出した案を峠へ戻すな。待たせた時間は移動時間より長い。レイノが決める範囲を減らせ』とのことです」


「全体の接続を知っているのは俺だ。どこかを動かせば、別の場所へ負荷が――」


「その全体確認で、目の前の六人を止めた」


 紙越しでも、ミレナの声が聞こえるようだった。


「『お前の仕事を奪えとは言ってない。お前にしか決められないことだけ残せ』」


 レイノは反論を書こうとした。


 その前に、寝台の上で丸くなっていたモフルが動いた。机へ向かうレイノの足元を横切り、そのまま彼の寝床へ飛び乗る。


「モフル、今は退いてくれ」


「ぷる」


 毛玉は枕の中央へ身体を沈めた。レイノが端へ手をかけると、毛を膨らませて横へ転がり、起き上がるための場所を塞ぐ。


「客が待ってるんだ」


「ぶるる」


 今度は寝具を短い脚で蹴り、レイノの胸元へ身体を押しつけた。異常の場所を示しているのではない。ただ、寝床へ戻れと要求している。


 レイノはその丸い背へ手を置いた。


 温かかった。


 自分の手だけが、ひどく冷えていることに気づいた。


「判断を渡したら、接続を切られるかもしれない」


 漏れた声へ、セリオが答えた。


「切る必要がある接続を切れない方が危険です」


「全員を残したい」


「そのために、全員をあなたの返答待ちにはできません」


 セリオは机の紙を三つに分けた。


「生命維持。物流。治療補助。この三群へ分けます。各群に責任者を置き、日常変更、接続継続、停止、振り替えを任せる。峠へ戻すのは、群をまたぐ変更と例外だけです」


 ファナは食料の一覧を引き寄せた。


「献立変更と小口配分は私が決める。地域食材で回せるなら、レイノには聞かない」


「供給を削りすぎる判断は?」


「私が止める。翌季の生産を壊す追加要請も断る。お前が一人眠らせたいからって、来月の百人分を食い潰す案は通さない」


「厳しいな」


「今さらだろ」


 ガルドは接続条件の欄へ太い線を引いた。


「設備は安全確認済みだけつなぐ。異音、振動、出力低下が基準を外れたら、現地で止める」


「残っている保温効果で、短時間だけ――」


「使わない」


 即答だった。


「退避時間には使う。故障設備を稼働中に見せるためには使わない。お前が続けたいと言っても止める」


 レイノは三人の顔を見た。


 誰も代理を申し出ているのではない。自分の担当領域で、自分の責任として拒否する権限を求めている。


「新規接続は、責任者登録と安全確認を満たした拠点だけにする」


 レイノは紙を一枚取り、書き始めた。


「満たさない要請は一時的に断る。低優先の変更は群の中で処理する。俺へ上げるのは、目的の変更と群をまたぐ負荷だけだ」


「報告も結果と例外に絞ります」


 セリオが続ける。


「全件を読もうとしないでください」


「読むくらいは――」


「責任範囲外です」


 穏やかな拒否に、ファナが鼻で笑った。


「やっとレイノへ断れる仕組みができたね」


「前から断ってただろ」


「今度は紙にも残る」


 その日のうちに、生命維持拠点は四人を受け入れ、二人を近隣へ振り替えた。レイノへの事前確認はなかった。届いたのは、全員が休息地点へ到着し、温かい基本食と寝床を得たという結果だけだった。


 翌日には、食材不足の拠点で献立が変更された。ファナは追加輸送を出さず、現地の穀物と保存食へ切り替えた。


 別の設備拠点では、出力低下を確認した責任者が接続継続を断った。利用者は移動式宿泊棟へ移され、設備は再点検に回された。


 レイノは報告を受けるたび、反射的に修正を書き込みかけた。


「この振り替えなら、もう一室――」


「群内で完了しています」


 セリオが紙を戻す。


「でも、休息品質を上げられる余地がある」


「今は最低基準を満たしています。追加は責任者の判断です」


 三度目に差し戻された時、レイノは筆を置いた。


「俺の仕事が減りすぎてないか」


「ようやく本来の量になっただけです」


 数日目の夜、モフルは再びレイノの寝床を占領した。


「今日はもう動かない」


 レイノが告げても、毛玉は退かなかった。枕と胸の間へ身体を押し込み、逃げ道を塞ぐように丸くなる。


「信用がないな」


「むぅ」


 低い声が、寝具の中で震えた。


 レイノは目を閉じた。


 次に目を開けた時、窓の外は白く明るんでいた。


 勢いよく起き上がろうとして、胸元の重みに止められる。モフルは毛を膨らませたまま、まだ眠っている。


「何時間寝た?」


「十分です」


 机にはセリオがいた。だが、紙の束は昨日より薄い。


 レイノは一番上の報告を取った。


 生命維持拠点は受け入れを再開。設備停止が二件。近隣への振り替えが三件。食事変更が四件。接続継続の判断が五件。


 すべて、レイノが眠っている間に終わっていた。


「止まってない」


 紙をめくる手が速くなる。


「俺が見てなくても、客が移って、食べて、眠れてる。接続を切った場所も、別の寝床へつながってる」


 胸の奥に詰まっていたものが、ようやくほどけた。


「動いてる。本当に、俺抜きで動いた」


「抜きではありません」


 セリオは訂正した。


「目的と接続条件は、あなたが決めました。その範囲で、私たちが動かしただけです」


 レイノは声を上げて笑った。疲れで浮かされた笑いではない。何日ぶりかに、次に考えるべきことが一つずつ見える。


「なら、もっと任せられる。俺が全部触らなくても、休ませられる」


 モフルが目を覚まし、満足そうに毛を膨らませた。


 その時、セリオが新しい一覧を一枚だけ差し出した。


 寒波最盛期の予測。限られた燃料、食料、移動式宿泊棟。そして、三つに分けられた拠点群。


「次は、全部を守る判断ではありません」


 セリオの声は静かだった。


「各群が、何を必ず守るかを選ぶ判断です」


 レイノは一覧を見下ろした。


 今度は細かな要請へ手を伸ばさなかった。


 眠っている間にも動き続けた休息網を信じ、守るべき目的だけを見定めた。

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