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世界一休める峠の宿――一泊ごとに設備が育ち、災害さえ越える大宿へ  作者: カイト


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【第38話】 土地の味で食卓をつなげ

「余っている地域から、まとめて運ぼう」


 レイノは消費報告を卓へ広げた。街道倉庫では穀物が減り、浴場のある地域では温かい食事に使える根菜が足りない。一方で、寒波の進みが遅い地域には、まだ保存品と収穫物が残っている。


「動けるうちに送れば、数日は持たせられる。ミレナの便を増やして――」


「駄目だ」


 ファナが備蓄表を閉じた。


 紙の乾いた音が、食堂に響いた。


「ここにあるのは、全部が余りじゃない。生産者が寒波を越す分、次に植える種、家畜へ回す飼料まで混じってる」


「だが、食べられない地域が出ている」


「だからって、作る側を空腹にしてどうする」


 ファナは表の一段を指で叩いた。


「この量を運べば、今は埋まる。寒波が長引けば、次は供給元ごと消える。春になっても種がない。代金も入らない。生産者が来季を作れなくなる」


 レイノは、運べる量ばかりを追っていた指を止めた。


 目の前の空腹を早く消したい。その思いに嘘はない。だが、宿へ届く食料は、箱の中から勝手に増えるものではなかった。


「救援でも出せない物は出さない」


 ファナはきっぱりと言った。


「私が止める。世界中から文句が来ても同じだ」


 レイノの胸に悔しさが残った。自分はまた、休ませたい相手だけを見て、支える側がどこまで耐えられるかを見落としていた。


 それでも、空腹の報告を閉じる気にはなれない。


「なら、運ぶ物から考えるのをやめる」


 レイノは別の紙を引き寄せた。


「食事として、何が必要だ」


「人数と日数による」


「料理名じゃない。休んだ後、仕事へ戻れる食事の条件だ」


 ファナがわずかに眉を上げた。


 レイノは報告に並ぶ土地ごとの食材を見渡した。穀物、根菜、豆、乳製品、乾燥品。揃っている物は違う。峠の宿と同じ献立を作らせようとすれば、足りない材料を遠くから運ぶ必要がある。


「温かいこと。胃へ負担をかけないこと。必要な分を食べられて、眠った後に身体を動かせること」


「味と材料は揃えないのか」


「揃えない。豪華さもいらない」


 口にすると、少し惜しかった。どの地域でも同じ温かな料理を出せれば、品質を分かりやすく示せる。


 だが、それは宿の都合だ。


「同じ料理を配るんじゃない。同じ目的だけを共有する」


 レイノは、正式に接続された各地の宿と休息地点を意識した。そこにある設備、食材、担当者を変えず、食事を含む休息品質のうち、温かさと消化のしやすさだけを最低の目的として結ぶ。


 遠くの食材が増える感覚はない。冷えた鍋へ熱が生まれるわけでもない。


 ただ、現地で用意された一杯が、眠りと翌日の仕事へつながるように、宿泊体験の基準が整っていく。


「それなら分けられる」


 ファナは閉じた備蓄表を開き直した。


「持ち出せる小口品。現地で食べ切る物。加工して残す物。来季まで絶対に触らない物。地域ごとに線を引く」


「加工法も送れるか」


「材料が違う。全部同じにはできない」


「同じにしなくていい」


 レイノが即答すると、ファナは口元だけで笑った。


「やっと分かったね」


 セリオは二人の間へ契約用の紙を置いた。


「無償供出にはしません」


「今は災害中だぞ」


「だからこそです、レイノさん。善意で出した食料は、次回も無料で出る物として扱われます」


 声は柔らかいが、譲る調子ではなかった。


「災害後の代金、加工に使った燃料と人手の補填、翌季の注文量。地域責任者ごとに残します。支払い時期が後でも、誰が負担するかは今決めます」


「不足した地域が払えない場合は?」


「補填する側を契約へ入れます。曖昧な後払いにはしません」


 ファナが頷く。


「翌季の注文が見えれば、生産者も種を残せる。今出せない物を守る理由にもなる」


 先行地域のミレナへ送った指示は、これまでより軽くなった。


 大量の食材ではなく、加工に必要な小型の保存資材と、現地では代えにくい高価値品だけを優先する。食材そのものは、土地にある物を使う。


 返事は短かった。


「運ぶ量が減るなら、便を分けられる。加工場所へ直接渡す。余剰食材の長距離輸送はしない」


 ミレナは先行地域に留まり、休息地点の間を移りながら運行を組み替えた。同日中に峠へ戻ることはない。眠る場所をつなぎ、必要な小口品だけを次の担当へ渡していく。


 ガルドも各地の設備記録へ目を通した。


「温室も保存庫も形が違う。同じ物へ直すのは無理だ」


「直さなくていい。低温でも使い続ける条件だけ欲しい」


「なら、開閉回数、保温する区画、止める温度を分ける。現地の設備は残す」


「誰でも同じ操作をする規格には?」


「しない。壊れ方が違う」


 レイノは反論せず、その線引きを受け入れた。


 数日後、最初の結果が届いた。


 街道沿いの宿では、土地の穀物を柔らかく煮た湯気の立つ粥が椀へ注がれた。冷えた配達人は両手で椀を包み、急がず一杯を食べ切った。その夜は短く眠り、翌朝には荷を次の区間へ運んだ。


 別の地域では、根菜と豆を崩れるまで煮た食事が浴場の利用者へ渡された。身体を温めた者たちは食事を取り、交代の休息を終えると、止まりかけていた生活作業へ戻っていった。


 乳製品の残る地域では、穀物を混ぜた温かな食事が作られた。余った分は傷む前に加工され、次の数日分として保存された。


 料理は一つも同じではない。


 色も香りも、とろみも違う。それでも、食べた者の強張った肩が下がり、眠った後の足取りが戻っている。


「これでいいのか」


 届いた記録を追ううち、レイノの声が弾んだ。


「いや、これがいい。同じ食材を配らなくても、食べて、眠って、次の仕事へ戻れている」


 彼は立ち上がり、地域ごとの結果を並べ直した。


「違う食事なのに、休息の目的はつながってる。土地の物を残した方が、遠くから全部運ぶより続けられる」


「興奮するのはいいけど、次の配分はまだ終わってないよ」


 ファナはそう言いながら、すでに翌季注文の欄へ数字を書き込んでいた。


 夕方を過ぎても、彼女の手は止まらなかった。食堂には温かな匂いが残っていたが、ファナは自分の器へほとんど触れていない。


「むぅ」


 モフルは器の前を素通りした。


 そのまま卓へ上がると、帳簿の中央へ身体を落とす。毛がゆっくり膨らみ、文字も数字も灰白色の球体の下へ消えた。


「モフル、そこは寝床じゃない」


 ファナが持ち上げようとすると、モフルは短い脚で帳簿を抱え込んだ。


「ぷる」


「退いて。次の地域が待ってる」


 帳簿を横へずらしても、モフルは先回りして進路を塞ぐ。好物の器を近づけられても、鼻先だけ向けて動かなかった。


 レイノはファナの目元を見た。


「最後に眠ったのはいつだ」


「今は私の話じゃない」


「何時間だ」


「注文を残さなきゃ、次が作れない」


「だから、交代する」


 ファナは反論しかけたが、帳簿の上でモフルが低く「ぶるる」と鳴った。


「二人とも、供給責任者へ遠慮がないね」


「遠慮して供給が止まる方が困る」


 レイノが帳簿を引き受けると、ファナはしばらく睨んでいた。それから自分の器を手に取る。


「一刻だけ。数字を勝手に増やしたら承知しないよ」


「減らす時も確認する」


「それならいい」


 ファナが温かな食事を口へ運ぶと、モフルはようやく帳簿から降りた。今度は彼女の椅子の足元で丸くなる。


 各地域へ残ったのは、空になった救援箱だけではなかった。


 食材の代金。加工負担の補填。次の季節に作る量を示す注文。現地で使える保存食の作り方。


 一度運んで終わる支援は、食べる側と作る側の双方が次へ進める循環へ変わった。


 その夜、新しい報告が届いた。


 低温が深まった地域から、形式の異なる魔力暖房が相次いで停止し始めていた。

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