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通算30人目の悪役令嬢ですが、そろそろ王子側も学習してくださいませ

作者: 折り紙
掲載日:2026/06/19

 リリアーナ・ヴェルフェルト公爵令嬢が、自分が通算三十人目の悪役令嬢になる予定だと悟ったのは、王立学園の最終学年を迎えた春、婚約者である王太子クラウス殿下が、神殿から編入してきた平民出身の聖女候補ミレーヌに、やけに甘い笑みを向け始めた頃だった。


 もちろん、その時点ではまだ婚約破棄も、公開断罪も、国外追放も発生していない。リリアーナは王太子の正式な婚約者であり、公爵家の長女として王妃教育を受け、外交儀礼、財務、宮廷作法、貴族派閥の調整、災害時の民政支援に至るまで、十年以上かけて積み上げてきたものがある。彼女自身も、それらを投げ出すつもりはなかったし、クラウス殿下のことを特別に熱烈な恋愛対象として見ていたわけではないにせよ、未来の国王として支える相手だと思っていた。だからこそ、初めのうちは見過ごした。聖女候補が慣れぬ貴族社会で戸惑っているなら王太子が気遣うこともあるだろうし、神殿との関係を良好に保つ意味でも、王族が聖女候補に親切にすること自体は政治的に不自然ではない。問題は、クラウス殿下がその親切を政治ではなく恋情として扱い始め、さらに周囲の側近たちが、それを止めるどころか「真実の愛」と呼び出したことだった。


 その報告を受けた日の夜、リリアーナは公爵家の地下書庫にいた。王都でも屈指の名門であるヴェルフェルト公爵家には、表向きは家系図や領地台帳、外交文書、古い条約文などが収められている書庫があるが、その最奥には当主と次期当主、そして王家に嫁ぐ可能性のある娘だけが閲覧を許される黒塗りの棚があり、そこには王国の歴史書には絶対に載らない、非常に不名誉で、非常に実用的で、非常に読む者の気力を奪う記録が並んでいた。


 表紙には、こう記されている。


 ――王族婚約者冤罪断罪事件記録、一件目から二十九件目まで。


 リリアーナは燭台の火を少し近づけ、革表紙に指を滑らせてから、静かに息を吐いた。幼い頃、父からこの記録の存在を聞かされた時は、王家にも若気の至りというものがあるのだろうと、子供らしい寛大さで受け止めていた。しかし十歳になって一件目を読み、十二歳で五件目まで読み進め、十五歳の王妃教育で二十九件目まで通読した頃には、その寛大さはきれいに消え失せていた。一度目なら悲劇。二度目なら不運。三度目なら教育不足。では二十九度目は何かと問われれば、リリアーナは貴族令嬢としての品位を守るために微笑むしかない。微笑まなければ、もっと直接的で不敬な言葉が口から出る自信があった。


「お嬢様、本当にお読みになるのですか」


 背後に控えていた侍女長のエルザが、不安そうに声を落とした。エルザはリリアーナが生まれた頃から仕えている古参で、王家に対しても礼を欠かさぬ慎重な女性だったが、この黒い棚の記録に関してだけは、王家への敬意よりも疲労の方が勝るらしく、毎回少しだけ目が死ぬ。


「ええ。おそらく、もう始まっていますもの。殿下が聖女候補に肩入れし、側近たちがそれを美談として扱い、婚約者が諫めれば嫉妬だと受け取られる。細部は違っても、この流れは過去二十九件の記録のうち、二十六件で確認されていますわ」


「残り三件は?」


「一件は王太子ではなく第二王子。一件は聖女ではなく歌姫。最後の一件は、相手の女性が神殿関係者ではなく隣国の使節でした。けれど、いずれも婚約者を悪女に仕立て、王族側の不義を正当化しようとした点では同じです」


「つまり、名前と肩書きが変わっただけで、構図は変わっていないと」


「ええ。変わっていないのは構図だけではなく、王子側の判断力もですわ」


 リリアーナはそう言って、二十九件目の記録を開いた。そこに書かれていたのは、三十年前に起きた事件だった。当時の王太子が男爵令嬢を寵愛し、婚約者であった侯爵令嬢を「男爵令嬢の茶会用ドレスを破いた」「階段から突き落とした」「神殿への寄付金を横領した」と断罪しようとしたが、実際にはドレスは男爵令嬢本人が流行遅れを嫌って裂いたものであり、階段から落ちた件は裾を踏んだ自損事故であり、寄付金に至っては王太子の側近が遊興費として使い込んでいたことが判明した、という何度読んでも胃が痛くなる内容だった。しかも当時の記録官はかなり冷静な人物だったらしく、余白に小さく「前例二十八件と類似。王家側、学習の形跡なし」と記している。リリアーナはその一文を見つめ、思わず指先でこめかみを押さえた。


「三十年前の記録官の方と、お茶を飲みながら語り合いたいですわ」


「おそらく、お嬢様と同じような顔をなさっていたかと」


「でしょうね」


 リリアーナは次々と記録をめくった。悪役令嬢、と民衆は呼ぶ。けれど記録の中にいる彼女たちは、ほとんどの場合、悪役ではなかった。王家の婚約者として礼儀を守れと諫め、神殿の権威を政治利用するなと忠告し、公金の流れを調べ、身分差を理由に平民をいじめるなと周囲を戒めた結果、なぜか嫉妬に狂った悪女という筋書きに押し込まれた令嬢たちだった。もちろん、歴代の中には気性の激しい者もいたし、口の悪い者もいたし、相手の令嬢を嫌っていた者もいた。しかしそれでも、階段から突き落とした証拠が「聖女がそう言ったから」で成立するほど、この国の司法は軽くないはずだった。軽くないはずなのに、王太子が恋をすると、なぜか周囲の男たちの頭から法と証拠と常識が順番に消えていく。


 リリアーナは一冊目から二十九冊目までを机に積み、別紙に要点を書き出した。王族が婚約者を公衆の面前で断罪する場合、発生しやすい冤罪項目は大きく五つ。嫌がらせ、暴行、窃盗、神殿への不敬、王族への反逆。証拠として提示されやすいものは、被害者本人の証言、取り巻きの証言、出所不明の手紙、破損した装飾品、なぜか都合よくその場に落ちている家紋入りのハンカチ。反証として有効だったものは、使用人の証言、会計記録、警備記録、招待状の出欠管理、医師の診断書、そして何より、王子側が自信満々に用意した証拠の粗を冷静に突くことだった。


 つまり、やるべきことは多いが、やれないことではない。


「エルザ」


「はい」


「明日から、私宛ての手紙、贈答品、茶会の出欠記録、学園内での移動記録、使用人の配置表、すべて控えを二部作ってください。一部は公爵家で保管。もう一部は外務卿夫人に預けます」


「外務卿夫人に?」


「ええ。あの方は王妃陛下の古いご友人で、なおかつ王太子殿下の教育方針に以前から疑問をお持ちです。こちらが証拠を抱え込んでいるだけでは、いざという時に握り潰される可能性がありますから」


「かしこまりました」


「それから、学園内でミレーヌ様と二人きりにならないよう徹底します。廊下、庭園、図書室、礼拝堂、階段付近は特に避けますわ。過去二十九件のうち、階段に関わる訴えは七件、庭園での密談は六件、図書室での紛失騒ぎは三件。人目があるようで死角も多く、証言が曖昧になりやすい場所ばかりです」


「特に階段は、事故と故意の区別がつきにくうございますね」


「ええ。だからこそ使われるのでしょう。転んだ者が泣き、そばにいた者が悪女と呼ばれれば、それだけで物語が出来上がってしまいますもの」


 エルザは深く頷いた。


◇◇◇


 翌日から、リリアーナの生活は静かに変わった。表向きには何も変わらない。王太子の婚約者として授業を受け、茶会に出席し、神殿への寄付目録を確認し、王妃教育の課題をこなす。しかしその裏では、彼女の周囲に細かな記録の網が張られていった。リリアーナが誰と会い、何を話し、どの時刻にどこへ向かったのか、侍女や護衛が几帳面に控える。贈り物にはすべて受領印をつけ、返礼品の内容まで記す。茶会では菓子の数まで記録し、誰がどの皿に手を伸ばしたかを侍女が把握する。普通ならば神経質と笑われるかもしれないが、歴代二十九人の悪役令嬢たちが血と涙と領地没収の危機で残した教訓を思えば、これでもまだ足りないくらいだった。


 そして、クラウス殿下は期待を裏切らなかった。もちろん、良い意味ではない。


「リリアーナ、君は少し冷たすぎるのではないか。ミレーヌは平民出身で、まだ貴族社会に慣れていないのだ。君がもっと優しくしてやれば、彼女も怯えずに済む」


 学園の中庭でそう告げられた時、リリアーナは王太子の隣に立つミレーヌを見た。淡い桃色の髪を揺らし、庇護欲を誘うように目を伏せる少女は、確かに美しかった。だが、その指先には神殿の聖具に似せた祈りの指輪があり、首元には王太子府の儀礼装身具と同じ意匠の青玉のペンダントが下がっている。どちらも、まだ正式な婚約者でも親族でもない少女が身につけるには、あまりにも意味が重い品だった。


「私はミレーヌ様に冷たくした覚えはございません。学園の礼法について尋ねられれば答えておりますし、神殿式の作法と王宮式の作法が異なる場合には、どちらを優先すべきか教師に確認するよう助言もいたしました」


「その言い方が冷たいのだ。彼女はもっと、心で寄り添ってほしいと言っている」


「王宮作法は心で寄り添っても身につきませんわ。教師に学ぶものです」


 クラウス殿下の眉が不快そうに寄った。以前ならば、リリアーナももう少し言葉を選んだかもしれない。しかし彼が婚約者である自分に断りなく、王太子府の管理下にある装身具を聖女候補に与えている時点で、こちらだけが無限に礼儀を払い続ける段階は過ぎている。


「リリアーナ、君は変わったな」


「殿下はお変わりになりませんわね」


「それはどういう意味だ」


「どういう意味に聞こえましたか」


 その瞬間、周囲にいた側近たちが一斉にこちらを見た。騎士団長の息子、宰相の甥、財務卿の三男。いずれも将来を嘱望されていたはずの青年たちであり、王太子の近くにいるからこそ、本来ならば殿下の過ちを諫めるべき立場にある。だが今の彼らは、ミレーヌを守る騎士のつもりなのか、リリアーナを見る目に露骨な敵意を宿していた。


「公爵令嬢ともあろう方が、平民出身の聖女候補に嫉妬とは見苦しい」


「ミレーヌ嬢は心優しい方です。あなたのように権力を笠に着る女性とは違う」


「殿下も、ようやく真実の愛に目覚められたのだ」


 リリアーナは彼らの顔を順に見た。過去記録の中に、ほとんど同じ台詞があった気がする。いや、気がするどころではない。第十一件目に「真実の愛に目覚めた殿下を妨げるな」、第十八件目に「権力を笠に着る悪女」、第二十六件目に「聖女様は心優しい方だ」とある。ここまで来ると、彼らは歴史を繰り返しているのではなく、台本を回し読みしているのではないかと疑いたくなる。


「皆様のご意見、確かに承りました」


 リリアーナは微笑んだ。怒りはなかった。怒りというものは、相手に改善の余地を期待している時に生まれる感情であり、過去二十九件分の記録を読破した後では、もはや期待よりも確認作業に近い心境だった。


「ただ、一つだけ申し上げます。真実の愛とは、婚約者のいる男性が、婚約者以外の女性に王太子府の装身具を贈ることを正当化する言葉ではございません。しかも、それが儀礼費で処理されているのであれば、もはや恋愛の問題ではなく、王太子府の管理責任の問題です」


 クラウス殿下の顔色が変わった。ミレーヌの手が、無意識に首元の青玉へ触れる。側近たちは何か言い返そうとしたが、王太子府の管理責任という言葉が出た途端、財務卿の三男だけが気まずそうに目を逸らした。彼は王太子府の支出処理を補佐している立場であり、リリアーナは以前から、その不自然な沈黙を記憶していた。


 やはり、ただの恋愛沙汰では済まないのかもしれない。


◇◇◇


 それから二か月後、リリアーナのもとに卒業記念舞踏会の招待状が届いた。王太子主催。王立学園の大広間。上級貴族、教師、神殿関係者、各省庁の重鎮も招かれる華やかな式典であり、本来ならば王太子とその婚約者が並んで未来の王国を象徴する場となるはずだった。だが招待状の席次表を見た瞬間、リリアーナは静かに目を細めた。


 王太子の隣に、ミレーヌの席がある。


 そしてリリアーナの席は、王太子から三つ離された場所に置かれていた。


 通常ならば侮辱である。貴族社会において、席次は言葉よりも雄弁に立場を示す。王太子の婚約者を遠ざけ、聖女候補を隣に置くということは、王太子自身が公の場で婚約者を軽んじる意思を示したに等しい。しかも、その招待状はすでに各貴族家へ送られている。つまりこれは、単なる手違いではなく、舞踏会当日に何かを起こすための布石だった。


 リリアーナは席次表を机に置き、父であるヴェルフェルト公爵を見上げた。公爵はしばらく無言でそれを眺めていたが、やがて深い、深いため息をついた。


「三十人目か」


「おそらく」


「そうか」


 それだけで、父娘の間には十分だった。公爵は怒鳴らなかった。王家を罵りもしなかった。ただ、机の引き出しから一通の封書を取り出し、リリアーナの前に置いた。


「これは?」


「お前の祖母が残したものだ。あの方は二十九件目の侯爵令嬢と親しかった。もし我が家の娘が三十件目になりそうなら渡せと言われていた」


 リリアーナは封を切った。中には、古びた便箋が一枚入っている。そこには美しい筆跡で、短くこう書かれていた。


 ――泣くのは後でよろしい。まず証拠を並べなさい。


 リリアーナはしばらくその文字を見つめ、それから小さく笑った。祖母らしい、情よりも実務を優先する言葉だった。だが不思議と、その一文で胸の奥に残っていたかすかな痛みが静かに落ち着いた。自分は今、理不尽な目に遭おうとしている。婚約者に軽んじられ、悪女にされ、積み上げてきたものを奪われようとしている。それでも、自分の前には二十九人分の記録があり、背後にはそれを忘れずに残してきた者たちがいる。悪役令嬢と呼ばれた令嬢たちは、物語の悪役ではなかった。彼女たちは、愚かな恋と杜撰な権力に踏みにじられそうになりながら、それでも最後には証拠を掴み、自分の名誉を取り戻してきた先達だった。


「お父様」


「何だ」


「舞踏会当日、王宮監査官と神殿監察官をお呼びできますか」


「すでに手配している」


「外務卿夫人は?」


「招待状を受け取ってすぐ、こちらから預けていた記録の写しに署名を添えて送り返してきた。席次表を見て、向こうも何が起きるか察したのだろう。あの方は王妃陛下にも内々に報告を上げている」


「では、両陛下も?」


「少なくとも、王太子が公の場で何かを仕掛ける可能性はご存じだ。女官長が名代として舞踏会に出席する。証拠が整った場合に限り、王太子権限を一時停止する裁可状を預かっているそうだ」


「正式な処分ではなく、審議までの保全措置ですわね」


「そうだ。だからこそ、こちらは感情ではなく証拠で動く必要がある。騎士団は中立を保たせおく。王太子側近の私兵は会場外に留め、お前の護衛は、使用人に扮して近く配置する」


「ありがとうございます」


 リリアーナは手紙を丁寧に畳み、胸元にしまった。これで準備は整った。あとは、相手が過去二十九件と同じように、驚くほど堂々と、驚くほど雑に、驚くほど証拠もなく、自滅への階段を降りてくれるのを待つだけである。


◇◇◇


 そして卒業記念舞踏会の夜が来た。


 王立学園の大広間には、金の燭台と白百合が飾られ、磨き上げられた大理石の床には貴族たちの影が揺れていた。楽団の演奏は華やかで、香水と酒と花の香りが混じり合い、誰もが笑みを浮かべながらも、その視線だけは王太子とリリアーナの間を忙しなく行き来している。席次の異変はすでに広まっていた。王太子が聖女候補を隣に置いたことも、婚約者であるリリアーナを遠ざけたことも、貴族たちは知っている。知らないふりをしているだけだ。


 リリアーナは指定された席に着き、静かに扇を開いた。視線の先では、クラウス殿下がミレーヌの手を取り、何かを囁いている。ミレーヌは頬を染め、側近たちは満足げに頷いている。あまりにも見慣れた構図だった。実際に見るのは初めてなのに、記録の中で何度も読んだせいで、初見の驚きがほとんどない。


 やがて楽団の演奏が止まった。


 クラウス殿下が立ち上がる。


 会場に静寂が落ちる。


 リリアーナは扇の陰で、ほんの少しだけ目を細めた。


「リリアーナ・ヴェルフェルト公爵令嬢!」


 王太子の声が、大広間に響いた。


「私は今ここに、貴様との婚約を破棄する!」


 会場が大きくざわめいた。だがリリアーナは立ち上がらなかった。驚きもしなかった。ただ静かに扇を閉じ、膝の上に置いてから、王太子を見上げた。


「承知いたしました、クラウス殿下」


 あまりにも落ち着いた返答に、王太子の方が一瞬だけ言葉を失った。リリアーナはそこで初めて立ち上がり、ドレスの裾を整え、完璧な礼を取った。


「では、通算三十回目の反証を始めましょう。そろそろ王子側も学習してくださいませ」


「反証、だと……?」


 クラウス殿下は、まるで自分こそが正義の壇上に立っていると信じきった顔で眉をひそめた。大広間に集まった貴族たちはざわめき、神殿関係者は互いに視線を交わし、教師たちは青ざめ、そして王太子の隣に立つ聖女候補ミレーヌは、今にも泣き出しそうに睫毛を伏せている。なるほど、絵としては悪くない。傷ついた可憐な聖女、彼女を守る若き王太子、そして断罪される冷たい公爵令嬢。二十九回も繰り返された構図だけあって、舞台装置だけは実によく整っていた。問題は、舞台に立つ者たちの頭の中身が、三十回目になっても一向に改善されていないことだった。


「リリアーナ、見苦しいぞ。貴様はミレーヌに数々の嫌がらせを行い、神殿から預かった聖具を盗み、さらには彼女を階段から突き落とそうとした。そのうえ、私とミレーヌの仲を裂くために、王太子府の会計記録を不正に漁ったとも聞いている。これだけの罪を重ねておきながら、まだ言い逃れをするつもりか」


「ええ、言い逃れではなく、反証を」


 リリアーナは微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾げた。


「まず確認いたします。嫌がらせ、聖具の窃盗、階段からの突き落とし未遂、王太子府会計記録への不正干渉。この四点が、殿下の主張される私の罪で間違いございませんか」


「そうだ。貴様がどれほど口先で飾ろうと、被害者であるミレーヌが証言している」


「被害者本人の証言は重要です。けれど、それだけで公爵家の令嬢を罪人と断じるには足りません。過去にも、同じように証言だけで婚約者を断罪しようとした事例が多数存在します」


「過去だと……?」


「ええ。殿下はお聞きになったことがないのかもしれませんが、王家には同種の失敗が何度も記録されています。私はその記録を読みました。そして、今回の流れは驚くほどそれらに似ております」


 その言葉で、会場のざわめきが少し変わった。若い貴族たちは困惑したように顔を見合わせたが、古くから王家に仕える家の当主たちは、苦いものを飲み込んだような表情を浮かべていた。彼らは知っているのだ。王家の歴史には、美談として語られない婚約破棄事件がいくつもあり、そのたびに誰かの娘が悪役令嬢と呼ばれ、誰かの息子が真実の愛に酔い、誰かの家が証拠を並べて名誉を取り戻してきたことを。リリアーナはその沈黙を確認してから、静かに言葉を続けた。


「ですから本日は、証言ではなく、記録と物証でお話しいたします」


 その一言で、会場のざわめきが少し変わった。嘲笑ではない。困惑でもない。古い貴族家の当主たちが一斉に顔色を変えたのだ。彼らは知っている。あるいは、知っていながら口にしてこなかった。王家の歴史には、美談として語られない婚約破棄事件がいくつもあり、そのたびに誰かの娘が悪役令嬢と呼ばれ、誰かの息子が真実の愛に酔い、誰かの家が証拠を並べて名誉を取り戻してきたことを。若い貴族たちはまだ事態を飲み込めずにいたが、年長者たちの空気が変わったことで、この場が単なる恋愛沙汰の断罪劇では終わらないことだけは察したらしい。


 リリアーナは扇を閉じ、控えていた侍女長エルザへ視線を送った。エルザは深く一礼し、使用人に扮して広間の端に控えていた護衛たちへ合図をする。次の瞬間、銀の盆に乗せられた書類の束が、王宮監査官、神殿監察官、外務卿夫人、そして国王陛下と王妃陛下の代理として出席していた女官長の前へ、それぞれ同じ内容で配られた。クラウス殿下の表情が初めて明確に揺らいだ。おそらく彼は、リリアーナがここで泣き崩れるか、怒りに任せてミレーヌを罵るか、あるいは公爵家の権威を振りかざして会場を混乱させると思っていたのだろう。だがリリアーナは泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、泣くのは後でよろしい、まず証拠を並べなさい、という祖母の言葉に従っているだけだった。


「第一の罪、嫌がらせについて。ミレーヌ様は、私が茶会で彼女だけに冷めた茶を出し、古い菓子を与え、使用人に命じて嘲笑させたと主張なさったそうですね」


 ミレーヌはびくりと肩を震わせたが、すぐにクラウス殿下の腕に縋りつき、小さく頷いた。


「はい……わたし、怖くて、ずっと黙っていました。でもリリアーナ様は、わたしが平民だからって……」


「茶会の記録を」


 リリアーナが言うと、エルザが一冊の帳面を開いた。


「当日の茶は三種類。王都南部産の春摘み、東方交易品の香茶、神殿関係者向けの薬草茶。温度管理は茶器ごとに記録しており、ミレーヌ様に出されたものは東方交易品の香茶、提供時温度は七十二度。他のご令嬢方と同じ茶器、同じ茶葉、同じ菓子です。菓子についても、前日の王宮厨房より納品、毒見役確認済み、残数と配膳先の記録があります。古い菓子など存在いたしません」


「そんな記録、あとから作ったものに決まっている!」


 側近の一人が叫んだ。リリアーナはその青年へ視線を向け、穏やかに微笑む。


「ですから、同じ記録を茶葉商、菓子職人、王宮厨房、外務卿夫人にそれぞれ預けております。四者の記録がすべて後から偽造されたと主張なさるなら、それは私一人の罪ではなく、王都の商業組合と王宮厨房と外務卿家をまとめて偽証で訴えるという意味になりますが、続けますか」


 青年は口を閉ざした。外務卿夫人が書類をめくりながら、冷たい目で彼を見ていたからだ。


「第二の罪、聖具の窃盗について。ミレーヌ様が神殿から貸与された祈りの指輪を一時紛失し、それが私の侍女の荷物から見つかった、という報告書が提出されておりますね」


「そうだ! 貴様はミレーヌを貶めるために――」


「その指輪は、神殿から正式に貸与された聖具ではございません」


 リリアーナの声は静かだった。けれどその一言は、広間の空気をはっきりと切り裂いた。


「な、何を……」


「神殿監察官殿、ご確認を」


 促された神殿監察官は、すでに手元の目録に目を通していた。初老の男は額に汗をにじませながら立ち上がり、重々しく口を開く。


「神殿が聖女候補に貸与する祈りの指輪は、内側に神殿印と管理番号が刻まれております。しかし、ミレーヌ嬢が現在身につけている指輪、および紛失品として提出された指輪の写しには、いずれも管理番号が存在しません。形状は似ておりますが、これは神殿保管品ではなく、模造品です」


「も、模造品……?」


 クラウス殿下が呆然と呟いた。ミレーヌの顔から血の気が引いていく。


「加えて、私の侍女の荷物から見つかったという件ですが、その侍女は事件当日、母の命で公爵領へ戻っておりました。こちらが関所の通行記録、宿場の宿泊記録、領地到着時の確認書です。王都にいない侍女の荷物から、王都で指輪が発見された。大変便利な荷物ですわね。本人より先に王都へ戻るとは、よほど忠誠心が強いのでしょう」


 広間の一部から、抑えきれない笑いが漏れた。だがリリアーナは笑わない。これは喜劇ではない。三十回も繰り返された、権力の雑な濫用だ。


「第三の罪、階段からの突き落とし未遂について。これは過去二十九件中七件で採用された、悪役令嬢断罪における定番の演目ですので、私も特に注意しておりました。当日、私はミレーヌ様と同じ階段を使用しておりません。礼拝堂横の階段ではなく、図書棟側の廊下を通っております。教師二名、学園警備員三名、図書室司書一名、そして隣国からの留学生であるレオンハルト殿下が、同時刻の私を確認しております」


 その名が出た瞬間、広間の奥から一人の青年が進み出た。淡い金髪を後ろで束ね、深い青の礼服を身にまとった彼は、隣国エルディアの第二王子レオンハルトであり、王立学園には外交交流の名目で短期滞在していた人物だった。彼はリリアーナに一礼し、それから王太子へ向き直る。


「証言いたします。事件が起きたとされる時刻、リリアーナ嬢は図書棟におられました。私が外交史の資料を探していたところ、彼女が書架の分類を教えてくださった。時刻は鐘の音から間違いありません。少なくとも、礼拝堂横の階段で誰かを突き落とすことは不可能です」


「レオンハルト殿下、あなたまで……」


 クラウス殿下は呻いたが、レオンハルトは淡々と続けた。


「それから、階段の件については、私の従者も現場近くにおりました。彼は王国語の通訳も務める者ですので、聞き間違いの心配はありません。ミレーヌ嬢が足を滑らせた直後、クラウス殿下の側近であるそちらの方が、こう口にしたと証言しております」


 視線を向けられた騎士団長の息子が、顔を強張らせた。


「わ、私はミレーヌ嬢を支えようとしただけで……!」


「それならば、なぜ『これで公爵令嬢の罪は揃った』などと口にしたのですか。善意で支えようとした者が、事故の直後にそのような言葉を漏らすとは考えにくい。私の従者はすでに証言書を提出しており、同じ場にいた学園警備員も、あなたが事故の直後にリリアーナ嬢の名を出したことを認めています」


 騎士団長の息子は、もはや言い返せなかった。彼の沈黙が、何より雄弁な証拠だった。


 リリアーナは最後の書類を手に取った。ここから先が本題だった。嫌がらせも、聖具も、階段も、すべては舞台装置に過ぎない。王太子たちは恋に酔い、正義に酔い、断罪に酔っていたが、その裏にはいつも、誰かが混乱を利用して利益を得ようとする現実的な汚れがある。


「第四の罪、王太子府会計記録への不正干渉について。これは事実と異なります。私は不正に記録を漁ったのではなく、王太子妃教育の一環として認められた範囲で、王太子府の贈与品管理台帳を確認いたしました。そして、そこで不審な支出を見つけました」


「やめろ、リリアーナ」


 それまで強気だったクラウス殿下の声が、初めて低く沈んだ。


「それ以上は、王家への侮辱になるぞ」


「いいえ、殿下。王家への侮辱とは、王家の財を私的な恋愛感情で流用し、その責任を婚約者に着せようとすることです」


 リリアーナは書類を掲げた。


「ミレーヌ様に贈られた青玉のペンダント、真珠の髪飾り、金糸の礼服、東方絹のドレス、その他十七点。すべて王太子府の儀礼費から支出されております。本来、儀礼費は外交使節、王族行事、公式贈答に用いられるもの。婚約者でも親族でもない聖女候補個人へ贈るには、正式な承認が必要です。しかし承認印は存在せず、代わりに財務卿三男である側近殿の私印が押されておりました」


 財務卿の三男が膝から崩れ落ちた。王宮監査官が即座に立ち上がり、護衛に目配せする。


「さらに、神殿への寄付金の一部がミレーヌ様の私的な衣装代に流れております。これについては神殿監察官殿が、すでに別口で調査を進めておられますわね」


 神殿監察官は苦い顔で頷いた。


「はい。神殿内部にも協力者がいた疑いがあります。聖女候補ミレーヌ嬢、ならびに関係者には事情聴取が必要です」


「違うの……わたしは、ただ、殿下がくださるって言ったから……わたしは聖女だから、綺麗なものを身につけるべきだって……」


 ミレーヌは泣き崩れた。だが今度は、誰も彼女を庇わなかった。クラウス殿下でさえ、彼女の手を取ることができずにいる。真実の愛と呼んでいたものが、公金流用と偽証と冤罪の上に成り立っていたと明らかになった瞬間、その愛は急に重く、醜く、責任を伴うものに変わったのだ。


 リリアーナは彼女を見下ろしながら、ほんの少しだけ声を和らげた。


「ミレーヌ様、あなたが慣れない貴族社会で不安だったことは理解します。けれど、不安だったからといって、誰かを悪女にしてよい理由にはなりません。泣けば誰かが守ってくれるうちは、確かに楽だったでしょう。でもその涙の陰で、誰かの名誉が踏みにじられていたことを、あなたは知るべきでした」


「リリアーナ……私は……」


 クラウス殿下が何かを言いかけた。謝罪だろうか。弁明だろうか。あるいは、今さら婚約を破棄しないと言い出すつもりだったのかもしれない。だがリリアーナは、そのどれも受け取る気がなかった。


「殿下、婚約破棄の宣言は確かに承りました。ただし、その原因が私の罪にないことは、この場において明らかになりました。よって、婚約破棄の責は殿下側にあります。今後の処分につきましては、国王陛下、王妃陛下、ならびに貴族院の判断に従います」


「待て、リリアーナ。私は……本当は君を失うつもりではなかった」


「でしたら、失う前に私の言葉を一度でも信じるべきでした。婚約者を罪人として呼びつけ、証拠も確かめず、公衆の面前で名誉を奪おうとした後で、その言葉を信じろと言われましても、あまりに遅すぎます」


 クラウス殿下は言葉を失った。


 その静寂の中、国王陛下と王妃陛下の名代として出席していた女官長が進み出た。彼女は、舞踏会が始まる前から王家の紋章が入った封書を預かっていた。公爵家と外務卿夫人から事前に届けられた記録を受け、両陛下が万一に備えて用意していた、正式審議までの保全措置である。


 女官長は封を切り、会場全体に聞こえる声で告げた。


「国王陛下ならびに王妃陛下より御言葉を預かっております。クラウス王太子殿下による本日の婚約破棄宣言、および公金流用疑惑、冤罪による公爵家令嬢断罪未遂について、両陛下は極めて重大な問題と受け止めておられます。証拠確認がなされるまで、クラウス殿下には王太子としての公的権限を一時停止していただきます。正式な処分は、後日、国王陛下臨席のもと、貴族院および王宮監査官の報告を踏まえて審議されるとのことです」


 広間にどよめきが走った。クラウス殿下は青ざめ、側近たちは次々と護衛に囲まれ、ミレーヌは神殿の監察官に支えられるようにして連れて行かれる。誰もが、これで終わったのだと理解していた。華やかな卒業記念舞踏会は、三十回目の悪役令嬢断罪事件として記録されることになった。ただし今回は、悪役令嬢が断罪された記録ではない。王子側が、ようやく三十回目にして自分たちの愚かさを公に裁かれる記録だった。


◇◇◇


 数日後、クラウス殿下は正式に王太子位を退けられた。公金流用に直接関わった側近たちは家の庇護を失い、それぞれ処罰を受け、ミレーヌも聖女候補の資格を剥奪され、神殿で長い奉仕と監察を受けることになった。彼女が本物の聖女であったのか、それともただ強い癒やしの才を持つだけの少女だったのかは、もはやリリアーナにとって重要ではなかった。重要なのは、泣く者が常に正しく、責められる者が常に悪いなどという雑な物語が、この日ようやく終わったことだった。


 そしてリリアーナは、婚約破棄された令嬢として屋敷に閉じこもることはなかった。むしろ彼女のもとには、王妃陛下から王族教育改革への協力依頼が届き、貴族院から過去の婚約破棄事件記録の整理を求められ、神殿からは寄付金管理制度の見直しについて助言を請われた。皮肉なことに、悪役令嬢にされかけた彼女は、王国の悪癖を正すために最も必要な人物として扱われるようになったのである。


 春が終わる頃、リリアーナは公爵家の庭園で、レオンハルト殿下と向かい合って茶を飲んでいた。彼は事件後も隣国へすぐには戻らず、外交使節として王国改革の推移を見守っていたのだが、今日は公務ではなく、個人的な訪問だった。


「リリアーナ嬢。あなたは、これからどうされるおつもりですか」


「まずは王族教育改革の資料をまとめます。過去二十九件の記録を正式な教材にするには、さすがに表現を整える必要がありますから」


「たとえば?」


「『王家側、学習の形跡なし』という注釈を、どこまで原文のまま残すべきかで迷っております」


 レオンハルトは声を立てて笑った。彼はリリアーナを気の毒な令嬢として扱わなかった。傷つけられた女性として憐れむことも、救い出してやるという顔をすることもなかった。ただ、彼女の冷静さと知性と、理不尽に対して膝を折らなかった強さを、真正面から敬意をもって見てくれた。


「では、その資料作りが終わったあとで構いません。私の国へ来ませんか」


「外交官として、ですか」


「最初はそれでも。ですが、できれば将来的には、私の隣に立つ方として」


 リリアーナは少しだけ目を見開いた。唐突な言葉ではあった。けれど不思議と、不快ではなかった。彼の言葉には、断罪会場で聞いた真実の愛という軽薄な響きはない。互いを知らぬまま燃え上がる感情ではなく、相手が何を成し、何を守り、何を許さなかったのかを見たうえで差し出される、静かな敬意があった。


「私は、婚約破棄されたばかりの悪役令嬢ですわよ」


「通算三十人目の、でしょう」


「ええ。なかなか不吉な肩書きです」


「私には、三十回繰り返された愚行を止めた方に見えます」


 リリアーナはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「では、資料作りが終わったら、隣国の王族教育資料も拝見させてくださいませ。そちらに同じような記録がないか、念のため確認しておきたいので」


「喜んで。もしあったら、私が先に学びます」


「それは大変よろしいお返事ですわ」


◇◇◇


 その一年後、リリアーナはエルディア王国へ渡り、外交顧問として両国の条約改定に携わった。さらに二年後、彼女はレオンハルト殿下と婚約し、やがて正式に妃となった。そこに劇的な恋の嵐はなかったかもしれない。だが、尊重され、信頼され、必要な時には意見を交わし、間違いがあれば互いに正せる関係は、リリアーナにとって何より穏やかで幸福なものだった。


 そして王国では、王族教育の正式科目として「過去の婚約破棄事件と統治責任」が導入された。教材の第一頁には、リリアーナの監修によって、こう記されている。


 ――一度目なら悲劇。二度目なら不運。三度目なら教育不足。三十度目ともなれば国家的欠陥である。


 その報告書を受け取ったリリアーナは、隣国の王宮でしばらく無言のまま紙面を見つめ、それから隣で笑いを堪えている夫へ向かって、穏やかに言った。


「……最初からしてくださいませ」


 レオンハルトはとうとう堪えきれずに笑い、リリアーナもまた、ほんの少しだけ口元を緩めた。悪役令嬢と呼ばれた少女は、悪役として終わらなかった。誰かの愚かな物語に閉じ込められることなく、自分の名誉を取り戻し、自分を正しく見てくれる人の隣で、静かで満ち足りた幸福を選び取ったのである。

日本対チュニジアがW杯通算1000試合目らしいですね。

頑張れ日本!

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― 新着の感想 ―
王家がダメすぎるというか本当に欠陥があると思いました
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