4-6 真天先輩と新作小説
それから数日が経ち、週末を迎えた。
「ふううっ……」
俺は深く息を吸い、吐いた。
指先が少し震えていた。ぬるくなってしまったミネラルウォーターを飲み干し、もう一度心を落ち着けてから――最後の一行をタイプする。
「で、できた……」
受賞後第一作となる長編小説が完成した。
あくまでも本一冊分になる分量が仕上がったというだけで、まだまだ続きを書く意欲はあるけれど、ひとまずはこれを投稿し、世に問うのだ。そして出版社からの打診を待つ。
そんな遠回りせずとも担当の編集者に直接見せればいいじゃないかという意見もあるだろう。しかし俺はコンテストで受賞した以外に何の実績もないド新人。よほどの売れっ子にならない限りは、その他大勢のうちのひとりという扱いになる。
水面下で動く――なんてことはせず、「タダヒト」という名を可能なかぎり露出し、アピールしていく。今の時代はそういったことを数多く、効率的にこなせた者に、より多くのチャンスがあると思うのだ。
「ついに書き上がったんですね?」
リビングに顔を出すと嬉しそうな声が上がった。
週末恒例、今日は真天先輩が訪問している。昼は美味しい手料理をいただいて執筆エネルギーをたくさん補給できたのだ。
「おかげさまで、やっと完成しました」
「は、早く読ませてぇ……!」
餌を欲しがる犬みたいだった。
「プロローグ、もう予約投稿できてます。あと五分くらい……三時に公開しますから」
「じゃあそのタイミングですぐに読みますね。そして最初に感想を書かせてもらいますから!」
真天先輩はスマホの画面をじっと見つめ、今か今かと待っている。
俺も自分のスマホを取り出し、マイページを表示させる。手元の原稿でさんざんチェックしたプロローグだけど、公に発表するのはこれが初めてなのだ。真天先輩と同じ環境で読んでみたい。
五分が経った。
一般公開されている俺の作者ページに、それまでは影も形もなかった新作小説が出現している。
タイトルは『勇者は語り継がれたくない』。
主人公は長い冒険の末に魔王を討伐し、世界に平和をもたらした勇者。彼は剣を置いてのんびりと過ごしていたが、勇者の足跡を本にまとめたいという歴史研究者の女性の訪問を受ける。旅の途中にいろいろやらかしたと自覚している主人公は始めは拒否するが、女性は持ち前の明るさと強引さでグイグイ迫ってくる。仕方なく主人公は口を開き……というあらすじだ。
「うん……うん……」
真天先輩は穏やかな目つきで、たおやかな指先でスマホの画面をスクロールしている。
何年も前から俺の作品をずっと追ってくれている真天先輩。はたして今度も気に入ってもらえるのだろうか?
自信はある。あるけれど! 心臓がドクドクと高鳴り、手に汗が滲んできた。
コンテストの結果を知らされた時と同じくらい――いやそれ以上の緊張かもしれない。
と、真天先輩は一転してものすごい速さでフリック操作を始めた。
コメントを書いているんだ! 一秒たりとも手の動きを止めず、延々と文字を打ち込んでいる。
やがて真天先輩はトンッと軽く画面をタップした。……コメントの送信ボタンを押したらしい。
直後、俺のスマホにプッシュ通知が来た。「エピソードに応援コメント」と。
ユーザー名は「マーマ」――真天先輩だ。
彼女と同じタイミングで読んだ人も、もしかしたらいたかもしれない。でも約束どおり、本当に一番に応援コメントを送ってくれたんだ……。
俺は心臓をバクバクさせたまま、その文章を読み始めた。
《タダヒト先生の新作、待ちに待っていました!
世界を救ってあとはもう静かに暮らしたい勇者と、好奇心旺盛な歴史研究者のヒロイン。まずこのふたりが水と油のように対称的で面白いです! グイグイ迫るヒロインとついに折れる勇者、どちらもとてもコミカルでした。
どうやら現在のストーリーと過去の冒険のストーリーが交互に語られる、入れ子構造になるようですね。
勇者は冒険中に、語り継がれたくないと思うほどのどんなことをやらかしてしまったのか? このプロローグ通りにコミカルなのか、それともシリアスなのか。とても先が気になります。期待大です!》
――ああ、報われた。
全身からどっと力が抜けて、その代わりにふわふわするような、ゾクゾクするような、とにかく喜びの塊のようなものが頭のてっぺんから爪先まで駆け巡っていく。
真天先輩はスマホを置いた。その頬がバラのように紅潮していた。
「とっっっっても、面白いプロローグでした! 続きが早く読みたいです!」
「あ、ありがとう……真天先輩!」
「絶対これも人気出ますよ。わたしが保証します!」
たとえ、実際には人気が出なかったとしても。
彼女のこの笑顔だけで十分だ。心からそう思うほどの歓喜が胸に満ちていた。
「一日一回の更新になるんですよね?」
「うん、その予定です」
「はうう、明日が待ちきれない……」
待ちきれないのはむしろ俺のほうだった。続きのエピソードも早く真天先輩に読んでもらって感想を聞きたい……。
「とにかく、完成のお祝いをしましょうか!」
真天先輩は冷蔵庫を開いた。書き上がったらケーキでお祝いしましょうと言ってくれていたのだ。
「じゃーん」
「おおっ」
箱を開くと、鮮やかにきらめくフルーツケーキが。ちょっといいお店のを買ってきてくれたらしい。
「コーヒーも豆挽き立てで淹れますからね」
電動ミルで豆を挽いたら、沸かしたお湯をドリップポットに移し、ゆっくりと淹れていく。さっそくいい香りが漂ってきた。
そうして用意された、ささやかなお祝いの席。真天先輩がカップを軽く掲げた。
「それじゃあ、乾杯!」
「はは、コーヒーで乾杯ってのは変ですけど」
俺と真天先輩はコーヒーを一口飲んでから、それぞれのケーキを同時に口に運んだ。
「んっ……小説の余韻がケーキの甘さと絡み合って、何とも言えない味わいに……♪」
妙に官能的に堪能している真天先輩である。
しかし俺も、ただの甘さを超えた豊かな味を感じる。上等なケーキだからというのでは説明が付かない。
今の俺は、そして彼女も、喜びを感じる機能が敏感になっているんだ。
「はああ……幸せだ」
ケーキを半分ほど食べたところで真天先輩が言う。
「唯人くん、わたしのも一口食べてみますか?」
「ぜひぜひ」
真天先輩は一口すくうと――俺の皿にではなく、口元に持ってくる。
「はい、あーん♥」
「えっ?」
「そんなに恥ずかしがらないでくださいな。これが初めてじゃないでしょう?」
ゴールデンウィーク最終日のデート以来か。あの時は周りに他のお客もいたけど、今回はふたりきり……。
「……あーん」
パクリ。
さっきまでとはまた違った、幸福な味が口内を包み込む。頬が溶けてしまいそうなほど美味しい……。
「わたしにも、食べさせて?」
可愛い舌をちらりと見せながら可憐な唇を開く真天先輩。
俺は自分のケーキをちょっと多めにすくい、差し出した。
「あむっ、んっ……♪」
真天先輩はやっぱりどこか艶めかしい仕草でケーキを味わっていく。
「ふふっ……唯人くんの、食べちゃいました」
そう言いながら唇に付いたクリームを舌なめずりで取る。
すべての動きが俺をドキドキさせてやまない。計算しているのか、それとも無自覚なのか。……たぶん前者だ。
「デビュー作が発売されたら、もっと豪華なお祝いしましょうね。わたし、奢っちゃいますから」
「は、はい! 期待してます!」
俺の新作『勇者は語り継がれたくない』は、まだプロローグだけなのにその日のうちに数十人もの応援コメントが入った。PVも上々で、まずはいいスタートダッシュを切れたと言ってよさそうだった。




