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『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


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第12話『最後の1ページ』(2)

 真鍮の万年筆の冷たいペン先が、純白の手漉き紙の表面にそっと触れる。

 その瞬間、毛細管現象によって導き出されたブルーブラックのインクが、乾いた紙の微細な繊維の奥深くへと音もなく染み込んでいった。

 書き記していくのは、かつてのように自らの罪悪感を誤魔化し、都合のいい悲劇のヒロインを捏造するための安っぽい嘘ではない。両腕を根こそぎ奪われ、光の届かない絶望の森の底を這いずり回る孤独な少女『ステラ』の、どこまでも醜く浅ましく、そして血生臭い苦しみの真実だった。

 ステラとは、月城詩織という人間の本性そのものだ。他人の才能に寄生し、自らの肥大化した自己愛を満たすために親友の美しい光を呪い、ついには自己中心的な錯乱の果てに命を奪ってしまった最低の殺人鬼。ステラという物語の少女の姿を借りて、自分自身の魂の最も不浄で腐敗した部分を、ありのままに、一滴の希釈も美化も許さずに紙の上へと吐き出していく。


 インクが連なり単語が文章へと形作られていくたびに、指先から自らの内臓を少しずつ削り取って紙に擦り付けていくような、言語を絶する精神の激痛が走る。

 泥水を舐め、傷口から流れる血と膿の悪臭にむせ返りながら、それでもなお他人の足首を掴んで自分と同じ泥の底へと引きずり下ろそうとするステラの醜悪な執着。自分の犯した罪から目を背け、なぜ私だけがこんな目に遭わなければならないのかと空に向かって理不尽な呪詛を吐き散らす、救いようのない自己憐憫の姿。

 自分がどれほど醜い獣であるかという絶対的な事実を、冷たいインクという物質に変換し、言い逃れの一切できない確固たる文字として刻み込み続けた。それは、親友を惨殺した罪人に対する、私自身の手による最も冷酷で凄惨な刑罰の執行に他ならなかった。


 しかし。

 血を吐くような思いで重苦しい言葉を連ね、純白の紙を不浄な絶望の色で汚していくそのすぐ傍らで。

 彼女の細く美しい指先に握られた鉄筆が、私の言葉を追いかけるように、あるいは先回りして迎え入れるように、紙の表面を滑らかに舞い続けていた。

 かつての私であれば、彼女の描く光を自分の言葉で真っ黒に塗り潰し、破壊することに暗い悦びを見出していた。だが今、目の前で起こっている現象はその全く逆の奇跡だった。


 彼女は、紡ぎ出す醜悪で絶望的な言葉の数々を、決して否定しようとはしなかった。

 目を背けることも、無かったことにして消し去ろうとすることもせず。ただ、吐き出した真っ黒な泥の言葉たちを、底知れぬ慈悲と祈りを込めた筆先で優しく掬い上げ、そこに鮮烈で圧倒的な色彩を乗せていったのだ。


 私が『すべてを腐らせる冷たい泥』と書き殴れば、彼女の筆先はそこに深い緑色と温かな茶褐色のグラデーションを施し、その泥を『新たな命の種を包み込み、森の木々を育むための肥沃な黒土』へと意味を根底から変容させる。


 私が『光の届かない出口のない暗黒』と自らの孤独を刻み込めば、彼女はそこに静謐な深い藍色と桔梗色の色彩を幾重にも重ね合わせ、その暗闇を『夜明けの星が最も美しく気高く瞬くための、神聖で広大な夜空』へと変貌させていく。


 言葉と色彩。絶望の底知れぬ暗闇と、すべてを包み込む夜明けの光。

 それらはもはや互いを打ち消し合う敵対する概念ではなかった。ブルーブラックのインクが紙の上に深い影を落とせば落とすほど、描く色彩の光はより一層の輝きと立体感を増し、彼女の光が画面を満たせば満たすほど、紡ぐ暗闇はその静けさと悲哀の深みを増していく。

 どちらか一つが欠けても決して成立しない。

 私が光を引き立てるための完全な闇となり、彼女が闇を救済するための絶対的な光となる。互いの魂が存在意義を完全に補完し合い、紙という一つの平面の上で、完璧な調和を持った壮大な風景へと結実していくのだ。

 間にはもう言葉による会話は一切必要なかった。ペン先が紙の繊維を滑る微かな摩擦音と互いの静かな呼吸の重なりだけが、魂の最も深い部分での完全な理解と対話の証だった。


 その言葉と色彩の完璧な交わりがスケッチブックのページを着実に埋め尽くし、物語の結末へと向かって加速していくにつれて。

 狂気の臨界点に達していた精神の極致において、座るこの旧校舎の図書室という空間そのものが、物理的な境界線の概念を完全に喪失し始めていた。

 現実の病室のベッドの上で鎮静剤に縛り付けられた肉体は、限界を超えた脳髄の暴走によって致命的なダメージを受け続け、刻一刻と死の淵へと転がり落ちている。その命の燃焼を代償にして生み出されているこの精神の深淵は、もはや単なる想像力という枠組みすらも超越した、圧倒的な現実感を持つ特異点へと変質を遂げようとしていたのだ。


 座る古い木製の机の周囲で、埃っぽい匂いが沈殿していた図書室の風景が、まるで水面に落ちたインクの滴が波紋を広げていくようにゆっくりと、しかし確実に融解し始める。

 壁際に立ち並んでいた背の高い木製の本棚が、突如として不気味な生命力を帯びて大きなうねりを上げた。

 整然と並んでいた古い本の背表紙が、一枚一枚の緑の葉のさざめきへと姿を変え、本棚の支柱は、太古の昔からその場所に根を下ろしていたかのようなごつごつとした巨大な樹木の幹へと変貌していく。

 天井の染みが複雑に絡み合う太い枝葉となり、図書室の空間全体を覆い尽くす鬱蒼とした森の天蓋へと広がっていく。


 そして、足元。長年の歩みによってニスが剥げ落ちていた冷たい板張りの床は、いつの間にか柔らかな感触を伴った湿った黒土へとその性質を変えていた。

 足の裏から伝わってくるのは、冷え切った木材の硬さではない。雨水をたっぷりと吸い込み、命の息吹を内包した土の温もりと、そこに群生する名も知らぬ草花たちの微かな青臭い匂いだった。

 壁が消え、天井が消え、扉が消え去る。

 旧校舎の図書室という閉鎖された記憶の空間が、今まさにスケッチブックの上に創り上げている絵本の中の世界『絶望の森』の風景と一切の境界線を失って完全に融け合い、一つの連続した世界へと変貌を遂げたのだ。


 しかし、そこはもはや自己憐憫のために捏造し、自分自身を閉じ込めていた、血と鉄錆の匂いが充満する呪われた暗黒の森ではなかった。

 森の木々の隙間からは、彼女の筆先が描き出したあの夜明けの色彩の光が、優しく、神聖な光芒となって無数に降り注いでいる。

 血に染まっていた冷たい泥の海は、夜明けの光を反射して琥珀色に輝く静かな水面へと変わり、不気味に枯れ果てていた樹木たちは新しい生命の芽吹きをその枝先に宿して、朝の微風に心地よさそうに揺れている。

 現実の記憶と虚構の物語が。抱えていた醜い罪の風景と、彼女がそれを許し包み込む慈悲の光が。

 限界を超えた狂気の精神の坩堝の中で完全に融解し合い、この世界のどこにも存在しない、圧倒的に美しく、限りなく悲しい一つの壮大な心象風景として完成したのだ。


 私は、その光に満ちた森の真ん中で机に向かう彼女の横顔を見つめながら、ただひたすらに万年筆を走らせ続けていた。

 魂は、自らの罪の重さにすり潰されそうになりながらも、この奇跡のような美しい世界の一部になれたことへの圧倒的な歓喜と感謝に震えていた。

 鎮静剤の檻に囚われた現実の肉体が、いかに惨めに涎と涙を垂れ流し、心電図の警告音を鳴り響かせながら朽ち果てていこうとも。

 今、この瞬間においてだけは、彼女と共にあり、光の傍らで罪と向き合う真実の言葉を紡ぎ続ける、たった一人の幸福な存在だった。

 創り上げる物語は最終ページに向けて、静かに、確実にその軌跡を重ね続けていった。

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