表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『夜の窓辺に君の描いた色彩を』  作者: 長月有希


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/62

第1話『欠落のパレット』(2)

 シュッ、シュッという、薄い微睡みへと誘うような鉛筆の心地よい摩擦音が、不意に途絶えた。

 代わって、ぴちゃり、という小さな水音が放課後の教室の隅に響く。彼女が右手に持っていた使いかけの鉛筆をそっと机の端に置き、筆洗用の使い込まれた黄色いプラスチックバケツに、細い筆を浸した音だ。

 先ほどまで何も溶けていなかった無垢で透明な水の中に、筆先に残っていた青い顔料がゆっくりと、しかし確実に溶け出していく。それはまるで、水という何もないくうの中に微小な色の雲が生まれ、瞬く間に広がって世界を侵食していくような、美しくも残酷な浸透のプロセスだった。透明だった水が、ほんの数秒で彼女の描いた空の色へと染め上げられていく。

 彼女は細い指先で筆の柄を器用に回転させながら、バケツの底の凹凸で筆の腹を優しくこすり洗う。ちゃぷ、ちゃぷ、という規則的で柔らかな水音。その音が響くたびに、時間が止まっていたかのような放課後の教室に再び時計の針が動き出し、まるで空間全体が微かな鼓動を打ち始めたかのように感じられた。私はノートの上の文字から視線を外し、そのちゃぷちゃぷという音の規則性に、自分の呼吸のペースを静かに合わせていく。


 やがて、微かに鼻を突くアクリルガッシュの匂いが漂い始めた。それは細かく砕かれた土の粒子と、少しだけ甘い糊を混ぜ合わせたような、生々しくもどこかひどく懐かしい匂いだ。チョークの粉の匂いと、このアクリル樹脂の匂いが混ざり合うと、私の胸の奥に眠っている名状しがたい切なさが、きゅうっと音を立てて目を覚ます。

 彼女はプラスチック製のパレットの端に、あちこちが不格好に凹んで使い込まれたアルミチューブから、新しい絵の具を捻り出した。ぐにゅり、という少しだけ湿った音とともに、鮮やかな青色のペーストが真っ白なプラスチックの海に押し出される。

 セルリアンブルー。

 夏の日の高層雲の隙間から覗くような、少しだけ緑みを帯びた、鮮烈で、まっすぐ見つめると目が痛くなるほどに澄み切った青色。それは純粋な喜びや希望をそのまま物質に変換したような、あまりにも眩しい色だった。

 しかし彼女は、その抜けるような美しい青のすぐ隣に、アイボリーブラックのチューブからほんの数ミリだけ、底なしの深い闇のような真っ黒な絵の具を絞り出した。

 筆の先にわずかな水を含ませ、青と黒を慎重に混ぜ合わせていく。パレットの上で二つの相反する色がねっとりと絡み合い、マーブル模様を描きながら、やがて一つの新しい色へと統合されていく。鮮やかだったセルリアンブルーが、黒に飲み込まれることで急速にその明度と彩度を落とし、深く、重たく、そしてひどく静かな色へと変質していく。水を含んで艶やかに光るその絵の具は、西日を反射して鈍い光沢を放っていた。


「この空はね」


 不意に、彼女が口を開いた。

 放課後の静寂という波のない海に、一滴の澄んだ波紋を落とすような、穏やかで、少しだけ掠れたアルトの響き。私はノートに向かっていた視線を完全に上げ、彼女の横顔をまっすぐに見つめた。彼女の視線は私の方を向くことはなく、パレットの上で混ざり合う絵の具の海に深く注がれたままだ。


「ただの青じゃなくて、少しだけ夜が混ざった色なんだよ」


 彼女の桜色の唇が動くたびに、そこから吐き出された空気が微かな振動となって、私の鼓膜を優しく震わせる。


『夜が混ざった色』。


 その言葉の美しい響きを、私は舌の上で転がすように、心の中で何度も何度も反芻した。

 彼女が画用紙の上に生み出そうとしているのは、完全な暗闇としての夜ではない。昼と夜が交差する、ほんの一瞬の、曖昧で不確かな境界線の空。圧倒的な光が、ゆっくりと這い寄る闇に侵食され、青がその鮮やかさを失って深淵へと沈んでいく。誰もが息を潜めて見上げるような、あの残酷なまでに美しい薄明のグラデーションだ。

 なぜ彼女は、純粋な青でもなく、完全な黒でもない、その『夜が混ざりかけの色』に惹かれるのだろうか。それはきっと、この時間が永遠には続かないことを、彼女自身が本能的に悟っているからなのかもしれない。光が失われていく直前の、最も美しく、最も脆い瞬間の色。


 彼女は筆先でパレットの上の色を確かめながら、小さく、ため息のような息を吐き出した。その息遣いには、自分の内側にある『正解の色』を、この現実世界へと無傷のまま引きずり出すための、繊細で痛切な緊張感が孕んでいる。

 私は、彼女の声のトーン、言葉の美しい余韻、そして吐息によって空気が震える感覚のすべてを、自分の心の一番奥深く、誰にも触れられない鍵のかかった引き出しの中に直接刻み込もうとしていた。彼女が放つ音の、あるいは匂いの、一つたりとも、この教室の空気に溶けて消えてしまう前に、私の内側に厳重に真空保存しておきたかったのだ。


 その時、開け放たれた窓から、ふいに強い風が吹き込んだ。

 春の終わりの、少しだけ湿気を帯びた生ぬるい風だ。目に見えない大きな空気の塊が、リネンカーテンを限界まで大きく孕ませ、私たちの絶対的な聖域である机の上を、無遠慮に勢いよく撫でていった。


 バサバサバサッ!


 風の圧力によって、私の机の上に広げてあったノートのページが勝手にめくれ上がり、紙同士が激しくぶつかり合ってけたたましい音を立てた。紙の繊維が擦れ合い、反発する音。私は慌てて右手を伸ばし、乱暴に暴れるページの上から自分の手のひらを力強く押し付けた。

 手のひらの下で、紙が逃げようとするような微かな抵抗を感じる。目に見えない風という圧倒的な力が、私たちの静かな時間を乱し、引き裂こうとしているかのようだ。私は自分の腕の重さを使って、その風の力に必死に対抗し、ノートを机の天板に強く押さえつけた。私の皮膚を通して、紙のひんやりとした無機質な冷たさと、風が通り抜けていく生温かい温度差が、はっきりと伝わってくる。


 隣を見ると、彼女のスケッチブックの大きなページも風に煽られてめくれ上がりそうになっていた。彼女は左手を素早く伸ばし、画用紙の端を指の腹で懸命に押さえていた。

 その時、私の視線は彼女の指先に完全に釘付けになった。


 白い画用紙を押さえる、彼女の細い人差し指。その第一関節のあたりに、べっとりと、あのセルリアンブルーの絵の具が付着していたのだ。

 筆を洗う時か、チューブを絞る時に、誤って触れてしまったのだろう。抜けるように白く、少しだけ青白い血管が透けて見える彼女の薄い皮膚の上に、その鮮烈な青色は、まるで落ちてきた一平の花びらか、あるいは誰かに強く噛みつかれたあとに残る美しい痣のように、ひどく生々しく張り付いていた。

 半ば乾燥し、皮膚の細かなシワの隙間に入り込んだアクリルガッシュの青。それは、彼女が自らの身を削り、自分自身を汚してまでこの世界に色彩を生み出そうとしている、痛々しくも尊い痕跡だった。私はその青い染みから、どうしても目を逸らすことができなかった。


「あ……」


 私が小さく、かすれた声を漏らすと、彼女は不思議そうに自分の指先を見て、それから少しだけ困ったように眉を下げた。


「やだ、ついちゃった」


 彼女はクスリと小さく笑い、押さえていた指を画用紙から離そうとした。

 その瞬間、私はまるで抗いようのない強い磁力に引き寄せられるように、無意識のうちに自分の右手を伸ばしていた。

 ノートを押さえていた私の手が、空気を切り裂き、彼女の左手へと向かう。

 距離にして、わずか十センチ。

 しかし、指先と指先を隔てるその十センチの空間には、息が詰まるほどの強烈な密度と重力があった。私の指先が彼女の指先に一ミリ近づくにつれ、互いの肌が発する熱が、見えない空気の膜を通して干渉し合うのがわかる。まるで時間がスローモーションになったかのように、私の右手が進む軌跡の空気が、ゼリーのように重く粘り気を帯びて感じられた。

 生きている女の子だけが持つ、ひどく柔らかくて、少しだけ泣きたくなるような、確かな温かさ。


 私の右手の親指が、彼女の左手の人差し指の側面に、そっと触れた。


 ビクン、と。私の心臓が、肋骨の裏側で痛いほど大きく跳ねた。

 温かい。

 彼女の皮膚は、想像していたよりもずっと温かかった。私の指先よりも少しだけ体温が高く、そして、どこまでも柔らかい。彼女の指に付着したセルリアンブルーの絵の具の部分を、私の親指の腹が静かになぞる。乾燥したアクリル樹脂の微かにザラッとした無機質な感触と、そのすぐ下にある、血の通った柔らかな弾力。

 私の指先を通して、トクン、トクンという微かな律動が直接伝わってくるような気がした。彼女は今、確かにここで生きて、呼吸をして、熱を放っている。触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で脆いのに、その命の熱だけは、火傷しそうなほどに力強く、私を打ちのめした。


 不意に指を触れられたことで、彼女は一瞬だけ驚いたように息を呑み、華奢な肩をビクッと揺らした。

 微かな気恥ずかしさが、彼女の白い頬をほんのりと薄紅に染める。彼女は不快に思って指を引っ込めるようなことはしなかったが、少しだけ伏し目がちになり、長いまつ毛が頬に柔らかな影を落とした。

 私は、自分が今まさに触れているその『温度』に、全身の神経を集中させていた。彼女の皮膚の表面温度、筋肉の柔らかさ、骨の細さ。そのすべてを、自分の細胞の隅々にまで永遠に記憶させたかった。もし許されるのなら、彼女の吐き出した息をすべて私の肺に吸い込み、彼女の熱を私の体温と完全に同化させて、二度と引き剥がせないように融合してしまいたかった。


「……絵の具、乾いちゃってるね」


 私が沈黙に耐えきれず、ひどくかすれた声で言うと、彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。


「うん。洗わないと落ちないかも。……喉が渇いたね」


 彼女はそう言って、私に触れられていた手をゆっくりと、本当にゆっくりと引き戻した。

 離れていく指先。指と指の間にあった熱の結合が断ち切られ、そこに再び、少し湿気を帯びた生ぬるい春の風が入り込んでくる。たった数秒前までそこにあった絶対的な結びつきが失われたことに、私はひどい喪失感を覚えた。

 私は空中に取り残された自分の右手をゆっくりと握り締め、手のひらに残った彼女の微かな体温の残滓を、絶対に逃がさないように固く、痛いほどに閉じ込めた。


『喉が渇いたね』


 その何気ない、日常の極みのような彼女の言葉が、私の胸の奥を激しく締め付けた。

 喉が渇く。それは、彼女が水なしでは生きていけない、脆くて儚い生き物であるという残酷な証明だ。彼女の身体の中を温かい血が巡り、生きるために必死に世界から水分を求めている。彼女が私と同じように命を持った人間であり、いつかは壊れてしまうかもしれないという、あまりにも当たり前で、恐ろしいほどに美しい事実。


 彼女は自分の机の横に掛けてあった鞄から、飲みかけのペットボトルを取り出し、キャップをひねった。プラスチックの蓋が、カチッ、と硬質な音を立てて開く。彼女がボトルに口をつけ、静かに喉を鳴らして冷たい水を飲む。

 その時、彼女の細い首筋が上下に滑らかに動くのを、私は瞬き一つせずに、まるで宗教画を仰ぎ見るような真摯さで見つめていた。ペットボトルの中の水が波打ち、窓からの西日を反射して、黄金色にきらきらと光る。彼女の唇の端が少しだけ水に濡れて、艶やかな光沢を放っている。その水滴が彼女の顎を伝って落ちてしまわないかと、私は息を詰めて見守っていた。


 ああ、神様。

 私は心の中で、誰に向かってもなく深く、そしてひどく重い祈りを捧げた。


 ずっと、この時間が続けばいいのに。

 西日が永遠にこの角度のままで教室を照らし、風が永遠に同じ温度で吹き続け、彼女が永遠に私の隣で、セルリアンブルーの絵の具に夜を混ぜ合わせ続けてくれればいいのに。

 この奇跡のような日常を、琥珀の中に閉じ込めて、永久に真空保存してしまいたい。彼女の呼吸も、体温も、鉛筆の音も、水の匂いも。何一つ欠けることなく、何一つ変化することなく、この完璧な瞬間だけで世界の時間が止まってしまえばいい。

 もしそれが叶うなら、私のこれからの人生のすべてを差し出しても構わない。


 それは、ただの感傷ではなかった。

 あまりにも強く、重く、どす黒いほどの執着だった。

 私は、彼女が水を飲むその無防備で美しい姿を網膜に焼き付けながら、ノートの上で握りしめた自分の右手に、さらに強い力を込めた。手のひらに食い込んだ爪が皮膚を破りそうになり、微かな痛みが走る。

 その確かな痛覚だけが、私がこの完璧な時間の連続性の中に確かに存在していることを繋ぎ止める、唯一の錨だった。自分が痛みを感じている間だけは、この世界が夢や幻ではないと信じることができる。


 私は再び万年筆を握り直し、ノートの余白に視線を落とした。

 彼女の指先に残ったセルリアンブルーの色と、手のひらに残る微かな体温を思い出しながら、私はこの狂おしいほどの愛着と、永遠への渇望を、静かにブルーブラックのインクに変えて綴り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ