第三話
葵がインテルノ・デザインへ面談に出かけてから、オフィスには目に見えない緊張感が漂っていた。真由はいつにも増して電話をかける回数が増え、その声には苛立ちにも似た焦りが混じっている。わたしも、真由に負けじと資料を探し、電話をかけていたけれど、成果は出ていなかった。
「葵、どうだったかな」
昼休み、わたしは真由に声をかけた。
「さあね。でも、葵のことだから、何かしらの手応えは掴んでるでしょ」
真由はそう答えたが、その視線はわたしの手元の資料ではなく、葵の空席に注がれていた。真由は、葵に対してはっきりとしたライバル心を抱いている。わたしたち三人の間には、いつだって「誰が一番早く、大きな仕事を掴むか」という無言の競争があった。
午後三時を過ぎた頃、葵がオフィスに戻ってきた。彼女はいつも通り涼しい顔をしていたけれど、その手に持っている資料の束は、行きよりもずっと分厚くなっていた。
「おかえり、葵。どうだった?」
真由が、まっすぐに葵に尋ねた。
「うん。とりあえず、先方の代表に資料を見てもらえることになったよ。ただ、すぐに契約というわけにはいかないみたい」
葵は簡潔にそう答えた。
「そっか。でも、資料を見てもらえるだけでも進展だよね。よかったじゃん」
わたしは心からそう思った。一歩でも進んだという事実は、わたしたちにとって大きな励みになる。
しかし、真由の反応は違った。
「『すぐにはいかない』って、具体的には?何か大きな障害があったの?」
真由は、追求するような口調だった。いつもの真由なら、まずはねぎらいの言葉をかけるのに。
葵は一瞬だけ、真由から視線を逸らした。その瞬間、わたしは二人の間に、目に見えない小さな亀裂が入ったような気がした。
「いくつか、先方独自の事情があるみたい。詳しくは、まだなんとも言えないけど……。とにかく、今からその事情を解決するための追加資料を整理しなくちゃいけないから」
葵はそう言って、早足で自分のデスクに戻り、すぐにパソコンに向き合った。彼女が何かを隠している。わたしにはそう感じられた。いつもならすぐに共有してくれる情報が、今回は伏せられている。それが、同期として、少し寂しく、そして不安だった。
次の日から、葵の様子はさらに変わった。
彼女はデスクにいる間も、ヘッドセットをつけて誰かと話すことが増えた。その話し方も、わたしたち同期や上司と話す時とは明らかに違っていた。声はひそやかで、時折、「ルート」「コンプライアンス」といった、少し専門的で、わたしたちの日常の営業活動ではあまり使わない言葉が聞こえてくる。
ある日の夕方、わたしが取引先に送る書類を最終チェックしていると、葵の話し声が耳に入ってきた。
「はい、ええ、その件については、S社に確認を取っています……。ですが、現行の取引ルートが抱えるリスクを考えると、御社にとって最善の選択ではないかと……」
S社。それは、わたしが担当している輸入家具の商社「ABC社」と競合している、業界大手の一角だ。なぜ葵が、インテルノ・デザインの件で、競合他社の名前を出しているのだろう。
わたしが思わず葵のデスクの方を見ると、葵はすぐにわたしに気づき、会話を中断してヘッドセットを外した。
「ごめん、三葉。ちょっと集中してた」
「う、うん……。ねえ、葵、今、S社のこと話してたけど、あれって、インテルノ・デザインの件と関係あるの?」
わたしが恐る恐る尋ねると、葵は少しだけ戸惑ったような表情を浮かべた。
「え? ああ、うん。ちょっとね、インテルノ・デザインさんが使っているサプライヤーの調査をしてて。取引の背景を洗い出しているんだ」
「へえ、そんなことまでやるんだ。すごいね」
わたしはそれ以上追求できなかった。葵は、何か大切なものを自分一人で抱え込んでいる。そして、その情報は、真由にもわたしにも、共有される気配がない。
真由も同じことを感じているのか、最近は葵に対して無言の圧力をかけているように見えた。真由の新規開拓の電話も、どこかピリピリしていて、以前のように気軽に「どうだった?」と声をかける雰囲気ではなくなっていた。
わたしは、この三人の間の、少しずつズレていく距離感を、どうすることもできないでいた。あの、なんでもない月曜日の朝に戻れたら。そんな風に考えるわたしは、まだ、この小さなギクシャクが、三人の関係を決定的に引き裂く大きな波乱の序章にすぎないことを知らなかった。




