第二話
腕時計を見ると、約束の五分前だった。インテルノ・デザインの社屋は、都心にあるものの、一歩足を踏み入れると、外の喧騒を忘れさせる静けさがあった。ロビーには、ホームページで見たような、シンプルな木製の椅子がいくつか置かれ、柔らかな照明が落ちていた。
「株式会社ローズリリーの葵と申します。本日、面談のお約束をいただいております」
受付でそう告げると、すぐに担当者を呼んでくれた。
「葵様、本日はありがとうございます。代表の、野宮と申します」
応接室に通され、目の前に現れたのは、四十代くらいの、背が高く、落ち着いた雰囲気の男性だった。野宮さんは、わたしが名刺を差し出すと、丁寧に受け取ってくれた。その仕草一つ一つに、この会社が扱う「上質な家具」の雰囲気が滲み出ているように感じた。
「ご連絡をいただいた時、正直、驚きました。大手の商社さんから、わざわざ弊社の新規取引にご関心をお持ちいただけるとは」
野宮さんは、穏やかな口調でそう切り出した。
「ありがとうございます。御社のホームページを拝見し、そのデザインの方向性や、環境への配慮を大切にされている点に、強く感銘を受けました。わたくしどもの会社が、御社の事業をさらに広げるお手伝いができればと考えまして」
わたしは、用意してきた資料を開き、今回の提案の核となる部分を説明し始めた。わたしが所属する商社が持つ、世界各地のサプライヤーネットワーク、そして、コストを抑えつつ品質を維持できる独自の物流システムについて。
「なるほど……。貴社がそこまで詳しく弊社の事業を調べてくださっているとは思いませんでした。特に、こちらの…ベトナムの工場とのネットワークは興味深いですね」
野宮さんは、わたしの資料をじっくりと読み込んでくれていた。しかし、その表情は真剣ではあるものの、どこか壁があるようにも感じられた。
「実は、弊社の今の規模では、大手商社さんとの取引は、少し重たいというのが正直なところです。今、長年お付き合いのある、比較的規模の小さい商社さんがいらっしゃって、そことの関係を崩すつもりは今のところありません」
やっぱり、そう来るか。わたしは、野宮さんの言葉を冷静に受け止めた。新規開拓とは、常に既存の取引先との「信頼」という壁を乗り越えることだ。
「そうですよね。長年の信頼関係は何物にも代えがたいものです。ですが、弊社のネットワークを使えば、例えば、現在お使いのサプライヤーさんよりも、さらにコストを抑えつつ、かつ、御社が求めるデザインの木材を安定供給できる可能性がございます。その試算だけでも、一度見ていただけないでしょうか」
わたしは、言葉を選びながら、一歩も引かずに食い下がった。ここで引き下がっては、真由や三葉に顔向けできない。何より、わたし自身がこの会社との取引を諦めたくなかった。
野宮さんは、わたしの目を見つめ、少しだけ思案するような間を置いた。
「……分かりました。そこまで熱意を持ってくださるなら、資料だけ拝見させていただきます。ただ、すぐに取引を始めるというお約束はできません」
「もちろんです。資料だけでも見ていただければ幸いです」
わたしは、頭を下げた。これで、少なくとも次の一歩は踏み出せた。
野宮さんは、資料を受け取ると、ふと、窓の外に目をやった。
「葵さん。もし、よろしければですが……」
野宮さんは、少し声を潜めて続けた。
「……実は、今、会社が少しきな臭い問題に巻き込まれていまして。社内でも、新規事業どころではないという空気が流れているのです」
わたしは、この一言に、背筋が凍るような感覚を覚えた。この「きな臭い問題」こそが、この会社が新規取引に消極的な本当の理由ではないかと、直感した。
「それは……差し支えなければ、どのような問題でいらっしゃいますか?」
わたしが尋ねると、野宮さんは、応接室の扉をちらりと見てから、さらに声を落とした。
「詳しくは申し上げられませんが……どうやら、弊社の海外からの輸入ルートに、不正なルートが混じっている可能性があるって」
「不正なルート……」
わたしは、思わず繰り返した。家具の輸入において「不正」とは、関税のごまかし、あるいは、違法伐採された木材の使用などが考えられる。もしそれが事実なら、会社の存続に関わる大問題だ。
「まだ、噂の段階で、何も確証はありません。ただ、社内で調査を進めている最中です。もし、貴社のネットワークが、本当にクリーンで信頼できるものだという確証が得られれば、その時は、全面的に取引を切り替えることも視野に入れます」
野宮さんは、まっすぐな目でわたしを見た。その目は、助けを求めるような、しかし、同時に、何かを試すような光を宿しているように感じられた。
「承知いたしました。わたくしどもは、コンプライアンスを最優先しております。その点については、自信を持って保証できます」
わたしは、力強くそう答えた。この会社が抱える問題は、わたしたちの新規開拓にとって、大きな壁であると同時に、逆に大きなチャンスにもなる。この問題解決の糸口を提供できれば、一気に信頼を勝ち取ることができるかもしれない。
面談が終わり、社屋を出たわたしは、すぐに会社の資料室に直行した。インテルノ・デザインの取引先となっている商社の名前と、その会社の過去の取引実績、特に、輸入ルートのトラブル事例を徹底的に調べるために。
わたしは、この「きな臭い問題」の真相を突き止めれば、三葉や真由よりも早く、大きな契約を勝ち取れるかもしれないという、強い予感を抱いていた。




