春先の物書き
物書きとはよく言ったもので、今やパソコンで文字を打つ毎日。思いのたけを一瞬にして文字におこすことができる。ただ手書きも捨てがたい。紙に書き殴って現れた文字たちを見た時の快感はやはり忘れられない。その文字たちは己の中から出てきたはずなのに不思議なことに一つ一つが命を宿す。存外、命を生み出すというのが物書きの性分なのかもしれない。物を書くということに魅せられ離れられなくなった人間を物書きというのだろう。
さて、私は恋をした。物を書くこととは別のものに魅せられている。一時の間、物書きという肩書きを下ろそうと思う。一時の間とはいつまでか分からない。ただ、叶わぬ恋だと知っているのだから、そこまで私は愚かではないだろう。壁時計が五時を告げる。最近はこのために生きているのではないかと感じるほどこの時間を待ち望んでいる。彼女に会いに行く時間だ。少し鏡の前で髪を整えそのまま目的地へと向かった。目的地に着き、そこに足を踏み入れた途端微かにほろ苦い香りが鼻腔をくすぐった。店主がよく飲むコーヒーの香りだ。ただ、カウンターに店主はいない。きっと奥に行っているのだろう。そして全身を静寂が包み込み、足元がふわふわとする不思議な感覚になる。中を静かに歩きながらいつもの場所へと向かう。その静けさとは対照的に私の胸はうるさい音を立てる。いつものようにそこにいる彼女を見つけ嬉々とする。そして君をじっと見つめる。彼女がふわりと微笑んだ気がした。つられて私も思わず微笑む。これをいつも繰り返す。彼女とは話したことがない。初めて会った日はただ見つめるだけだった。それが初恋だと気付くのにそう時間はかからなかった。
雨の日はなんだか彼女に会いたくなる。外に行くのは億劫なのに、彼女に会いに行くのは全然そう思わない。彼女の傍らで同じ時間を過ごせる。特に話をするわけではないが、あんなにも幸せな時間はない。私は口下手である。物を書くということを始めたのもそれによるところが大きい。だから彼女に私の気持ちを伝えるなんてもってのほかだ。ただ、彼女は気付いているのだろう。けれど、何も言わない彼女が心地よい。
今日は店主がカウンターに座っていた。店主がじろりとこちらを見る。毎日店に来ては何も買わない私に形だけでも一瞥をくれる。初めの頃はその視線にたじろぎもした。しかしもう慣れてしまっている。少しの申し訳なさをすぐ横におき、私は彼女を眺める。彼女と出会うたびに好きなところが増えていく。すべて知ったはずだと思えば、すぐに知らない一面を彼女は見せる。それを知るたびに私の鼓動はどんなに高鳴るだろう。私のことは別に知られなくていい。どうせ叶わぬ恋なのだから。
そろそろ帰る時間だ。彼女に心の中で、ではまたと告げて店を出る。いつも会いに行けば、時間はあっという間に過ぎていった。別れる際は少しの名残惜しさと次に会う楽しみが湧いてくる。店から出ると外は少し暗かった。すると、男に話しかけられた。
「もうお仕事は終えになったので? いやはや、すぐにヒット本を出してしまえる先生が羨ましくてなりませんな。ぜひご教授いただきたいものだ」
この店の周辺でよく会う男だ。男は作家らしかった。夕方にのんきに仕事もせずこんなところにいるのは相手も同じである。しかし、いちいち言い返していたのでは埒が明かない。ここは相手にのるのが一番いい。
相手の目を見つめ、笑ってこう返す。
「ええ、ぜひとも」
ここで話を切り上げるつもりだったが、男はそうではないらしい。
「もう作風を変えられたとか」
男は何が楽しいのか、にたにたと笑っていた。
「私自身、変えたつもりはないのですが、そう感じられたのならばそうなのでしょう」
男の眉がひくりと震える。
何か気に障ったことを言ったのだろう。だが、作風とはそのようなものだと私は思っている。作者が決めるものではなく読者が感じるものだ。きっと男は、違う考えを持っているのだろう。
「作風とは大事なものだ。作風を変えることは今までの読者を裏切る行為だとは思わないのかねぇ。作家先生には分からないかね?」
いかにも小ばかにしたその声。
自分の中から出したはずの言葉たちは他人という読者を通してまた違うものへと作り変えられる。そして、時に私の作風を決めつけもする。別にそれでいい。私は私が書きたいものを書く。読者も読者が読みたいものを読めばいい。
言いたいことを言い切ったのか何も言わない私に諦めたのか、男は去っていった。
ある日、店に行くといつもの場所に彼女はいなかった。こんなことは初めてだ。慌てて他の通路にも彼女がいないかくまなく探したが彼女はいなかった。
それならばと店主に彼女について問う。店主は怪訝な顔をした後、コーヒーを一口飲んで笑った。
「さあな」
血の気が一気に引いた。その一言は彼女がもういないことを物語っていた。足がもつれるのも気にせず、私はすぐに店を出た。しばらくの間、茫然としていたが私はとぼとぼと家に帰った。
もうあの店に行く理由がなくなってしまった。しかし、数か月の習慣とは恐ろしいもので、いつもの時間になると途端に集中が途切れる。どうしたものか。とりあえず外に出てみるか。
ぶらぶらと目的地もなく歩いていたつもりがあの店にたどり着く。この店はこんなにさびれていただろうか。色あせていただろうか。
なんの魅力も感じられず、私は書店を通り過ぎた。
しばらく歩くと見たことがない店が見えた。あの店とは違い、真新しく出入りする客も多かった。入ったことがない店に入るのもたまにはいいだろう。自動ドアを通過するときふんわりと春の風を感じた。
彼女を手に入れられないわけではなかった。だが、私はそうしなかった。誰のものでもない彼女に恋をした。たとえその誰かが自分であっても、この恋は一気に冷めてしまっていただろう。
もう私が恋した相手はいない。
今、手元には君の複製がある。君を手に入れることができずに、複製といる私をどうか許しておくれ。もう、君には会えないだろうから、それぐらいは許しておくれ。君の複製を読みながら、君を慕い続ける物書きを。
日々ひるなかです。
「春先の物書き」を読んでいただきありがとうございます。この作品は作家がある本に恋をするお話です。作家は恋をしますが、本は別の誰かに買われてしまいます。手に入れるつもりはなかったのに、いざ手に入れられなくなると、作家は後悔します。そして、作家は同じ本を買ってあの書店にあった本を思い出します。
皆さんにも特別な一冊はありますか? 同じ本でも手触りが違ったり、表紙の色が少し違ったり、その一冊にしかない魅力もあるのではないでしょうか。
読む度に新しい一面を見せてくれる本との出会いは、なんだか恋と似ています。
皆さんの日々のひるなかにまったりとした時間を。




