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決着

 壁に叩きつけられたガラスのコップが、派手な音を立てて砕けた。


「時間は充分に与えたはずだ! まだ何の情報も持ってこられないとは、お前は無能だ! 給料泥棒だ!」

 バーデンが目を血走らせてわめいている。さっきからずっと。


 窓の外は激しい雨が打ちつけている。

 ガラスの割れた音も、窓を叩く風雨の音で廊下には聞こえないだろう。

 分厚い雲に覆われた地上は薄暗く、カーテンの閉められた赤狼隊の隊長室はなお一層、暗かった。


「イルゼ・ブラントの弱みを見つけることくらい、簡単にできるだろう! 相手は女だ。脅して従わせることなど簡単なはずだ。お前、それくらいもできないで赤狼隊情報収集部の所属を名乗っているのか! 恥ずかしいと思わんのか!」

 執務机に両手を置いて身を乗り出したバーデンは、顔を真っ赤にして怒り狂っている。


 普通の隊員なら、この男の剣幕に恐れをなして土下座し、許しを乞うていることだろう。

 だが、フランクは両手を後ろに組み、まっすぐにただ相手を見つめていた。

 頬のすぐ横をコップが飛んで行っても、わずかな動揺さえ見せない。


 少しも怯まない青年に、バーデンは苛々と舌打ちをした。そして、

「おい、何か言ってみろ。その使い物にならん頭は今、何を考えている?」

 謝罪の言葉を求めているのが明白だ。もっとも、謝罪したからといって許されるかどうかは彼の胸三寸だが。


 とうに腹をくくったフランクは、激高する相手を前に静かに口を開いた。

「イルゼ・ブラント青鷲隊隊長には、特筆すべき弱みなどありませんでした。彼女は一人の騎士として立派な人物です」

「うるさい!」

 途端に吠えられ、あまりの剣幕にフランクは顔をしかめた。


 バーデンは執務机を回ってフランクの前に来ると、その胸倉をぐいとひっぱった。

 見たくもないおっさんの顔が間近でフランクを睨んでくるのは、結構な苦行だ。


「お前、俺を舐めてるのか。いつ、誰が、そんな回答を求めた。いつ! 誰が!」

「お言葉ですが隊長、あなたは自分のことが分かっておられないようです」

 フランクはバーデンの厚みのある手を、強引に襟元から引きはがした。

 そして黒い瞳で自分と同じ目線の相手を睨みつける。

「部下への過剰な叱責、威圧、権力を盾にした脅迫。どれも、ヘルツフェルト王国騎士団の品位を汚すものとして、騎士団法第四十二条に違反しています」

「なんだと……貴様、俺に逆らう気か」

 ねっとりとした低い声が、フランクの正気を疑ってかかる。


 今まで、彼に対して反抗した者などいなかった。

 否、いてもすぐに職を解かれてバーデンの目の前からいなくなった。

「お前は俺が雇ったんだ。解雇するかどうかも俺次第だ。クビにするぞ」

 バーデンが凄む。

 フランクは頷いた。

「どうぞ、ご随意に。そもそも俺は、あなたに雇われてはいませんから」

「はあ?」


 歪んだ相手の顔を、フランクはじっと観察した。

「ああ、あなたは秘密とやらを探るのがお好きですね。俺にもあるんですよ、秘密……もっとも、それが弱みと俺は思いませんけど」

「貴様、何を言っている」

「宰相執務室付査察官、が俺の本当の役職です。よく勘違いされるのですが、俺達の仕事は騎士だけでなく、王宮で働くすべての者の不正行為の摘発です」

 胸ポケットから宰相執務室付の証である獅子の徽章を取り出して見せる。


 目玉ほどの大きさの徽章は、模造など疑いようがない王家の虹色の金糸で縫い付けられていた。

 宰相執務室付査察官。

 南区で白鯨隊隊長と黒鹿隊隊長が噂をしていたあれ(・・)だ。

 バーデンの目が零れんばかりに見開かれる。

「な、な……嘘だ。査察官が、お前のようなガキなわけが」

「こう見えて俺、三十二歳ですよ。童顔だってよく舐められるので、あんまり好きな顔じゃないんですけどね、便利は便利です」

 わざとらしいほどに、にこりと笑って見せる。


 バーデンの体が瘧のように震える。無意識に上がった手がフランクに伸ばされるけれど、フランクはそれをさっと避けた。

「内部告発により貴殿の調査を行っていましたが、部下からの信頼はないに等しく、他の部隊に対する嫉妬や足を引っ張る行為は目に余ります。つきましては、近日中に処分を下しますので本日以降は自宅待機としてください」

「そんな、馬鹿な……」

 バーデンは目を見開き、よろけて執務机にぶつかった。それさえも気づいていないようだったが。


「あなたの下について一年。身に覚えがありすぎるでしょうが、証拠は色々と上がっています。言い逃れはできませんので、覚悟してくださいね」


 地味で無能で非力な男だと思っていたから、バーデンはフランクを手足のようにこき使った。それは時に悪態をつきたくなるような日々だったけれど、だからこそ、知ることのできた悪事もたくさんある。


「それから、王宮で働く者が国の土地を下賜以外の理由で取得するのは国土法第二十一条で禁止されています。量刑は十年以下の懲役です。こちらも宰相殿への報告書に上げておきますので、悪しからず」

 バーデンの顔色は今やどす黒く変色していた。ぱくぱく口を開けるけれど、意味のある言葉は聞き取れなかった。


 窓の外が白く光り、雷鳴が轟く。雨音がいっそう激しくなり、窓枠ががたがたと悲鳴を上げた。


 宰相執務室付査察官の存在は、誰もが知っているけれど、詳しいことは誰も知らない。

 ただ、彼らは常に陰から、通報のあった相手の行動を見張っているというのがもっぱらの噂だ。

 事実、査察官の調査によって密やかに職を解かれた騎士の数は片手では足りない。

 表の世界で華々しい戦果を挙げる英雄が騎士団なら、裏の世界で悪を粛正するのが査察官だ。

 その査察官にターゲットにされた以上、バーデンに逃げ道はない。


「話は以上です。辞令は後日、ご自宅に送られます。それでは、失礼します」

 フランクは頭を下げ、踵を返した。


 そのときだった。


 唸り声を上げて、バーデンがフランクに掴みかかった。

 衣擦れの音に反射的に身を捻ると、その芋虫のように太い指に短刀が握られているのが見えた。

「正気ですか」

 思わず眉をしかめたフランクに、バーデンは脂汗の浮いた額を拭って、にやりと不気味に笑った。

「もちろん正気だ。お前を屠る理性が、ちゃんとある」

 後ろに撫でつけた髪は乱れ、細い目は血走っているバーデンは、完全にフランクを敵と見ていた。


 一呼吸おいて、ナイフの先端が突き出される。今でこそ隊長の座に収まり、実戦からは遠のいているとはいえ、彼は確かに騎士団の訓練を受けた騎士だった。

 目線は的確。構えも正確。

 しかし。


「もうちょっと日頃から体を動かした方がいいですね。狙いと動きが伴っていませんよ」

 フランクは伸びてきたナイフを最低限の動きで叩き落とし、バーデンの腕を捻り上げた。

「いた、痛い! 待ってくれ。俺の話を聞いてくれ。俺は今まで、多大な努力と血の汗を流してここまで来たんだ! 地位剥奪はやめてくれ!」

 あっという間に制圧されたバーデンは、雨音にも負けないほど大声で泣いた。


 フランクはバーデンに足払いをかけ床に跪かせると、酸欠で真っ赤になった耳に囁く。

「俺は証拠を揃えて宰相様に報告するだけです。すべてはあなたの行動がもたらす結果として、罰を受けてください」

 ぱっと手を離す。

 途端に、バーデンは床に転がった。転がり、蹲って、己の不幸を嘆いている。


 フランクは黙って部屋の外に出る。

 しんとした廊下の空気は澄んでいて、無意識に深く息を吸った。


「フランク?」

 不意に暗がりから声をかけられ、フランクは俯けていた顔を上げた。

 現れたのは、今日も大量の書類を抱えた赤狼隊副隊長のフォルナーだ。


「どうしました。また、隊長に無理を言われましたか」

 フォルナーが気遣わしげに首を傾げる。

 くしゃくしゃ髪にひょろりとした体躯は学者のようだが、彼もまた、騎士として訓練を積んだ一人の男だ。

「無理だったら無理だと言いなさい。私に言えば、仕事は代わってあげますから」

 両手が空いていれば胸を叩いたであろう、自信ありげな笑みを浮かべた相手に。

 フランクは思わず吹き出した。

「そこは、隊長にびしっと言ってやります、じゃないんですね」

「そ、それは、その」

 途端におどおどと視線を揺らすフォルナーは、実に憎めない男だ。


 積み上がった書類の一番上の紙が、ひらりと床に舞った。フランクはひょいとそれを救い上げ、

「冗談です。それ以上無理をしたら副隊長、倒れちゃいますよ。定例会議も出席できなかったのに」

「あれはちょっと調整不足で……私は意外と頑丈なので大丈夫ですよ」

 書類を束の上に戻せば、フォルナーは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。

 あの隊長の部下とは思えない礼儀正しさだ。


「それでは」

 フランクは頭を下げ、フォルナーの脇をすり抜けた。

 その背に、副隊長の静かな声が追ってくる。

「隊長を制御しきれなくて、君達部下には大変申し訳なく思っています。しかしそれも、いつかは終わりますから」

 その、祈りにも似た声に。

 フランクはひらりと右手を上げ、立ち止まることなく去って行った。


 後日、ヘルベルト・バーデンの国土法違反の罪による逮捕及び隊長職解任と騎士資格の剥奪が伝えられた。

 それに伴い、騎士団の四つの部隊を抱える騎士団は部隊統一を含む組織改革を行った。

 ベルク騎士団長は顧問となり、新たな騎士団長となったのはイルゼ・ブラントだった。


 赤狼隊に所属していたフランク・ルーマンは、いつの間にか記録ごと姿を消していた。


【了】



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