秘密
トラント広場は、災龍の死骸の処理と、野次馬と、それを整理する騎士達とでごった返していた。
騎士の隊服の色も入り乱れ、各々が自分にできることに取り組んでいる。
フランクもしばらく見物人の交通整理をしていたけれど、騎士達が集まるのを確認して役目を終えることにした。集まった人々も、私服の騎士より立派な隊服を着た騎士と言葉を交わした方が、話の種になっていいだろう。
「今日はもう、ブラント隊長の弱み探しなんてしてる場合じゃないな」
青鷲隊は皆、災龍の後処理で忙しくしている。
指揮官であるイルゼも、忙しく立ち働いているはずだ。
フランクは人の波に乗りながら、それにしても、とさっきまでの出来事を思い返した。
イルゼ・ブラントの、あの戦いっぷりには惚れ惚れする。まるで物語の主人公のように華麗に災龍を仕留めた様は、余程の訓練を積んでいなければできない動きだ。青鷲隊の騎士達の弓の腕も、命中率はかなりのものだった。接近戦を行う隊長や副隊長に当てずに矢を放てるとはすごすぎる。特に最後の致命傷を与えた矢は、誰が放ったのだろう。
先ほどの戦いを思い出すだけで、体中の血液が沸騰しそうに興奮する。
やはり自分もこの国の民として、災龍討伐を前に冷静ではいられないのだなと苦笑して、フランクは広場を後にしようとした。
今日は死人が出なかったらしい。ライムント副隊長の良い日より、もっと良い日になった。寮に帰る前に甘い物でも買って、部屋で食べようか。
そう思ったとき、ふと、金色の髪が視界の端で泳ぐのが見えた。
「ブラント隊長……?」
見間違いかとも思ったけれど、フランクは踵を返し、人垣をかき分けた。
目的の人物が足を止めたのは、トラント広場からさほど離れていないがひと気のない、細い路地の奥だった。
ふくよかな女性と一緒だ。年齢は六十歳くらいだろうか。白と黒がまだらになった髪を一つに結んで、手縫いと思われる黄色い毛糸のショールを肩にかけている。服装も、王都の洗練された装いではなく、どことなく古風な印象をうける。
フランクはさっと古びた木箱の陰に隠れた。そして、耳を澄ませる。
「いっぺん王都見してみっかい(みようか)て、しゃっち(わざわざ)キアナ村からきて良かったわ。災龍のおじごっ(怖いこと)。ひったまがった(びっくりした)わ。わい(あなた)、あんべらしゅう(立派に)しちょっちゃねえ」
何語だ?
フランクの眉間に皺が寄る。
耳に言葉が届くのに、ところどころ何を言っているのかわからない。
暗号、ではなさそうだ。だが、自分の知っている周辺国の言葉ではない。フランクは五か国語を身につけているけれど、その知識の中にある言語のどれとも該当しない。
「よく、おい(私)ち(と)わかったね」
イルゼの声は、淡々としていた。
「わかるわー。顔立ちがマキアそっくりやわ。おおきぅなったねー」
「おばさん」
「ああ、内緒やろ。ごめんねえ、ぱやんぱやん(ぼやぼや)しちょって。顔見たらどうしても喋りたくてよ」
二人の不思議な会話に耳を澄ませ、フランクは懸命に意味を読み取ろうとする。
ところどころ意味が分かる。王国の派生言語だろうか。
だが、キアナ村、とは。
確かキアナ村は、フューゲル山脈の山裾にある小さな村だったはずだ。平地が少ないので農産物が取れにくく、木の実や木材の加工で生計を立てている村だったと記憶している。
それに、おばさん、とは。
イルゼ・ブラントは貴族だ。通常、平民は貴族と気安く話をしたりはしない。イルゼの場合は自分から積極的に話しかけるようだが、彼女の身分を知って平然と言葉を交わす平民の存在は、謎でしかない。しかも、裕福とはいえない身なりの女が、だ。
「悪り。もう行かんと」
「あら、そうや。元気そうであんど(安心)した。マキアにも言っちょくわ。わい(あなた)は、のさん(辛い)ことが多いやろうけど、あんべらしゅう、無理はせんとよ」
「無理しちょらんよ。ありがとう、エミーリアおばさん。秘密よ」
「わかっちょる、秘密ね」
二人の短い会話はそれで終わった。
エミーリアと呼ばれた女性が離れていく気配がして、フランクは膝を抱える腕に力を込める。
かつ、かつ、と靴の音が近づいてくる。まるで、何かのカウントダウンのように。
靴音はフランクの斜め後ろで止まった。
「好奇心は満たされたか」
頭上から降ってきた声に、そうじゃないかと察していたフランクは、覚悟を決めて立ち上がった。
薄暗い路地で、災龍の血をまだらに浴びたイルゼが、じっとフランクを見つめている。
その青い瞳は、凪いだ水面のように静かだった。
「盗み聞きをして、申し訳ありませんでした」
聞いてしまったことはなかったことにはできない。だから、素早く頭を下げた。
密やかなため息が聞こえた。
どうせ失望されたのなら、とフランクはゆっくりと顔を上げる。
「先ほどの言葉は、どこの言語だったのでしょう。隣国のベーラー語やブッケル語とも違う気がして……会話が一部、聞き取れませんでした」
不勉強さを恥じるフランクにイルゼは目を見開いた後、梟のように喉の奥で笑った。
「……あれは、王都から馬車で五日はかかるキアナ村の方言だ。王都育ちは聞いたこともないだろうな」
肩を震わせ、声を押し殺して笑うイルゼに、フランクは呆然とする。
田舎の方言。
それがあったか。
いや、言い訳をさせてもらえるのなら、ヘルツフェルト王国の公用語であるディールス語の元になったクルス神語は、汎用性が高い言語で、周辺国はクルス神語を基にして言語を形成している。似ている単語や文法は多く……ああ、何を言っても言い訳だ。
フランクは顔を赤くした。
自分の無知と思い込みを、まとめてゴミの日に出したいくらいだ。
笑っていたイルゼは深く息を吐いて呼吸を整えると、静かに口を開いた。
「君は私の過去を知りたかったようだが、今のが私の過去の一部だ。彼女はキアナ村のエミーリア。私の母の姉だ」
「……ブラント隊長は、ブラント伯爵家の長女ですよね。ご母堂はバッツドルフ子爵家出身だったと記憶しておりますが」
「本当に私のことを調べていたんだな」
はっと笑われ、フランクはしまったと口を閉じた。
イルゼは額に落ちた金色の髪を、右手でかき上げた。
秀でた白い額が露わになり、一瞬だけ逸らされた理知的な眼差しが、すっとフランクを捕える。
「私は身体能力の高さと、伯爵家に似た金髪と青い瞳の色を買われて、ブラント伯爵家の子供になったんだ。六歳まで、特産物などろくにない、貧しいキアナ村で木登りをして遊んでいた。伯爵家の娘になったのが七歳のときだった」
フランクはごくりと喉を鳴らした。
その反応を楽しむように目を細め、イルゼは続ける。
「教育もろくに受けていない辺境の村の子供を、彼らは屋敷に迎え入れた。キアナ村に与えられた多額の支援金と引き換えに、私は過去と縁を切った。まあ、エミーリアおばさんのように、口の軽い恩知らずはどこにでもいるものだが」
辛辣な言葉を吐き捨てたイルゼは、唇を歪めて笑った。
「貧しい村の娘を伯爵家が養子にしたのなら、悪い話ではないでしょう。むしろ美談だ。村と縁を切る……過去を隠すなんて大げさな」
フランクは声を潜め、イルゼを見た。
遠くで歓声が上がる。おそらく、災龍の首が落ちたのだ。
イルゼは軽く肩をすくめた。
「伯爵と血の繋がった一人娘は、災龍に襲われて乳母と共に命を落とした。一歳だったそうだ。彼女の名は、イルゼ・ブラントという」
まさか。
フランクは息を飲んだ。
意味を悟った相手に、よくできましたと言わんばかりにイルゼは頷く。
「貴族の中には選民思想に凝り固まった奴らがいるからな。養子では差別され、相手にされない。彼らに侮られないためにも、復讐に燃える伯爵の願いを叶えるためにも、私は伯爵家の死んだ一人娘に成り代わって今、災龍を一匹でも多く屠るために、ここにいる」
それは深く、決意を込めた声だった。
イルゼ・ブラントの成り代わり。
はっきりとそう言った彼女は、腰に手を当て、にこりと笑った。
「さて、赤狼隊の情報収集部のフランク・ルーマン。君は欲しかった情報を手に入れたわけだが、これを持ってバーデン隊長に報告するか」
細い路地の脇を、ネズミが素早く駆け去っていく。生臭い、風が吹いた。
ぎくりと肩を震わせたフランクは、何も言えずにイルゼを窺う。
「うちにも、優秀な情報収集部がある」
底知れない青い瞳が薄闇の中、鋭く光る。
挑発、諦念、自信、憤怒。どの感情かと伺ってみても、容易にそれを悟らせない。
フランクは無意味に唇を舐めた。
今、聞いた話をバーデンに持ち帰ったら、嬉々として貴族連中に「ブラント青鷲隊隊長は正当な伯爵家の長女ではなかった。偽物だ。皆を騙している」と触れ回るだろう。伯爵家がいかに彼女を認めようと、その立場の正当性を疑問視し、騎士団の隊長位から引きずりおろす策をいくつも練り上げて実行に移していくはずだ。
ヘルベルト・バーデンという男は、自分より目立つ存在が嫌いで、自分が敵と認識した相手を徹底的に攻撃することに労を惜しまない男だ。
「……隊長は……ブラント隊長は、赤の他人に、成り代わって災龍と戦うことに納得しているんですか」
擦れた声を咳払いで誤魔化して、フランクは小さな声で問う。
彼女は、キアナ村にいた頃の本当の自分の人生ではなく、伯爵家の娘という他人の人生を歩まされているのだ。イルゼ・ブラントという名前さえ、彼女の本当の名前ではない。それで、本当にいいのだろうか。
フランクの問いに、イルゼは一呼吸分、間を置いた。
そっと伏せられた長い睫毛は震えて、それでもすぐに、強い光を宿してフランクを見た。
「母に温かい布団を、父に新しい斧を買ってあげられた。伯爵の金で、村には学校ができた。兄も姉も、読み書きができれば働き口に困らないだろう」
その頬には、ひどく柔らかな笑みが浮かんでいた。
「伯爵は私の望みを叶えてくれた。だから、私は彼とその妻の望みを叶える」
おそらく七歳の子供が必死に考え出した、家族が幸せになる方法。
その契約は、きっとイルゼが死ぬまで有効で。
彼女は延々と、騎士団で災龍に向かっていかねばならない。
「衣食住には不自由しないし、仲間もいる。何より、私は災龍討伐が意外と得意でな」
考え込みそうになったフランクの肩に手を置き、イルゼはからりと笑った。
その少しの未練も感じさせない様子に、フランクは肩の力を抜いて苦笑するしかない。
他人のフランクがいくら彼女に思いを寄せようとも、しょせんは赤の他人だ。
彼女の人生に取って代わることも、その重荷を共に背負うこともできない。
「知ってます」
それはもう、今日の討伐を見れば一目瞭然。
まるで重力を感じないような身軽な動き、的確に敵を仕留める剣さばき。騎士ならば、自分もああやって動いてみたいという動きそのものだった。
イルゼは笑みをおさめると、静かに言った。
「私の出自は、副隊長のライムントもベルク騎士団長も知らない。知っているのは、家族と君だけだ。イルゼ・ブラントの秘密、というところかな」
「事が大きすぎます」
「そうか?」
頭を抱えたフランクに、イルゼは満足そうに微笑んだ。
「情報をどう扱うかは、君に任せる。君は信頼できる男だ」
「何故そうとわかるのです」
彼女と言葉を交わしたのは、ここ最近だけ。とくにバーデンの配下として、信用に値する部分など爪の先ほどもないはずだが。
イルゼはなんでもないことのように片眉を上げ、くるりと身を翻す。そしてフランクの横を通り過ぎつつ、
「とっさに自分の身を挺して子供を守れる人に、悪い奴はいないよ」
靴音を響かせながら、青鷲隊隊長は路地の入口へと向かう。
ほぼ同時に、通りから「ブラント隊長! 何やってるんですか!」「早く来てください! 始末屋が勝手に解体を始めました!」「怪我をしていませんか。白鯨と黒鹿の隊長が来てくださっています!」と賑やかな声が聞こえてきた。
フランクはそのすらりとした後ろ姿を、いつまでも見つめていた。




