【序章】影のなかの光
「ほんの小さな火種が、誰かの報復となり、
その報復が別の正義にすり替わり――
悲しみが引き金になったその連鎖は、止まることなく世界を巻き込んでいった。
そして2100年、理性や対話といった言葉は、記録の中にしか残っていない。」
「冷静さ」や「話し合い」といった言葉は、すでに歴史の片隅に追いやられて久しい。
気を抜いた瞬間に、空から爆弾が落ちてくる。
今日、生き延びた理由を、明日には忘れてしまう。
世界はもう、“生き残ること”以外の価値を持たなくなっていた。
かつて平和国家と呼ばれていた日本も、その例外ではなかった。
経済は崩壊し、都市は分断され、制度は瓦解した。
誰もが理想を語れなくなった代わりに、“守りたいもの”だけを数えるようになった。
家族を。
恋人を。
記憶を。
そして、過去の中のほんのわずかな「光」さえも。
この国の片隅で、ひと組の兄弟がいた。
臆病で、だれよりもやさしい兄。
まっすぐで、怒りを力に変える弟。
ふたりはまだ信じていた――平和という名の“夢”が、ただの幻想ではなかったことを。
これは、そんなふたりが「戦いの中で、それでも希望を選ぶ」物語である。
瓦礫の隙間に身を潜め、缶詰のふたを慎重に開ける音が響く。
「兄さん、スプーンは…?」
「うん、ごめん。昨日、水に落とした」
「またかよ。しょうがねえなぁ」
蒸気の抜けた豆の缶詰は、少し酸っぱい匂いがした。
兄・アキは申し訳なさそうに笑い、弟・カナトはため息まじりにそれを受け取る。
戦場の夕食にしては、まあ、悪くない。
「それにしても、今夜は静かだな」
「嵐の前ってやつじゃないといいけど」
カナトは銃の手入れをしながらつぶやく。
アキはそれを眺めながら、ふと空を見上げた。
雲の切れ間から月が覗いていた。
こんな夜は、夢を見そうだ。
「ねえ、カナトは最近、夢って見てる?」
「は?いきなり何だよ」
「俺、この前見たんだ。昔住んでたアパートで、母さんと金魚すくいしてる夢」
「……ふーん。でも母さん、金魚すくい苦手だったじゃん」
「そうそう。すぐ破るんだよ、ポイ」
アキがくすくすと笑う。カナトはちょっとだけ口元を緩めた。
「……夢か」
「うん。ああいうのって、起きたあと余計に寂しくなるね」
「だから見たくねぇんだよ、俺は」
言葉が落ちた後の沈黙は、たき火の火の音だけが埋めていた。
翌朝、警報が鳴った。
敵の無人偵察機が、地下拠点の発電システムを狙ってきたらしい。
彼らが身を寄せるレジスタンスの一小隊――隊員たちはすぐに臨戦態勢に入る。
カナトはすでに地雷除去チームに編成されており、現場に急行。
一方アキは医療班に残り、負傷者の処置に当たることになっていた。
「兄さん、あんま無理すんなよ」
「うん。……カナトこそ気をつけてね」
交差したままの視線が、一瞬だけ絡む。
彼らは戦争では、それが最後になることもあると知っていた。
カナトは走り出しながら、ふと昨夜のことを思い出していた。
焼け落ちた駅のホーム。
雑草の茂った縁にぽつんと座っていた、あの少年の姿を。
陽の光が、崩れかけた駅の屋根の隙間から差し込んでいた。
雑草がホームの縁からのびて、まるでこの世界にもまだ柔らかさが残っているとでも言うようだった。
アキは慎重に歩を進めながら、誰かの気配を感じていた。
カナトが背後から囁くように言う。
「兄さん、ホームの端……座ってるやつがいる」
そこには、少年がいた。
ひどく痩せていて、肩は細く尖っていたが、瞳だけは不自然なほど澄んでいた。
右手に握ったペットボトルの中で水が揺れる。
少年はふたりに気づくと、ゆっくりと立ち上がり、構えるように身構えた。
「……水。交換できるか?」
カナトは即座に反応して、手を銃へとかけるが、アキがそれを止める。
「……名前、聞いてもいい?」
沈黙のなか、少年は小さく吐き出すように言った。
「ユーマ……。お前ら、レジスタンスか?」
アキは頷いた。「物資はないけど……何日も食べてないでしょ。来る?」
ユーマは数秒の間、アキの顔をじっと見ていた。その目は、まるで人の“嘘の重さ”を測るようだった。
それからようやく、彼はほんの少しだけ頷いた。
「……俺の兄貴と似てるんだよ、お前。声の出し方」
アキはその言葉に、わずかに目を細めた。
“兄貴”という響きに、どこか懐かしいものが滲んでいた。
それ以上ユーマは何も言わず、視線を外した。
その記憶が、今も胸の奥で熱を帯びていた。
帰り道、夕焼けが廃線の線路を照らしていた。
カナトが後ろを歩きながら、ため息まじりにぼやく。
「不用心すぎるだろ、兄さん。こんなときに、知らねぇ奴連れて帰るとかさ」
「……でも、あの子、本当に一人だった。追い払ったら、どこにも行けなかったと思う」
カナトはため息をつく。「いつもそうだよな、お前は」
でもその声音に、怒気は含まれていなかった。
廃墟と化した地下の拠点に戻ると、アキは焚き火にスープの鍋をかけた。
ユーマは壁にもたれたまま、その匂いに目を細める。
「悪いな、今日の具は豆だけだ」
ユーマは少し笑って、「……兄貴がつくるスパゲッティよりマシだよ」とぼそりと呟いた。
アキとカナトが顔を見合わせて笑う。
そのとき確かに、ほんの数秒だけ、戦争が存在しない世界と地続きになった気がした。
笑いは、ほんのひとときで火の音に吸い込まれた。
誰も言わなかったが、三人とも思っていた。
「こうしてまた一緒に食べられる日があるなんて」と。
──けれどそれは、最後の晩餐だったのかもしれない。
その日の戦場は、最悪だった。
地雷原の先、かすかな金属音が風に乗って届いた。
それは「何かを起動する音」に聞こえた。
地雷原の奥に新型爆裂弾が仕掛けられていたのだ。
「……止まれ!」
誰かの声とほぼ同時に、爆ぜるような高周波が地面を這った。
ユーマがいたはずの方向から、白い閃光が走る。
遅れて鼓膜を打つ破裂音。
重く湿った風が辺りの空気を変えた。
煙の向こう、叫び声がかき消される。
「ユーマ……!?」
カナトが走り出すが、そこには何も残されていなかった。
「ユーマの姿は、どこにもなかった。
“爆裂弾の衝撃で、跡形もなく吹き飛んだ”――そう誰かが呟いたが、
アキの目には、まだ探し足りない何かが残っていた。」
アキは最後まで周囲を探し続けた。瓦礫の下、焦げたブリキの隙間、血の染みた土。
やがて、焦げたペン軸と紙切れが見つかった。
濡れてにじんだ字の上に、カナトの手がそっと影を落とす。
「“兄貴へ 今度会ったら ちゃんと言うよ。ごめんって。”」
短い言葉だった。けれどその文字の不器用な角度が、必死に何かを伝えようとしていた。
アキは黙って紙を受け取り、ポケットにしまった。
何も言わなかった。
言葉にすれば、形が壊れてしまいそうだった。
夜、誰も眠れずにいた。
アキは火のそばでスープをかき混ぜ、カナトはその隣に座っていた。
「……あいつ、兄貴と似てるって、言ってたよな」
「うん。最初に会ったときから言ってた」
「……どこが、似てたんだろうな」
「“声の出し方がやわらかい”って。……俺、自分じゃわかんないけど」
沈黙が流れる。火がパチ、と鳴って、豆の匂いがふわりと上がる。
「次に夢の中で会ったらさ。何か言ってやれるかな」
「……たぶん、何も言わなくても、伝わる」
アキは静かに目を閉じた。
カナトも、空を見上げながら寝袋にもぐった。
ほんの数分、眠りに落ちる直前。
アキは夢の中で誰かの背中を見たような気がした。
白いシャツ。古い自転車の音。遠ざかる影。
夢だったのか、記憶だったのか、わからなかった。
けれどその影がふり返ったとき――間違いなく、笑っていた。
朝がくる。
戦争はまだ続いている。
でも、兄弟の心には確かに“何か”が遺された。
それは血でも記録でもなく、「誰かの言葉にならなかった想い」だった。
焚き火の余熱が、静かにくすぶっていた。
もうすぐ朝の巡回が始まる。
戦況は待ってくれなかった。
砲声が近づく。無線が割れる。
レジスタンスの部隊がさらなる攻撃を受けていた。
「……行くしかないか」
カナトが低く言った。
喪失を胸にしまい込むように、防弾ジャケットのジッパーを引き上げた。
アキは何も言わずにうなずく。
わずかな躊躇のあと、彼は弟の背中に手を伸ばしかけて、やめた。
前線では、すでに崩壊が始まっていた。
地雷原の先、仲間がひとり、またひとりと倒れていく。
カナトは歯を食いしばり、体を低くして前に出る。
「くそっ、これ……聞いてねぇぞ……!」
そのときだった。
背後から、突風のように何かが飛び込んできた。
「っ、兄さん……!?」
アキだった。
医療班の腕章も、ジャケットもつけず、
ただそのままの姿で、爆裂弾の前に立ちはだかっていた。
「……やっぱり、放っておけなかった」
爆裂弾の起動まで、あと数十秒。
「俺がコードを引き抜く。カナト、これを持って離れて」
「やめろ、死ぬ気かよ!」
「大丈夫。きっと間に合う」
アキの笑みは、ひどく優しくて、
それがかえってカナトの叫びを深くした。
彼らは生き延びた。
アキが爆裂弾の起動をギリギリで止めたのだ。
爆風は避けられたが、彼の腕には無数の裂傷が走っていた。
それでも彼は、無事だった。
そしてその晩、兄弟は再び並んで眠った。
「なあ、兄さん」
「うん?」
「俺、昔の夢を見た気がする。兄さんと二人で夏祭りに行ってさ」
「金魚、また逃がした?」
「うん。……でも、お前が笑ってたのが、すげーリアルだった」
「夢じゃなくて、記憶かもね」
夜が静かに降りていく。
まだ戦争は終わっていない。
でも彼らは、確かにそこにいた。