1-5. 動き出す疑惑
公証役場でのやり取りを終え、健太はすぐに警察署に向かった。下町を管轄するこの警察署は、いつも通り慌ただしく、刑事課のフロアには張り詰めた空気が漂っている。健太は、受付で事情を説明し、刑事課のベテラン刑事、田中に話を聞いてもらえることになった。
田中刑事は、白髪交じりの頭を掻きながら、健太の話をじっと聞いていた。机の上には、飲みかけの缶コーヒーと、山積みの事件ファイル。彼の顔には、長年の刑事生活で培われたであろう疲労の色が深く刻まれているが、その眼光は鋭く、健太の話の核心を探っているのが見て取れた。
健太は、鈴木正義からの相談内容、偽造された委任状と印鑑の不審な点、特に「特殊インクによる手書き再現」の可能性、公証役場での公証人の証言、そしてNPO法人「ふるさと再生プロジェクト」と地面師との関連性まで、知っている限りの情報をすべて田中刑事に伝えた。
田中刑事は、健太の話を聞き終えると、深い息を一つ吐いた。
「司法書士の先生が、そこまで調べ上げたのは立派だ。しかしな、佐々木先生」
田中刑事は、缶コーヒーを一口飲むと、健太の目を見た。
「地面師の手口が巧妙化しているのは事実だ。偽造の精度も年々上がっている。だが、現状では、まだ『土地が奪われた』という明確な被害は発生していない。売買契約が進められようとしている、という段階に過ぎない」
健太は、田中刑事の言葉に、胸が締め付けられる思いだった。やはり、予想通りの返答だ。
「しかし、田中刑事!このままでは、鈴木正義さんの大切な土地が、そして老舗の鈴木醸造が、彼らの手に渡ってしまいます!公証役場の認証まで欺いているんですよ!」
「分かっている」田中刑事は、冷静に答えた。「だが、警察が動くには、具体的な被害の発生、あるいは犯行の着手があったと判断できる明確な証拠が必要だ。偽造されたと思われる書類があるとはいえ、まだそれが直接的な被害に繋がってはいない。それに、公証役場が認証したという事実も重い。彼らは『本人確認は厳重に行った』と主張するだろう」
「でも、公証人の方は、私が指摘した『急いでいた様子』について、ご自身の確認不足があったと認めてくださいました!」健太は食い下がった。
「うむ。それは重要な情報だ。だが、それだけでは、彼らの組織的な犯行を立件するには弱い。NPO法人の件も、不審な点はあるが、現段階では決定的な証拠とは言えない。詐欺師は、常にいくつもの偽装を用意しているものだからな」
田中刑事は、そう言いながら、健太が提出した資料に目を通していた。特に、委任状の印影を拡大して見ると、その眉間に深い皺が刻まれた。
「この印影の滲みと、甘い匂いか……これは興味深い。鑑識に回してみる価値はあるかもしれんな」
その言葉に、健太はわずかな希望を見出した。鑑識で「特殊インクによる手書き再現」の証拠が掴めれば、警察も本格的に動いてくれるかもしれない。
「すぐに、捜査を開始していただけるのですね?」健太は前のめりになった。
田中刑事は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。すぐに大々的に動くわけにはいかん。だが、情報として受理し、内偵は開始する。君が言っていたNPO法人については、我々もかねてから動向を注視していた団体だ。もし、彼らが裏で動いているとなれば、話は別だ」
「動向を注視…?」健太は驚いた。
「ああ。ここ最近、この再開発地域で、住民の土地を巡る不審な動きがいくつか報告されている。NPO法人を隠れ蓑にした、巧妙な地上げ行為が行われているとの情報も掴んでいた。君の情報は、その点と一致する」
田中刑事の言葉に、健太はぞっとした。やはり、鈴木醸造は単なる偶然の被害者ではない。このNPO法人は、再開発を餌に、この下町の土地を狙っていたのだ。そして、鈴木醸造は、その標的の一つに過ぎない。
「では、鈴木さんの土地が、彼らに狙われていることは間違いないのですね?」健太は確認した。
田中刑事は、静かに頷いた。「可能性は極めて高い。彼らは、一度狙いを定めた土地は、どんな手を使っても手に入れようとする。しかし、佐々木先生。焦るな。彼らが最も嫌うのは、事前に手口がバレることだ。君が動いていることを察知すれば、さらに巧妙な手段で逃げを打つか、あるいは……」
田中刑事は、言葉を選んだ。
「あるいは、君の身にも危険が及ぶ可能性もある。司法書士は、決して一人で突っ走るべきではない。専門家と連携し、慎重に進めるんだ」
田中刑事の言葉は、健太の心に重く響いた。自分の身に危険が及ぶ可能性。それは想像していなかったわけではないが、改めて指摘されると、恐怖を感じずにはいられなかった。しかし、同時に、正義を救うためには、自分が動かなければならないという強い使命感も湧いてきた。
「分かりました、田中刑事。私にできることを、司法書士として、最大限にやらせていただきます」健太は、力強く答えた。
警察署を出た健太は、足早に事務所へと戻った。心の中には、不安と緊張、そして何よりも、正義への強い責任感が渦巻いていた。
事務所に戻ると、ミケがドアの前に座って、健太の帰りを待っていた。健太がドアを開けると、ミケは「ニャア」と一声鳴き、健太の足元に擦り寄ってきた。
「ただいま、ミケ」健太は、ミケを抱き上げた。ミケは、健太の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らした。その温かい感触が、健太の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
健太は、事務所のデスクに座り、改めて今後の対策を練り始めた。警察はすぐに動けない。公証役場も協力はしてくれるが、本格的な捜査は警察の役割だ。つまり、まずは自分が、地面師の動きを食い止め、さらなる被害を防ぐための手を打たなければならない。
まず、一番に思いついたのは、登記申請の「却下」または「取り下げ」を狙うことだ。
地面師たちは、最終的に土地の所有権移転登記を完了させようとするだろう。その登記申請がなされる前に、何らかの不正を立証し、登記を阻止する必要がある。
健太は、不動産登記法のテキストを開いた。
もし、偽造された委任状を使って登記申請がなされた場合、その登記は無効である。しかし、既に登記されてしまえば、その登記を抹消するには、裁判を起こさなければならない。時間も費用もかかる。そうなる前に、阻止するのだ。
「登記申請がなされたら、すぐに『申出』を行う。そして、『登記手続に関する異議の申立て』も……」健太は、ぶつぶつと呟いた。
これらの手続きは、司法書士として行える法的措置だ。登記申請があった場合に、不正な登記であると登記官に知らせ、審査を慎重に行わせるよう求めることができる。
だが、問題は、地面師がいつ、どの法務局に登記申請を行うかだ。彼らが複数の法務局に分散して申請を試みる可能性もゼロではない。健太は、鈴木正義の所有する土地の管轄法務局に、不正な登記申請があった場合の警戒を促すべく、事前相談に行くことを決めた。
その時、ミケが、健太のデスクの上の電話に前足で触れた。健太の携帯電話だ。
「ミケ?電話か?」
ミケは、健太の携帯電話から、とある番号を指すように、液晶画面にチョン、と触れた。それは、健太が司法書士会の研修で知り合った、若手弁護士の橘の番号だった。橘弁護士は、若手ながら消費者問題や不動産紛争に強く、切れ者で知られている。
「橘先生に……?」健太は驚いた。ミケは、健太の思考を完全に読み取っているかのようだ。
健太は、迷わず橘弁護士に電話をかけた。
「もしもし、橘先生。佐々木です。実は、ご相談したいことがありまして……」
健太は、これまでの経緯と、今回の地面師詐欺の全容を橘弁護士に説明した。橘弁護士は、健太の話を途中で遮ることなく、じっと耳を傾けていた。そして、健太が話し終えると、深くため息をついた。
「なるほど……それは、かなり悪質な手口ですね。公証役場の認証まで欺くとは、組織的犯行である可能性が高い。若手の先生一人で抱え込むには、荷が重いでしょう」
橘弁護士の冷静な言葉に、健太は自分の不安を再認識させられた。
「やはり、私では……」
「いえ、そうではありません、佐々木先生」橘弁護士は、健太の言葉を遮った。「先生の初期段階での情報収集と分析は、素晴らしい。特に、印影の『手書き再現』の可能性に気づかれたのは、鑑識官でも見落とすような細部です。そして、NPO法人の関連性まで突き止めたとは、恐れ入りました」
橘弁護士の言葉に、健太は少しだけ胸を張った。ミケのおかげだ、と心の中で呟きながら。
「この件は、司法書士の業務範囲を超える訴訟になる可能性が高い。しかし、まずは司法書士として、登記を阻止するための最善の手を尽くすべきです。私も、弁護士として、この件に協力させていただきます」
橘弁護士の力強い言葉に、健太は安堵の息を漏らした。やはり、専門家との連携は不可欠だ。
「ありがとうございます、橘先生!」
「まずは、公証役場と法務局に改めて連携を強めてもらうこと。そして、鈴木様と連携を取り、不審な接触がないか、常に情報を共有することです。同時に、我々の方でも、NPO法人『ふるさと再生プロジェクト』の徹底的な調査を開始しましょう」
橘弁護士は、具体的な指示を出した。その冷静で的確な判断力に、健太は感銘を受けた。
「それから、佐々木先生」橘弁護士は続けた。「彼らは、あなた方が動いていることを察知すれば、必ず何らかの圧力をかけてくるでしょう。身の安全には、くれぐれも注意してください」
橘弁護士の言葉は、田中刑事の忠告と重なった。健太の背筋に、再び冷たいものが走った。
電話を切ると、健太はミケに目をやった。ミケは、相変わらずデスクの上で丸くなっているが、その瞳は、健太の不安な気持ちを読み取っているかのように、じっと健太を見つめている。
「ミケ……大変なことになってきたな」
ミケは、健太の言葉に「ニャア」と一声鳴くと、健太の指先をそっと舐めた。その温かい感触が、健太の心に、再び勇気を与えてくれた。
健太は、橘弁護士のアドバイスを元に、今後の行動計画を立て始めた。まず、明日、法務局へ行き、登記官に今回の事情を説明し、不正な登記申請があった場合の「警戒」を促す。そして、もし登記申請があれば、すぐに「異議の申立て」を提出する準備を整える。
同時に、NPO法人「ふるさと再生プロジェクト」に関する情報収集をさらに強化する。彼らが、この下町で他にどんな土地を狙っているのか。どんな人物が関わっているのか。その背後には、どんな組織が隠れているのか。
夜が更け、事務所の窓からは、下町の明かりが点々と輝いている。再開発の工事現場のクレーンは、暗闇の中に黒い影を落としていた。
健太は、明日からの戦いに備え、深く息を吐いた。
この街の平和を、そして正義さんの大切な土地を、何としても守り抜く。
その決意を胸に、健太は、隣で静かに眠るミケの頭を優しく撫でた。
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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
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