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街ねこ司法書士、消えた土地の夢  作者: W732
第1章:消えゆく下町の影
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1-4. 再開発の足音

 鈴木正義との面談を終え、健太は重い空気の漂う事務所で一人、ミケと向かい合っていた。こはるは、健太の膝で眠ってしまったミケを抱きかかえながら、正義が帰った後も心配そうに健太を見つめていたが、健太が「大丈夫だよ、こはるちゃん」と頭を撫でると、少しだけ安心したように、ミケと一緒に帰路についた。

 夕日が窓から差し込み、事務所の床に長い影を落とす。健太は、デスクに広げた偽造委任状の写しを改めて見つめた。そこから漂う微かな甘い匂いが、まだ鼻に残っているような気がした。

「特殊インクによる手書き再現か……」健太は呟いた。司法書士会の研修資料で読んだ知識が、まさかこんな形で現実になるとは。公証役場の認証印まであるとなると、これは単なる素人の手口ではない。背後には、相当な情報力と技術力を持つ組織が潜んでいるに違いない。

 健太は、自分の司法書士としての経験の浅さを痛感していた。開業して三年。確かに登記業務や相続手続きはこなせるようになった。しかし、今回のような詐欺事件、それも土地を巡る巨額な地面師詐欺となると、話はまるで違う。自分の力で、本当に正義を守れるのだろうか。不安が、心の底から込み上げてくる。

 ミケは、健太のデスクの上で丸くなり、時折、健太の顔を見上げては、小さな声で「ニャア」と鳴いた。その声は、健太の不安な気持ちを察しているかのように、優しく、そして力強く聞こえた。

「ミケ……僕に、できるのかな……」健太は、弱気な声でミケに語りかけた。

 ミケは返事をする代わりに、健太の腕にそっと頭を擦り付けた。そして、健太の指先を軽く舐めた。その温かい感触が、健太の心を少しだけ落ち着かせた。

 健太は、まず何から始めるべきか、思考を整理した。

 第一に、公証役場への問い合わせだ。

 公証役場は公正証書を作成し、私文書に認証を与える公的機関だ。当然、本人確認は厳重に行われる。しかし、今回のケースでは、偽造された印鑑登録カードと、巧妙ななりすましによって突破された可能性が高い。それでも、公証人が本人確認の際に何か違和感を覚えなかったか、あるいは、どんな人物が「鈴木正義」として現れたのか、詳しく聞き出す必要がある。もし、その人物の顔写真でも残っていれば、大きな手がかりになるかもしれない。

 第二に、警察への相談。

 これは明らかな詐欺事件であり、場合によっては組織犯罪に発展しかねない。しかし、警察は現段階ではまだ被害が完全に確定していないため、動きが鈍い可能性もある。それでも、情報提供と捜査依頼を出すことは重要だ。特に、印鑑証明書の不正取得は、公文書偽造の罪にも問われる。区役所との連携も必要になるだろう。

 第三に、土地の登記簿謄本の詳細な確認。

 正義が所有する土地の登記状況を改めて確認し、不審な動きがないかを洗い出す。仮登記が打たれていないか、あるいは、抵当権が設定されていないかなど、見落としがないように慎重に調べる必要がある。もし、すでに何らかの登記がなされている場合は、急いで仮処分申請などの法的措置を取る必要がある。

 第四に、地面師が名乗った不動産業者の情報収集。

 彼らがどんな組織で、これまでどんな詐欺を行ってきたのか。関連する会社がないか、インターネットや不動産業界のデータベースなどで徹底的に調べる。

 第五に、弁護士との連携。

 司法書士の業務範囲を超える訴訟や、より高度な法律判断が必要になった場合のために、信頼できる弁護士に事前に相談しておくことも重要だ。健太には、司法書士会の研修で知り合った、若手だが切れ者の弁護士の知人がいる。彼に相談すれば、良いアドバイスがもらえるかもしれない。

 健太は、一つ一つ課題を書き出し、自分にできることを洗い出した。しかし、どれもこれも、健太一人でこなすには荷が重い。

 その時、ミケが健太の指先を軽く噛んだ。そして、デスクの上にあった、ある雑誌のページを前足で叩いた。それは、健太が休憩中に読んでいた、「下町の再開発と未来」と題された地域情報誌だった。

 健太は、雑誌を手に取り、ミケが示したページを開いた。そこには、下町の区画整理計画の概要が詳細に記されていた。高層マンションの建設計画、商業施設の誘致、そして、立ち退きを余儀なくされる住民への補償……。その記事の片隅に、こんな一文を見つけた。

『今回の再開発は、NPO法人「ふるさと再生プロジェクト」が推進する、地域活性化事業の一環として進められます』

 健太は、ハッとした。NPO法人?てっきり、大手デベロッパーが主導する計画だと思っていた。なぜ、NPO法人が?

 ミケは、そのNPO法人の名前を指差すかのように、再び前足で雑誌をトントンと叩いた。

 健太は、すぐにそのNPO法人についてインターネットで調べ始めた。すると、そのNPO法人の代表理事の名前が、正義の家を訪ねてきた「宗教団体の勧誘員」を名乗った男のうちの一人と、わずかに似ていることに気づいた。名字は違うが、下の名前が一致する。そして、顔写真も、正義が証言した人物のイメージと重なるような気がした。

「まさか……」健太は息を飲んだ。

 もし、このNPO法人が、地面師詐欺と繋がっているとしたら?

「再開発」を隠れ蓑にして、地元の住民の土地を狙っているとしたら?

 情報誌には、NPO法人の活動内容として、「地域住民との対話」「伝統文化の継承」「住みやすい街づくり」といった、耳障りの良い言葉が並んでいた。しかし、その裏で、こんな悪質な詐欺が行われているとしたら、それは許されることではない。

 ミケは、健太がNPO法人のウェブサイトを凝視していると、パソコンの画面に顔を近づけた。そして、ウェブサイトに掲載されていた、NPO法人の代表理事の顔写真を、じっと見つめ、小さく「シャー!」と威嚇するように鳴いた。

「ミケ!どうしたんだ!?」健太は驚いた。ミケがこんなに激しく威嚇することは滅多にない。

 ミケは、威嚇を止めず、その代表理事の顔写真に向かって、まるで攻撃するかのように、前足を伸ばそうとした。その目には、明らかに警戒の色が浮かんでいる。

「この人が……あの時の男なのか……」健太は、正義が語った男たちの特徴を思い出した。「背が高く、目が笑っていない……」

 ミケの反応は、このNPO法人の代表理事が、正義を騙そうとした地面師の一味であることを強く示唆していた。そして、このNPO法人が、再開発を装って住民の土地を狙う、巧妙な手口の詐欺組織である可能性が浮上したのだ。

 健太の背筋に、冷たいものが走った。もしそうなら、この詐欺は鈴木醸造だけに留まらない。この下町全体の住民が、狙われているかもしれないのだ。

 健太は、急いでこのNPO法人の登記情報を調べ始めた。すると、代表理事の氏名以外にも、いくつかの不審な点に気づいた。役員の顔ぶれに、これまで不動産業界では聞いたことのないような名前が並んでいる。そして、法人の設立年月日が、再開発計画が具体的に動き出した時期とほぼ一致していることだ。

 さらに、ウェブサイトに記載されている「活動実績」の多くが、具体性に欠け、写真もどこかよそよそしい。まるで、形だけ取り繕った「ハリボテ」のようだった。

「これは……確信犯だ」健太は呟いた。

 健太は、今夜のうちに、司法書士の先輩である沢村楓に連絡を取ることにした。沢村先生は、健太が司法書士試験に合格した後、少しの間実務を学んだ時期があった、数少ない信頼できる先輩だった。

 クールで物静かながらも、司法書士としての腕は確かで、どんなに難しい案件もスマートにこなす。困った時には、的確な助言を与えたり、さりげなく助けてくれたりする、頼れる先輩だ。

 そして、明日の朝一番で、警察に情報提供を行う。たとえすぐに動いてもらえなくても、記録に残しておくことは重要だった。

 健太は、重い腰を上げ、事務所の電話を手に取った。沢村先生に電話をかけながら、健太は改めてミケに目をやった。ミケはもう威嚇することなく、健太のデスクの隅で丸くなっている。しかし、その小さな体から発せられる存在感は、健太にとって何よりも心強いものだった。

「よし、やるぞ」健太は心の中で呟いた。

 翌日。健太は、眠い目をこすりながら、朝一番で管轄の公証役場へ向かった。公証役場の扉を開けると、ひんやりとした空気が健太を包み込んだ。厳かな雰囲気の中で、健太は窓口の職員に事情を説明した。

「鈴木正義様の委任状の認証について、お伺いしたいのですが……」

 職員は、健太の司法書士証をちらりと確認すると、事務的な口調で応対した。「個人情報に関わることですので、ご本人様からの直接のお問い合わせでなければ、詳細はお答えできません」

 やはり、簡単に情報は引き出せない。健太は、事前に予想していた返答だったため、動揺せず続けた。

「承知しております。しかし、この委任状に、不正に認証された可能性が浮上しております。有印私文書偽造、なりすましによる認証詐欺の疑いです。当職は、ご本人様から正式に依頼を受けております」

 健太が「詐欺」「なりすまし」といった言葉を使うと、職員の顔色が変わった。職員は、奥の部屋に一度引っ込み、しばらくすると、公証人と思しき初老の男性を伴って戻ってきた。

 公証人は、健太に名刺を差し出した。

「わたしは、この役場の公証人です。詳しいお話をお聞かせ願えますか」

 健太は、改めて正義から聞いた経緯と、ミケが示した「特殊インクによる手書き再現」の可能性、そしてNPO法人「ふるさと再生プロジェクト」の不審な点について説明した。公証人は、健太の話を真剣な表情で聞いていたが、健太が「偽造印鑑が手書きで描かれた可能性」を口にすると、眉をひそめた。

「手書きで、と申されますか……?当役場では、本人確認を厳重に行っております。印鑑登録証明書と実印の照合も必ず行い、ご本人様が目の前で押印されるのを確認いたします」

 公証人は、自信を持ってそう言った。その言葉に、健太は一瞬、心が折れそうになった。やはり、自分の推測は間違っていたのだろうか。

「しかし、印影に、微かな甘い匂いが残っておりました。そして、拡大すると、手書きのような滲みが見られます。もしかしたら、先生が気づかないほどの、巧妙な手口が使われた可能性はないでしょうか?」健太は食い下がった。

 公証人は、健太の言葉に、わずかに動揺した様子を見せた。そして、もう一度、奥の部屋に引っ込むと、しばらくして、当時の認証記録と、認証時の委任状の原本を持って戻ってきた。

「これが、二週間前の鈴木正義様の認証記録と、その時の委任状の原本です。確かに、ご本人様が印鑑証明書を提示し、実印を押印されました。記録にもそう残っています」

 健太は、震える手で、その委任状の原本を受け取った。そして、改めて印影を嗅ぎ、拡大鏡で凝視した。やはり、微かな甘い匂いと、滲みが確認できる。しかし、公証人が「目の前で押印を確認した」と言う以上、手書きの可能性は低いのか……?

 その時、健太は、ふと公証人の顔色に気づいた。彼の顔には、微かな焦りが見て取れる。そして、何かを隠しているかのような、ぎこちない視線。

「先生、この委任状の認証を行った際、鈴木正義様は、何か変わった様子はありませんでしたか?例えば、妙に落ち着かない様子だったとか、誰かに急かされているような雰囲気だったとか……」健太は、公証人の心理を読み取るように尋ねた。

 公証人は、一瞬、返答に詰まった。

「いえ……特に変わった様子は……。しかし……」

 公証人は、言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。

「実は、認証の際、鈴木様は、非常に『急いでいる』ご様子でした。『次の予定があるから、早く済ませてほしい』と、何度も仰っていました。そのため、通常の本人確認よりも、やや迅速に進めてしまったかもしれません……」

 健太は、公証人の言葉に、ハッとした。

 そうか、「急いでいる」。

 地面師たちは、事前に鈴木正義の情報を徹底的に調べ上げている。彼の性格、生活習慣、そして、その日の予定まで把握していたのかもしれない。公証役場で認証を受ける際、本人になりすました地面師は、あえて「急いでいる」と公証人に伝え、厳重な本人確認を疎かにさせるよう仕向けたのだ。そして、その隙に、巧妙な手口で偽造印鑑を「押印した」と見せかけたのかもしれない。

 例えば、透明な特殊なシートを印鑑に貼り付けておき、それを印鑑が押されたように見せかける。あるいは、特殊な液体を含ませた紙片を印鑑の下に忍ばせ、一瞬で印影が浮かび上がるように仕組む……。

「そして、その際に、印影から微かに匂いが残ったのですね……」健太は確信した。ミケが示した「手書き」という直感は、まさにその「巧妙な偽装」を指し示していたのかもしれない。

 公証人は、健太の言葉に顔色を変えた。彼もまた、自分が見破れなかった巧妙な手口に気づき始めたのだろう。

「佐々木先生……わたしの確認不足があったかもしれません。この件、わたしも、責任を持って調査に協力させていただきます」公証人は、深々と頭を下げた。

 健太は、公証人の協力を得られることに、大きな希望を見出した。公的な機関が動けば、警察も動かざるを得ない。

「ありがとうございます、先生」健太は頭を下げた。

 公証役場を出た健太は、すぐに警察署へと向かった。まだ具体的な被害が確定していない段階で、警察がどれほど動いてくれるかは未知数だ。しかし、公証役場での調査結果と、NPO法人の不審な点、そしてミケが示した手がかりを全て伝えれば、何らかの動きがあるかもしれない。

 下町の上空には、再開発の工事現場から立ち上る、巨大なクレーンが伸びていた。それは、この街に迫る変化の波を象徴しているかのようだった。


【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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