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街ねこ司法書士、消えた土地の夢  作者: W732
第1章:消えゆく下町の影
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1-3. 胡散臭い訪問者たち

 鈴木正義との面談を終え、事務所には重い沈黙が落ちていた。こはるは、健太の膝の上で眠りこけてしまったミケを抱きかかえ、健太の横で心配そうに正義を見上げていた。正義は、どこか遠くを見つめるように、ぼんやりと窓の外の景色を眺めている。彼の背中からは、老舗を背負う当主としての重圧と、突然の危機に直面した戸惑いがひしひしと伝わってきた。

 健太は、正義が残していった書類の写しを改めて広げた。偽造されたと思われる委任状。公証役場の認証印まで完璧に再現されている。そして、その核心にある、完璧な実印の印影。健太が嗅ぎ取った、微かな甘い匂いが、その偽造の秘密を隠しているように思えた。

「これは…本当に巧妙だな」健太は呟いた。

 健太は、司法書士としての知識を総動員して、この事態をどう切り抜けるべきか考えた。真っ先に思いつくのは、公証役場への問い合わせだ。本当にこの委任状が認証されたものなのか。もし認証されていれば、その際にどんな本人確認が行われたのか。そして、もしそれが偽造であれば、どのようにして公証役場の認証印が使われたのか。

 だが、公証役場に問い合わせたところで、彼らが「本人確認は厳重に行った」と主張すれば、それ以上の深入りは難しいだろう。何しろ、印鑑証明書まで偽造されている可能性が高いのだから。

 次に頭に浮かんだのは、警察への相談だ。これは明らかな詐欺事件である。しかし、警察は、事件として立件するには明確な被害や証拠が必要となる。今回のケースでは、まだ「実際に土地が奪われた」わけではなく、「売買契約が進められようとしている」段階だ。正義に損害が発生する前では、なかなか本格的に動いてもらえない可能性もある。

 健太の頭の中で、司法書士試験のテキストや研修で学んだ知識が、バラバラのパズルのピースのように飛び交っていた。

「地面師詐欺の対応…」健太は、司法書士会の研修資料を引っ張り出した。そこには、地面師詐欺の手口や、過去の判例、そして司法書士ができる対応策などが記されている。

 資料を読み進めるうちに、健太は改めて事態の深刻さを痛感した。地面師詐欺は、近年、その手口が巧妙化・組織化されており、弁護士や司法書士、果ては銀行や公証役場までもが騙されるケースが後を絶たないという。一度、売買契約が締結され、登記が移転されてしまえば、取り戻すのは至難の業だ。

 健太は、目の前の書類の写しに再び目を落とした。印影の微かな甘い匂いと、赤いボールペン。ミケがそれらを示したことに、何か意味があるはずだ。

 ミケは、健太の膝の上で身じろぎ、大きく伸びをした。そして、静かに健太の顔を見上げると、再び委任状の写しに視線を落とし、鼻先で印影をちょん、とつついた。

「ミケ…この匂い、何かの手がかりなんだな?」健太はミケに問いかけた。

 ミケは、「ニャア」と短く鳴くと、今度は委任状の日付が書かれた部分に、前足で軽く触れた。

「日付…?つい二週間前の日付、か」健太は呟いた。正義は、その日、蔵で作業をしていたと言っていた。誰とも会っていない。

 健太は、その日の正義の行動について、さらに詳しく聞いてみることにした。

「正義さん、その委任状に書かれている日付の日、何か変わったことはありませんでしたか?例えば、誰かが訪ねてきたとか、不審な電話があったとか…」

 正義は、うつむいたまま、しばらく考えていた。

「そういえば…その日、午後三時頃だったか…珍しい訪問者がいましたな」

 健太は、身を乗り出した。「どんな方でしたか?」

「それが…若い、どこかの宗教団体の勧誘員だという男が二人、訪ねてきました。私は忙しかったので、玄関先で丁重にお断りしたのですが…彼らは、鈴木醸造の歴史や、私の健康について、やけに詳しい様子でした。まるで、以前からこの家を観察していたかのように…」

 正義は、顔をしかめて言った。宗教団体の勧誘。それは、地面師が本人に接触するための、一般的なカムフラージュの一つとして使われることがあると、健太は研修で学んでいた。まさか、そんな偶然が…?

「その男たちは、何か書類のようなものを持っていましたか?」健太は尋ねた。

「いいえ、特に。ただ、手土産に、小さな和菓子を持ってきていましたな。私が断っても、『せっかくですから』と強引に置いていかれたので、困ったものだと思いました」

 健太は、ピクッと反応した。「和菓子…ですか?」

「ええ。小さな饅頭がいくつか入った箱でした。私は甘いものが苦手なので、結局食べませんでしたが…」

 健太の頭の中で、バラバラのピースが繋がり始めた。

 赤いボールペン。甘い匂いのする印影。宗教の勧誘。そして、和菓子。

 和菓子に使われる餡や砂糖は、甘い匂いがする。もし、その和菓子に何か仕掛けがしてあったとしたら…?いや、まさか。

 健太は、冷静に可能性を一つずつ潰していく。

「その和菓子は、まだ残っていますか?」

 正義は首を振った。「申し訳ない。数日前に、賞味期限が切れるからと、近所の子供たちにあげてしまいました」

 健太はがっくりと肩を落とした。もし和菓子に何か特殊な液体が塗られていて、それが印鑑に触れることで、独特の匂いと印影の変化をもたらす、などというSFじみた仕掛けがあれば…いや、そんな馬鹿な。

 しかし、ミケが赤いボールペンと印影の匂いを嗅ぎ分けたのは、偶然ではないはずだ。

 健太は、再び委任状の写しを拡大鏡で確認した。印影のわずかな滲み。それは、インクを吸い込みやすい紙に押した時のような滲み方にも見える。しかし、一般的な委任状用紙は、そこまでインクを吸い込むような素材ではない。

「もし…印鑑ではなく、紙の方に仕掛けがあったとしたら?」健太は、ふと閃いた。

 例えば、委任状用紙に、あらかじめ透明な特殊な薬品が塗られていたとしたら?そこに実印を押すと、薬品とインクが化学反応を起こし、印影がわずかに変質する、あるいは、特定の匂いを発する、というような。

 そして、その薬品の成分が、和菓子の匂いと似ていたり、あるいは、和菓子にその薬品が塗られていて、それを正義が触れた際に委任状に付着した、というような可能性はないか?

「その男たちは、何か書類を持っていましたか?」健太は再び尋ねた。

「いいえ。ただ、私に、『鈴木醸造の歴史についてお伺いしたい』と、インタビューのようなことを申し込んできました。私は忙しいと断ったのですが…」

 健太は、頭の中でパズルを組み立てていく。

 宗教の勧誘を装って接近し、鈴木醸造の情報を集める。

 おそらく、その際に、偽造した委任状と印鑑証明書を準備していたのだろう。

 そして、委任状に認証を受けるために、公証役場で本人になりすます。

 しかし、なぜ、偽造印鑑をわざわざ手書きで描くような手間をかけるのか?そして、なぜ赤いボールペンと甘い匂い…?

 健太は、赤いボールペンをもう一度手に取り、ペン先をじっと見つめた。一般的な赤いボールペンだ。

 その時、健太の膝の上にいたミケが、ゆっくりと立ち上がり、机の上を歩き出した。そして、健太が先ほど取り出した司法書士会の研修資料の上に乗り、前足でパラパラとページをめくり始めた。ミケが止めたのは、「印鑑偽造の手口」という見出しのページだった。

 そのページには、様々な印鑑偽造の手口が写真付きで解説されていた。レーザー彫刻、3Dプリンター、写真からの転写、そして、「特殊インクによる手書き再現」という項目もあった。

『近年、非常に精巧な偽造技術として、特殊な揮発性インクを用いて、印影を紙上に直接「描く」手法が確認されています。このインクは、乾燥すると見た目には本物の印影と区別がつきませんが、特定の条件下で微細な匂いを発したり、時間が経つとわずかに滲みが生じる場合があります。この手法は、本物の印鑑登録カードを不正に入手し、公証役場での本人確認を欺く際などに用いられることがあります。特に、本人確認の際に、提示された書類(印鑑証明書など)に意識を向けさせ、別の手で偽造委任状の作成を進めるなどの複合的な手口と組み合わせられることが多く…』

 健太は、その文章を食い入るように読んだ。

「これだ…!」健太は叫んだ。

 まさに、ミケが示したヒントと、印影から嗅ぎ取った甘い匂い、そして印影の滲み。全てがこの「特殊インクによる手書き再現」という手法に合致する。

 そして、赤いボールペン。

 もしかして、あの男たちは、正義の目の前で、この赤いインクのペンで印影を「描いた」のではないだろうか?いや、それはいくらなんでも大胆すぎる。

 健太は、さらに深く考えた。

 もし、彼らが事前に偽造した印鑑登録カードを使って、公証役場で本人になりすまし、公証人の目の前で、偽造した委任状に、特殊な赤いインクのペンで印影を「描き込み」、認証を受けたのだとしたら?

 公証人は、印鑑証明書と印鑑登録原票の照合はするが、実際の押印の瞬間を厳密に確認しないケースもゼロではない。特に、相手が巧妙な手口を使えば、一瞬の隙を突いて「描く」ことも不可能ではない。そして、その際に、印鑑登録原票の印影と全く同じ印影を、特殊なインクで「描いた」のだとすれば、その場では見破られにくい。

 そして、その特殊インクの匂いが、微かに残っていたのだ。和菓子の匂いと混じって、健太は当初、違和感を覚えたのだろう。

「ミケ…お前、これを教えてくれたのか!」健太は、ミケを抱き上げた。ミケは満足そうに「ニャア」と鳴き、健太の頬に頭を擦り付けた。

 健太の頭の中で、パズルのピースが完璧に嵌まっていった。

 宗教の勧誘を装って鈴木醸造に接近し、正義の普段の行動パターンや、家族構成、財産状況などの情報を集める。

 おそらく、その際に、正義の身分証明書や印鑑登録カードの情報を盗み見たか、あるいは、巧妙な詐欺で引き出したのだろう。

 そして、その情報を使って、本物そっくりの偽造印鑑登録カードを作成。

 その偽造カードを使って、区役所で正義名義の印鑑証明書を不正に取得。

 その後、公証役場で、偽造印鑑登録カードと不正取得した印鑑証明書を提示し、正義になりすまし。

 公証人の目の前で、特殊な赤いインクのペンで、委任状に印影を「描いて」、認証を受けたのだ。

 これで、あの完璧な印影と、微かな甘い匂い、そして赤いボールペンの謎が全て解けた。

「正義さん…お話しします」健太は、正義に事の次第を説明した。正義は、健太の話を聞いて、顔色を変えた。

「まさか…そんな恐ろしい手口が…」

「はい。これは非常に悪質な地面師の手口です。彼らは、あなたの情報を事前に調べ上げ、周到に計画を進めていたと考えられます。おそらく、あなたを安心させるために、一度は宗教勧誘を装って接触し、その際に何か情報を盗んだか、あるいは、あなたの実印の印影を何らかの形で取得したのでしょう」

 正義は、顔を覆った。「そんな…私の無防備さが、この事態を招いてしまったのか…」

「いいえ、正義さん。彼らの手口があまりにも巧妙だったのです。あなたを責める必要はありません」健太は、正義の肩に手を置いた。

 しかし、この事実が分かったところで、どうすればいいのか。既に公証役場の認証まで受けている委任状がある。これを覆すのは、並大抵のことではない。

「まずは、公証役場に改めて事実確認を求める必要があります。そして、警察にも相談するべきです」健太は言った。「しかし、これは組織的な犯行の可能性が高い。一筋縄ではいかないでしょう」

 ミケは、健太の言葉を聞いているかのように、静かに健太の膝の上に座っていた。その瞳は、窓の外の変わりゆく下町の景色に向けられている。再開発の波が、この街に、そして人々に、大きな変化をもたらそうとしている。その変化の裏には、こうした闇が潜んでいることを、ミケは知っていたのかもしれない。

 健太は、正義の土地を守るという、重い使命を改めて自覚した。この戦いは、始まったばかりだ。


【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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