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街ねこ司法書士、消えた土地の夢  作者: W732
第1章:消えゆく下町の影
2/16

1-2. 老舗醤油醸造所の危機

 鈴木正義から渡された書類の写しを前に、健太の頭の中は真っ白になっていた。偽造されたと思しき委任状に、本物そっくりの実印。そして、公証役場の認証まで付いているという。これは、単なる詐欺事件ではない。司法書士として、これまで扱ってきた名義変更や会社設立の手続きとは、全く次元の異なる、深い闇を感じさせる事件だ。

「正義さん…」健太は、震える声で呼びかけた。正義は、疲れた顔でうなだれている。横に座ったこはるは、ミケを抱きしめたまま、不安そうに二人を見つめていた。ミケは、その小さな体で健太の膝の上に乗ると、書類の写しをじっと見つめ、小さく「フニャア」と鳴いた。その声は、健太の耳には「早く何とかしろ」とでも言っているように聞こえた。

「これは…いわゆる地面師詐欺の可能性が高いです」健太は、なんとか冷静を保ち、言葉を絞り出した。

 正義はハッとして顔を上げた。「じめんし…?」

「はい。他人の土地を、本人になりすまして勝手に売却したり、担保に入れたりする詐欺の手口です。特に、古くからある広大な土地や、所有者が高齢の方、あるいは海外に住んでいらっしゃる方などが狙われることが多いです」

 健太は、司法書士試験の勉強や、司法書士会の研修で地面師詐欺の手口について学んだことはあった。しかし、まさか自分の事務所に、そのような事件の相談が舞い込んでくるとは夢にも思っていなかった。教科書や事例集で読むのと、実際に目の前で被害者が苦しんでいるのを見るのとでは、全く重みが違う。

「ですが、なぜ…なぜ私の土地が…」正義は、納得がいかない様子で呟いた。鈴木醸造の土地は、先祖代々受け継がれてきたものであり、公に売却の話が出たこともなければ、実印などもきちんと管理してきたつもりだった。

 健太は、正義が持参した委任状の写しと、印鑑証明書の写しを改めて詳しく調べた。

「この委任状に記載されている日付は、いつ頃のものでしょうか?」

「それが…つい二週間前の日付になっていました」正義は絶句した。「その日、私は確かにこの下町の蔵にいました。誰にも会っていませんし、身に覚えがないのです」

 健太は頷いた。公証役場で認証された委任状は、通常、本人確認が厳重に行われるため、偽造は極めて困難とされている。しかし、今回のケースではそれが突破されている。これは、単なる素人の犯行ではない。よほど巧妙な手口を使う、プロの仕業だと考えられる。

「この公証役場の認証印も、見た目は本物そっくりです。もし本当に公証役場で偽装されたとなると…」健太はそこまで言って言葉を詰まらせた。それほどのことができれば、組織的な犯行である可能性が高い。

「その男たちは、鈴木醸造をどこで知ったのでしょうか?土地が売りに出されているというような情報が、外部に漏れた心当たりは?」健太は尋ねた。

 正義は首を横に振った。「いいえ、全くありません。鈴木醸造は、代々この土地で醤油を造り続けてきました。土地を売るなど、考えたこともありませんし、そんな話は外部にも一切していません。再開発の話が出てから、不動産屋の問い合わせが増えはしましたが、具体的な話はすべて断ってきましたから…」

 やはり、再開発がきっかけなのか。健太は、数日前に届いた区画整理の説明会のお知らせのチラシを思い出した。この下町全体の再開発計画が動き始めたことで、地上げや詐欺の動きも活発化しているのかもしれない。

「その男たちは、他にどんなことを言っていましたか?」健太は続けた。

「私が契約を履行しない場合、『多額の違約金』を請求すると。そして、もし支払えない場合は、裁判を起こして、強制的に土地を明け渡させると…」正義の声は、絶望に震えていた。

 違約金は、売買代金の1割から2割、あるいはそれ以上になることも珍しくない。もし鈴木醸造が狙われている土地が高額であれば、数千万円から億単位の請求になりかねない。そんな金額を、老舗の醤油醸造所がポンと出せるわけがない。もし払えなければ、本当に土地を奪われてしまうかもしれないのだ。

 健太は、正義から預かった書類の写しを改めて見つめた。印鑑証明書は、発行日が新しいものになっている。これは、地面師が偽造した印鑑登録カードを使って、役所で不正に取得した可能性が高い。そして、その印鑑証明書と偽造した実印を使い、公証役場で本人確認を欺き、委任状に認証を受けているのかもしれない。

「これは…かなり周到に準備されていますね」健太は呟いた。

「先生、私たちには、何が起こっているのか、全く理解ができません。ただ…このままでは、先祖代々守ってきた鈴木醸造が、なくなってしまう…」正義の目に涙が浮かんだ。こはるは、その涙を見て、ミケをぎゅっと抱きしめた。ミケは、正義の顔を心配そうに見上げている。

 健太は、正義の言葉に胸が締め付けられる思いだった。この老舗の醤油醸造所は、この下町の人々にとって、単なる醤油を造る場所ではない。それは、この街の歴史そのものであり、人々の暮らしに深く根付いた文化なのだ。健太自身も、鈴木醸造の醤油の風味に、この街の温かさを感じてきた。

「正義さん…あの、印鑑証明書は、どこで発行されたものか覚えていますか?」健太は尋ねた。

「はい、区役所と書いてありました。その男たちが、わざわざ見せてきたので…」

 健太はメモを取った。区役所で偽造された印鑑登録カードを使われたとなると、役所のシステムに詳しい人間が関わっている可能性も出てくる。

「その、男たちの顔は覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、はっきりと。二人組でした。一人は背が高く、もう一人は小柄で、どちらもスーツを着ていました。態度は丁寧でしたが、どこか目が笑っていない、冷たい印象を受けました」正義は、震える声で答えた。

 健太は、正義の証言を細かくメモした。しかし、具体的な情報が少ない。相手はプロの詐欺師だ。おそらく、足取りを残さないように細心の注意を払っているだろう。

 健太は、改めてミケに目をやった。ミケは、健太のデスクの上にあった、古くなった筆記用具入れを、前足でチョン、と突いた。その中には、健太が学生時代から使っている、安物のシャープペンやボールペンが雑多に入っている。

「ミケ、どうしたんだ?」

 ミケは、健太の問いには答えず、筆記用具入れの中から、一本の赤いインクのボールペンを、器用に前足で弾き出した。そのボールペンは、健太が普段あまり使わないものだ。

「これ?」健太が赤いボールペンを手に取ると、ミケは満足そうに「ニャア」と鳴いた。そして、改めて偽造された委任状の写しをじっと見つめた。その視線は、委任状の署名欄にある、正義の「実印」の印影に向けられている。

 健太は首を傾げた。赤いボールペンと、偽造された実印に何の関係があるというのだろうか?

「先生…何かの手がかりですか?」正義は、健太とミケのやり取りを見て、かすかな希望を抱いたように尋ねた。

「いえ、まだ…」健太は曖昧に答えた。ミケが示すヒントは、いつも突拍子もない。しかし、これまで、そのヒントが事件解決の鍵になってきたことも事実だ。健太は赤いボールペンを握りしめ、印影を改めて凝視した。印影は鮮明で、かすれ一つない。完璧に見える。

 その時、ミケが再び、書類の写しに鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。そして、印影の真上あたりで、わずかに鼻をひくつかせた。

 健太は、ミケの行動を真似るように、書類の写しに鼻を近づけてみた。すると、微かに、そして奇妙な「甘い匂い」がすることに気づいた。それは、醤油の匂いとも、インクの匂いとも違う、どこか人工的な、不自然な甘さだ。

「これ…匂いがする…」健太は驚いて呟いた。

 正義も顔を近づけた。「確かに…これは、何でしょう?紙の匂いではないような…」

 健太は、赤いボールペンと印影の匂いを嗅ぎ比べた。赤いボールペンからは、特に変わった匂いはしない。しかし、印影から漂う微かな甘い匂いは、確かに違和感がある。

「もしかして…これは、印鑑の偽造方法に関係があるのかもしれません」健太は仮説を立てた。最新の偽造技術では、レーザーや3Dプリンターを使って、本物と寸分違わない印鑑を作成できると聞く。しかし、その過程で、特殊な樹脂やインクを使うことがあると、研修で読んだ記憶があった。その材料から、わずかに匂いが残っているのだろうか?

 しかし、赤いボールペンとの関連がまだ見えない。ミケは、赤いボールペンと印影を交互に見て、健太の顔をじっと見つめている。その瞳は、「まだ気づかないのか」とでも言いたげだった。

 健太は、再び赤いボールペンを手に取った。そして、そのペン先をじっと見つめた。ボールペンのインクの色は、まさしく印影の色と同じ「朱色」だ。

「朱色…?」

 健太は、脳裏に一つの可能性が閃いた。もし、この印鑑が、単なる「押されたもの」ではなく、何か別の方法で作られたものだとしたら?例えば、特殊なインクで「描かれた」ものだとしたら?

「正義さん、この印影…よく見てください。かすれが一切ない。まるで、絵の具で描いたみたいに鮮明です」健太は指で印影をなぞった。

 正義も目を凝らした。「言われてみれば…確かに、あまりに完璧すぎるというか…通常の実印は、もう少しインクの濃淡があるものですからな」

 健太は、事務所に置いてあった拡大鏡を取り出した。印影を拡大して見ると、さらに驚くべき事実が明らかになった。印影の縁が、わずかに滲んでいるのだ。まるで、墨ではなく、インクを紙に吸わせたような滲み方だ。そして、よく見ると、微細な筆跡のような痕跡も見て取れる。

「これは…手書きで描かれたものかもしれません…!」健太は息を飲んだ。

 しかし、なぜ手書きで実印を偽造するのか?そんなことをすれば、すぐにばれるのではないか?そして、公証役場の認証はどうやって突破したのか?

 赤いボールペン。そして、甘い匂い。

 健太は、頭の中でバラバラのピースを繋ぎ合わせようとした。

 赤いインクで描かれた印影…甘い匂いのする特殊なインク…

 ミケは、健太の思考を読み取ったかのように、大きく伸びをした。そして、再び「ニャア」と一声鳴き、窓の外に目を向けた。その視線の先には、再開発の工事現場が見える。重機が土を掘り返し、大きなクレーンが空に向かって伸びていた。

 健太は、この事件が、単なる一過性の詐欺ではなく、この下町全体の未来に関わる、もっと大きな闇の一部である可能性を感じ始めていた。

「正義さん、この件、必ず解決します。この完璧に見える偽造の中に、必ず突破口があります」健太は、正義の目を見て、力強く言った。

 正義は、健太の言葉に、わずかな希望を見出したかのように、ゆっくりと頷いた。こはるは、ミケをぎゅっと抱きしめたまま、健太を見つめていた。その瞳には、健太への信頼が宿っているかのようだった。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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