2-7. 静かなる新たな予兆
NPO法人「ふるさと再生プロジェクト」の逮捕劇は、下町に大きな衝撃を与えた。しかし、健太の事務所には、再び静かな日常が戻りつつあった。鈴木正義の土地は無事に守られ、花田キヨさんをはじめとする住民たちも安堵の息をついていた。健太は、この街の平和を守れたことに、確かな達成感を感じていた。
しかし、健太の心の中には、まだ小さな引っかかりがあった。警察が発表した情報には、地下の弾薬庫から発見された盗品の詳細は伏せられたままだ。そして、この再開発計画そのものが、本当に不正な意図から始まったものだったのか、それとも単なる偶然の産物だったのか、その全貌はまだ明らかになっていない。
健太の足元では、ミケが静かに眠っている。事件解決の立役者であるミケは、最近、どこか物思いにふけっているような、不思議な表情を見せることがあった。健太は、ミケの行動が、常に何らかのメッセージを伝えていることを知っている。
「ミケ、どうしたんだ?まだ何か、気になることでもあるのか?」健太は、ミケの頭を優しく撫でた。
ミケは、「ニャア」と一声鳴くと、ゆっくりと体を起こし、健太のデスクの隅に置かれた、鈴木醸造の蔵の絵が描かれたポストカードに前足を伸ばした。それは、健太が正義から土産にもらったものだ。
ミケは、ポストカードの蔵の絵と、健太の顔を交互に見て、何かを伝えようとしている。その視線は、蔵の絵の、特に壁の一部に集中していた。
「蔵の壁……?」健太は首を傾げた。
ミケは、ポストカードの蔵の絵を指し示すかのように、健太の指先をチョン、と触った。そして、その視線は、蔵の絵の壁の、ごくわずかな「ひび割れ」のような線に固定されていた。
健太は、ポストカードを手に取り、そのひび割れのような線に目を凝らした。それは、肉眼ではほとんど見えないほどの、非常に細い線だ。まるで、蔵の壁に、何か隠された扉があるかのように見える。
「まさか……この蔵の壁にも、秘密が?」健太は、思わず息を飲んだ。
ミケは、健太の顔をじっと見つめている。その瞳は、健太の推測が正しいことを告げているかのようだ。
健太は、すぐに鈴木正義に電話をかけた。
「正義さん、実は、蔵の壁について、少しお伺いしたいのですが……」
正義は、健太の問いに少し驚いた様子だったが、丁寧に答えてくれた。
「蔵の壁ですか?特に変わったことはありませんが……。ただ、昔から、祖父が『蔵の壁には、決して触れるな』と、よく言っていたことは覚えています」
「触れるな、ですか?何か言い伝えでも?」
「ええ。何でも、昔、蔵の壁から不思議な声が聞こえてきたとか、壁の中から光が漏れているのを見た者がいたとか……。そんな言い伝えが、昔からこの地域にはあったようです。だから、祖父も怖がって、誰も壁に触らせなかったんです」
健太は、正義の言葉に、全身に鳥肌が立った。不思議な声。光。そして、ミケが示した、ひび割れのような線。
もし、そのひび割れが、隠された通路の入り口だとしたら?そして、その奥から、何か秘密が漏れ出していたとしたら?
健太は、ミケに目をやった。ミケは、健太の推理が当たっていることを告げるかのように、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。
健太は、すぐに山下工務店に連絡を取り、鈴木醸造の蔵の壁を、改めて調査してもらうことを依頼した。山下氏も、この奇妙な言い伝えに興味を抱き、快く協力してくれることになった。
その日の午後、健太は山下氏とともに、鈴木醸造の蔵を訪れた。正義も立ち会い、蔵の壁を詳しく調査することになった。
蔵の壁は、歴史を感じさせる土壁で、ところどころに年季が入っている。健太は、ミケが示したポストカードのひび割れのような線に目を凝らし、その場所を注意深く確認していった。
すると、肉眼ではほとんど見えないほどの、本当にわずかな「継ぎ目」のような線が、壁に存在することに気づいた。それは、まるで、壁の一部が、後から埋められたかのように見えた。
山下氏は、その継ぎ目を見て、腕を組んだ。
「なるほど……これは、かなり巧妙に隠されているな。素人目には、ただのひび割れにしか見えないだろう。だが、確かに、ここだけ壁の構造が違う」
山下氏は、小さなハンマーで、その継ぎ目付近の壁を軽く叩いてみた。すると、周囲の壁とは明らかに異なる、鈍い音が響いた。
「これは……!この奥は空洞になっているぞ!」山下氏は、興奮した声で言った。
健太と正義は、思わず息を飲んだ。やはり、この壁の奥には、何か隠されている。
山下氏は、慎重に工具を使い、その継ぎ目の部分を少しずつ剥がしていった。そして、やがて、壁の中から、小さな木製の扉が姿を現した。
その扉は、古びてはいるものの、しっかりと作られており、表面には、埃が積もっている。扉には、鍵穴のようなものは見当たらない。
「これは……どうやって開けるんだ?」健太は首を傾げた。
その時、ミケが、健太の足元から、扉に飛び乗った。そして、扉の真ん中にある、小さな木の彫刻に前足で触れた。それは、蔵の歴史にちなんだ、醤油樽の形をした飾りだった。
ミケは、その醤油樽の形をした彫刻を、指し示すかのように、健太の顔を見上げている。
健太は、ミケの意図を察した。もしかして、この彫刻が、扉を開けるための仕掛けなのか?
健太は、ミケに促されるままに、醤油樽の形をした彫刻を、軽く押してみた。すると、カチッ、という小さな音がして、扉がゆっくりと内側へと開き始めた。
扉の奥からは、ひんやりとした空気が流れ出し、湿った土と、どこか懐かしいような、古い文献の匂いが漂ってきた。
扉の奥は、狭い通路になっていた。その通路の壁には、びっしりと木製の棚が設置されており、そこには、古びた巻物や、木箱などがびっしりと並べられている。
「これは……一体……」健太は、言葉を失った。
正義もまた、驚きで目を見開いている。
「こんなものが、蔵の壁の中に……。祖父は、これを知っていたのでしょうか……」
山下氏は、通路の奥を覗き込み、唸った。「これは、ただの地下室じゃない。まるで、秘密の書庫だ」
健太は、通路に入り、棚に並べられた巻物や木箱の一つ一つを、慎重に確認していった。どれもが埃をかぶっており、長い間、誰も触れていないことがわかる。
その中には、鈴木醸造の歴史に関する古文書や、昔の帳簿のようなものもあった。しかし、健太の目を引いたのは、その奥に隠されていた、いくつかの地図のような巻物だった。
健太が巻物の一つを手に取ると、ミケが健太の肩に飛び乗り、その巻物を指し示すかのように、小さな鼻をひくつかせた。
健太は、巻物を広げてみた。それは、古い下町の地図のようだった。しかし、そこに描かれているのは、現在の地図とは異なり、ところどころに奇妙な記号や、謎の文字が書き込まれている。
そして、その地図の中央付近には、鈴木醸造の蔵の場所が示されており、そこから、複数の点線が地下へと伸びているように描かれている。さらに、その点線は、いくつかの地下の施設へと繋がっているように見える。
「これは……地下の地図だ!」健太は、興奮して叫んだ。
ミケは、健太の言葉に答えるかのように、「ニャア」と一声鳴くと、地図の中の、ある場所を、前足でそっと触った。それは、健太が最初に発見した、旧日本軍の弾薬庫の場所と一致していた。
「やはり、弾薬庫は、この地下通路の一部だったのか……!」健太は、確信した。
そして、その地図には、弾薬庫以外にも、複数の地下施設が描かれている。中には、現在では跡形もないような場所も含まれている。
「この地下には、一体どれほどの秘密が隠されているんだ……」健太は呟いた。
山下氏は、地図を見て、息を飲んだ。「これは……すごいものを見つけたな、佐々木先生。この地図があれば、この下町の地下に、一体何が隠されているのか、全てが明らかになるかもしれない」
正義は、驚きと戸惑いの表情を浮かべていた。
「まさか、祖父が、こんな秘密を隠していたとは……。一体、何を意味しているのでしょうか……」
健太は、地図をじっと見つめた。この地図は、NPO法人「ふるさと再生プロジェクト」が知らなかった、あるいは、知っていても到達できなかった、この下町の地下に隠された「真の秘密」を示している。
すでに代表理事たちは逮捕されているため、彼らがこの「地下の秘密」にアクセスしようとしていた可能性は排除される。しかし、彼らがこの土地を狙っていたことと、地下の施設に何らかの関連があった可能性は残る。
健太は、この地図が、今回の事件の全貌を解明する、そして、この下町の未来を左右する、決定的な手がかりになることを確信した。
健太は、ミケに目をやった。ミケは、満足そうに健太の肩の上で丸くなっている。その瞳は、まるで「これで全部だ」とでも言っているかのようだ。
健太は、地図と、蔵の中から見つかったいくつかの古文書を慎重に持ち帰ることにした。これらの資料を詳しく分析すれば、この下町の地下に隠された、知られざる歴史と、NPO法人との関連性が明らかになるはずだ。
事務所に戻った健太は、すぐに橘弁護士に連絡を取り、蔵の壁から秘密の通路と地下の地図が発見されたことを報告した。橘弁護士も、その情報に驚きを隠せない様子だった。
「それは、とんでもない発見ですね、佐々木先生!すぐにその地図と資料を持ってきてください。この下町の地下に、そんな秘密が隠されていたとは……。警察にも、この情報を伝えなければならないでしょう」
橘弁護士の興奮した声が、電話口から聞こえてくる。
この事件は、単なる地面師詐欺では終わらない。この下町の歴史、そして未来を巻き込んだ、より大きな物語の序章に過ぎないのかもしれない。
健太は、ミケを抱き上げた。ミケは、健太の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らした。その温かい感触が、健太の心に、静かな決意と、新たな冒険への期待を灯してくれた。
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