1-1. 再開発の足音
下町の午前十時。佐々木司法書士事務所は、いつもと変わらぬ穏やかな朝を迎えていた。窓から差し込む柔らかな春の陽光が、年季の入った木製のデスクを優しく照らす。デスクの上には、今日もまた、登記申請書や契約書のひな形が小山のように積まれている。佐々木健太は、その山を前にして、深く、重いため息をついた。
「はぁ……」
健太は、司法書士として開業して三年になる。世間からは「先生」と呼ばれる立場だが、本人は一向にその自覚がなかった。依頼人と顔を合わせれば、緊張でろれつが回らなくなる。説明はたいてい要領を得ず、しまいにゃ相手の質問の意図を取り違えて的外れな回答をする。司法書士試験をどうやって突破したのか、自分でも不思議に思うほどだ。
そんな健太の隣には、いつも事務所の番人、いや、真の所長ともいうべき存在がいた。推定五歳になる三毛猫のミケである。ミケは健太の隣の椅子に陣取り、丸々と太った腹を上に向けて寝転がり、時折尻尾をぴくぴくと動かしている。その姿は、まるでこの世の全てを知り尽くした賢者のようでもあり、ただの怠け者のようでもあった。
今日のミケは、特にご機嫌ななめだ。朝一番で届いた、やけに分厚い郵便物の山が気に食わないらしい。その中には、健太が今、まさに頭を悩ませている書類も含まれている。区画整理事業に関する説明会のお知らせ、という件名のそれは、やけに仰々しい活字で、この下町に押し寄せる変化の波を告げていた。
「ミケ、またこういうのが来たよ」健太は郵便物の一つを指差した。「再開発、か……」
ミケは返事の代わりに、尻尾で健太の足を軽く叩いた。まるで「またいつもの弱音か」とでも言いたげに。しかし、その耳はぴくりと動き、健太の言葉に聞き入っているようにも見えた。
健太がこの下町に事務所を構えてから三年。この街は、彼の第二の故郷となっていた。古くからの商店が軒を連ね、路地裏には猫たちがのんびりと昼寝をする。朝は豆腐屋のラッパが響き、夕方には駄菓子屋から子供たちの笑い声が漏れてくる。東京の片隅に残された、昔ながらの人情が息づく場所だ。
しかし、近年、この下町にも再開発の波が押し寄せていた。少し離れた場所には高層マンションが建ち並び、大型商業施設が誘致され、人の流れは少しずつ変わりつつある。この下町にも、ついにその魔の手が伸びてきたのだ。区画整理の説明会、立ち退き、高層化……。そんな言葉がチラつく書類に、健太は漠然とした不安を覚えていた。
「この街も、変わっちゃうのかな……」健太は呟いた。
ミケは、ゆっくりと体を起こし、窓の外に目を向けた。その視線の先には、古びた木造の家屋や、瓦屋根の長屋が連なっている。そこには、健太がこの街で出会った、温かい人々が暮らしているのだ。ミケは一瞬、眉をひそめるような表情を見せたが、すぐにいつもの涼しい顔に戻った。
その時、事務所のドアのベルが、チリン、と鳴った。
「こんにちはー!健太せんせー!」
健太はハッとして顔を上げた。ドアを開けて入ってきたのは、小学三年生の鈴木こはるだった。学校が終わると、毎日律儀にミケの様子を見にやってくるのが日課だ。こはるは健太を見るなり、いつものように満面の笑みを浮かべた。
「今日のミケ様、すごく偉いんです!ちゃんと郵便物の番をしてる!」
こはるは健太のデスクの郵便物の山を指差して言った。ミケは、得意げに「ニャア」と一声鳴き、こはるの足元にすり寄っていく。こはるはミケを抱き上げ、頬ずりをした。
「こはるちゃん、今日も元気だね」健太は苦笑した。
こはるがミケを抱きしめていると、その背後から、もう一人、事務所に入ってくる人影があった。五十代半ばの男性で、清潔だが使い込まれた藍色の作務衣を着ていた。背筋は真っ直ぐに伸び、顔には深く刻まれた皺があるものの、その眼光は鋭く、知性を感じさせる。それが、こはるの祖父であり、この下町で百三十年続く老舗の醤油醸造所「鈴木醸造」の当主、鈴木正義だった。
「おや、正義さん。どうされたんですか?こはるちゃんは学校帰りですよ」健太は少し驚いたように言った。正義は普段、この時間には蔵で醤油造りに勤しんでいるはずだからだ。
正義は、健太に軽く頭を下げると、どこか落ち着かない様子で、ゆっくりと事務所の中を見回した。その視線は、ミケに一瞬止まったが、すぐに健太に向けられた。彼の表情には、普段の穏やかさがなく、深い疲労と、何かを堪えているような痛みが滲んでいた。
「佐々木先生、実は、先生にお話ししたいことがありましてな…」正義の声は、いつもの張りがなく、ひどく掠れていた。
健太は、正義の異変に気づいた。彼がこれほどまでに深刻な顔をしているのは、見たことがない。健太は急いで応接スペースに正義を案内し、お茶を淹れた。こはるは、健太の様子を見て、心配そうにミケを抱きしめたまま、その隣に座った。ミケは、正義の様子をじっと観察している。
正義は、震える手で湯呑みを持ち上げると、一口、ゆっくりと口に含んだ。そして、意を決したように話し始めた。
「先生、実は、大変なことになってしまいまして…」
正義の話は、健太の想像をはるかに超えるものだった。
数日前、鈴木醸造に、見たこともない男たちが現れたという。彼らは、一流企業の社員を名乗り、鈴木正義が所有する土地の「売買契約」を巡って話がある、と言い出したそうだ。
「私は、土地を売るなど、一度も考えたこともありません。ましてや、あの者たちと会ったことすらないはずなのですが…」正義の声は震えていた。
男たちが差し出した書類を見て、正義はさらに困惑したという。そこには、正義自身の名前と住所が記され、確かに正義の実印が押されていたのだ。さらに、その印鑑証明書や、土地の売買を代理人に委任する旨の「委任状」までが添付されていた。しかも、委任状には、公証役場で認証を受けたことを示す印まで押されている。
「その委任状には、私が土地の売却を、彼らに全権委任すると書かれていました。しかも、その書類には、私の署名と、本物としか思えない印鑑が押されているのです」
健太は息を飲んだ。正義が言う通りなら、これは尋常ではない。他人の印鑑を勝手に使う、あるいは偽造する行為は、有印私文書偽造罪に当たる。しかし、公証役場の認証まで受けているとなると、話はさらに複雑だ。
「まさか、私が認知症にでもなったのかと、正直、一瞬思いました…」正義は顔を覆った。「しかし、私はこの通り、頭ははっきりしております。それに、あの書類に書かれた日付、その日は、私は確かに蔵で醤油造りをしており、誰とも会っていません」
健太は、提示された書類の写しを食い入るように見た。そこには、確かに「鈴木正義」の実印が鮮明に押されている。印影は、正義から預かっている本物の実印と寸分違わないように見える。委任状の書式も完璧で、素人が見ても、それが偽造であるとは到底思えない出来栄えだ。
「しかし、正義さん、もしこの書類が本物だとすると、正義さんご自身が、この土地を売る意思があり、それを彼らに委任したことになりますが…」健太は、恐る恐る尋ねた。
正義は首を激しく横に振った。「ありえません!鈴木醸造の土地は、先祖代々、この下町で醤油を造り続けてきた我々にとって、命そのもの。これを手放すなど、死んでもできません!」
健太は混乱した。正義は嘘を言っているようには見えない。しかし、目の前の書類は、あまりにも完璧すぎる。
「その、不動産業者と名乗る者たちは、他に何か言っていましたか?」健太は尋ねた。
「彼らは、私が土地を売却する意思を撤回するなら、『多額の違約金』を請求すると言ってきました。そして、もし支払えない場合は、裁判を起こすとも…」
正義の声は、だんだんと小さくなっていった。彼が抱えている問題は、単なる詐欺事件ではない。これは、下町の老舗が、その存亡の危機に瀕していることを意味していた。
健太は、ミケに目をやった。ミケは、正義の膝の上で丸まり、その瞳をじっと正義に向けたまま、静かに呼吸をしていた。その目は、まるで正義の心の奥底に隠された、悲しみと怒りを映し出しているかのようだった。
「先生…私には、他に頼れる人がいません。この土地だけは、何としても守りたいのです…」正義は、縋るように健太の手を握った。その手は、醤油造りで鍛えられた、ゴツゴツとした職人の手だったが、今は、冷たく震えていた。
健太の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。頼りない自分に、この重責が果たせるのだろうか。相手は、偽造の専門家、あるいは組織的な詐欺集団だろう。司法書士として、彼らと戦うだけの知識も経験も、健太にはまだ足りない。
「あの…私で、本当に力になれるか…」健太は言葉を詰まらせた。
その時、健太の膝の上で丸まっていたミケが、突然、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。そして、ゆっくりと体を起こすと、健太の顔を見上げ、小さく、しかし力強く「ニャア」と一声鳴いた。
その鳴き声は、健太の心に、不思議な温かさをもたらした。まるで、「大丈夫だ。僕がついている」とでも言われているかのようだ。健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケは満足そうに目を細めている。
健太は、ゆっくりと息を吸い込んだ。目の前の正義さんの顔には、絶望の色が濃く浮かんでいる。この人を、この老舗を、そしてこの下町を守りたい。たとえ自分にどれほどの力があるのか分からなくても、目の前の依頼人を助けるのが、司法書士としての自分の使命だ。そして、ミケがそばにいる。
「正義さん…私に、できる限りのことをさせていただきます。この件、どうか私にお任せください」健太は、震える声で、しかしはっきりとそう言った。
正義は、健太の言葉に、わずかな希望の光を見出したかのように、大きく頷いた。
「ありがとうございます…先生…!」
健太は、目の前の書類に改めて目を落とした。偽造された印鑑、完璧な委任状、そして多額の違約金。これは、生半可な事件ではない。この下町に忍び寄る再開発の波の裏には、もっと深い闇が潜んでいるのかもしれない。
ミケは、健太のデスクの上にあった、先ほど届いた区画整理の説明会のお知らせのチラシを、前足でそっと押しのけた。そして、その代わりに、正義が持参した、偽造されたと思しき委任状の写しを、じっと見つめていた。その瞳は、何かを見透かしているかのようだった。
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