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閑話 師匠との日々5

ドキドキ

 さあ、希望の地へ足を踏み出そう。

 太陽がいずれ来襲するこの地には希望は残されていないのだから。

 さあ、立ち塞がる壁はことごとく破壊しよう。

 自分達やその家族が生き残る道はもはやそれしか残されていないのだから。

 さあ、立ち上がれ民たちよ。人類の未来は君たちの手にかかっている。



 ◇



 いやはや酷い目に遭ったものだ。

 頬に残るあの生暖かい感触と、鼻の奥にこびりついた酸っぱい臭いを思い出し、思わず顔をしかめる。思い出しただけで吐き気が込み上げてくるのだから、あれを真正面から受けた時の衝撃は言うまでもない。

 結局何者か分からなかった少女二人組と別れ、酒屋に着いた時はすでに辺りは真っ暗だった。

 夜の街は静まり返り、通りに灯る明かりだけがぼんやりと石畳を照らしている。遅れてしまった焦りと、冷えた空気がやけに肌に刺さった。

 急いで中に入ろうと、焦る手で扉を開けた――その瞬間。

 視界が、ぬるりと覆われた。

 一拍遅れて、強烈な臭いが鼻腔を突き刺す。

 理解するより先に、本能が拒絶を示した。

 顔面にゲロをぶちまけられたのだ。


「……は?」


 間の抜けた声が漏れる。だが現実は変わらない。頬を伝い、顎から滴る不快な液体。袖で拭おうとするほどに広がる汚れ。周囲の酔客の笑い声が、妙に遠く聞こえた。

 予約していた分を全て飲まれてしまっていた(ここは本当に人気なのでおつまみや夜飯を除き予約した分しか食べられない)ので、どうしようもなく帰ろうとした。

 だが運の悪いことに、いや、もはや必然なのか――高い酒代だけはしっかりと請求された。

 納得がいくはずもないが、ここで揉める気力すら残っていなかった。

 すでに寝惚けていた師匠を引き摺りながら宿に戻る。

 師匠の体は見た目以上に重く、ずるずると引きずるたびに石畳に靴が擦れる音が響く。

 まだ一時間も経ってないだろうに、どれだけ飲んでたんだあの人たちは。

 内心で毒づきながらも、文句を言う相手は完全に酔い潰れている。返ってくるのは意味不明な寝言だけだ。



 次の日。

 朝日がゆっくりと昇り、空を淡く染めていくのを眺めながら、俺は馬車で塩を運んでいた。冷たい朝の空気が肺に心地よく、昨日の最悪な出来事を少しだけ遠ざけてくれる。

 道中これといったトラブルはなく、車輪のきしむ音と馬の足音だけが単調に続く。

 その静けさの中で、ようやく気持ちが落ち着いていくのを感じた。

 無事任務を完了することができたが、あの記憶だけはしつこく頭に残り続けていた。


「ということで俺の知り合いと一緒にパーティを組むことになっている。もうすぐ着くだろうから任務に行こう。

 ん?おい、ちゃんと聞いているか?」


「ああ、すみません。誰かに顔面にゲロをぶちまけられたことを思い出していて聞いてませんでした」

 肩をすくめながら言うと、師匠は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに苦笑を浮かべた。


「すまんかったよ、あれは。だが俺だけが悪いとは思っていない。お前が遅れたせいで俺が先に酒を飲み始め、気づかぬままお前の分まで飲み、気づいたらお前にゲロをぶちまけたわけだ。

 つまりきっかけはお前であるわけで、俺は4割ほどしか悪くない」


「……いや、割合おかしくないですか」


 一ミリも反省していない師匠の戯言を、半ば呆れながら聞き流す。

 この人に真面目な謝罪を期待した自分が間違っていた。

 その時だった。

 背後から、ほとんど気配を感じさせない足取りで、誰かが近づいてくる。


「あなたが師匠のお知り合いですか?」


 振り向くと、黒髪の男が立っていた。

 ゆったりとした服の上からでも分かる装備の多さ。ベルトにはいくつもの短剣や銃火器が取り付けられている。無造作に見えて、その実すぐに手が届く配置だった。


「そうだよ、俺がそいつの知り合いだ。まあ、腐れ縁ってやつだな。

 それにしても簡単に気づかれちゃったか。足音は消していたつもりだったんだがな。やっぱ床の軋む音でバレたか。」


「そーだなー、ここも古いからなぁ」


 床板は確かに年季が入っており、少し体重をかけるだけでわずかに軋む。静かな店内では、その程度の音でも十分に目立つ。

 そんな会話をしていると、カウンターの奥から鋭い視線が突き刺さる。

 振り向かなくても分かる、あの人だ。

 空気が一瞬で冷え込み、俺たちは同時に言葉を止めた。

 このままでは面倒なことになる――そう本能が告げている。


「こんにちは、イェネロスと言います」


「どうもこれはご丁寧に。コスモスという。別に敬語じゃなくていいよ」


 柔らかい口調とは裏腹に、その目は周囲をよく観察していた。

 ただの気さくな人物、というわけでもなさそうだ。


「いえ、そういうわけにも。

 …それで今日の任務はなんでしたっけ」


「あ、ああ。えっと《ボルシャック・ヒート・ドラゴン》の巣が近隣の村の近くに発見されたそうだ。洞窟に住み着いたようでな、苦戦しそうだからこいつを呼んだってわけだ」


「はい、呼ばれました」


 軽く手を上げるコスモス。その仕草には妙な余裕があった。


「《ボルシャック・ヒート・ドラゴン》ですか、確かBランクのドラゴンですよね。やはり巣を潰すのは危険なんですか?どれぐらいいるんですかね」


「危険って言ったら危険だけど多分思っているのと違うよ。色々話すことも多いし続きは移動しながら話そう」


 俺たちは馬車を捕まえ、街を後にした。

 馬車が動き出すと同時に、木の軋む音と車輪の振動が体に伝わってくる。

 一定のリズムで揺れるその感覚は、最初こそ気にならないが、時間が経つにつれてじわじわと体に負担をかけてくる。


「それで思っているのと違うってどういう意味なんですか?」


 ふふん、と得意げに笑いながら、コスモスは話し始めた。


「竜はね、例え下位でも賢い生き物なんだ。戦い以外にも、ちゃんと知恵も使う。

 巣に簡単な罠を仕掛けていることなんて珍しくもないし、洞窟だと呪文も使いづらい。崩落の危険があるからね。力押しはむしろ危ないんだよ」


 淡々と語る内容とは裏腹に、その目は楽しげに細められている。

 危険な任務であるほど、彼にとってはやりがいがあるのだろう。


「それに今回の依頼、かなりポイントが高い。つまりそれだけ危険ってことだ。

 そこで僕の出番ってワケさ!一流の盗賊である僕の手にかかればどんな罠も見破って見せよう!」


 胸を張るその姿はどこか芝居がかっている。


「それに竜は宝を集める習性があるからねぐへへへへ」


「本音が漏れてるぞ。まあ助かるが」


「あははは」


 軽く笑いながらも、俺はふと気になったことを口にした。


「ところでなんで銃なんかを持っているんですか?対人ならともかくクリーチャーには向かないでしょう?」


 コスモスの腰に下げられた銃を見ながら問う。

 確かに便利そうではあるが、この世界では決定打にはなりにくい武器だ。


「ふっふっふ、これも使い方次第さ。目や口の中に撃ち込めば、いくら竜でも無事じゃ済まない。それに軽くて取り回しがいいし、速射性もある。斥候は火力不足になりがちだからね」


 なるほど、と納得する。

 単純な威力ではなく、使いどころで補うわけか。


「盗賊なんだが、こいつはソロでやってた頃が長くてな」


 師匠が懐かしむように言う。


「大体のことは一人でこなせる器用なやつなんだ。昔は料理、洗濯、後始末、金の管理まで全部任せてた」


「何人ぐらいでパーティを組んでいたんですか?」


「五人だ。俺、こいつ、僧侶、呪文使い、神官。そこそこ有名だったんだがな……」


 一瞬、言葉が途切れる。


「ダンジョンで一人死んでな。それで解散だ。代わりを入れるぐらいなら終わりにしようってな」


 その声には、過去を完全に割り切った者特有の静けさがあった。


「そうだったんですか、すみません」


「気にするな。昔の話だ」


 短く言い切るが、その奥に残るものを完全に消せているわけではない――そんな気がした。


「……それよりもだ」


 コスモスが空気を切り替えるように言う。


「回復役がいない以上、慎重にいこう。回復薬はあるけど応急処置程度だからね。

 ん?どうしたんだいそんな顔して。吐きそう?」


「いや、長時間馬車に乗っていたんで尻が痛くなり出してしまって」


「はは、懐かしいな。昔はそんなこともあったっけ」


 笑い声が響く中、馬車はゆっくりと目的地へ近づいていった。


「お、そろそろ着きそうだね。準備しておこう」



 ◇



 村の人に案内してもらった先は、森の中にぽっかりと空いた開けた場所だった。

 そこに口を開ける洞窟は、まるで大地に刻まれた傷のように黒く沈んでいる。

 この森は珍しいことにクリーチャーが住んでおらず、村人たちは豊富な資源を頼りに生活していたという。

 だが最近、その均衡は崩れた。


「このままでは暮らせなくなってしまうんです……どうか……」


 案内してくれた村人の声は震えていた。

 背後には、遠巻きにこちらを見守る他の住民たち。誰もが不安と期待の入り混じった目をしている。

 この依頼が、彼らにとってどれほど重いものかが嫌でも伝わってきた。


「よし、じゃあいっちょやりますか!」


 コスモスが軽く手を叩く。


「僕が先頭、イェネロス君が真ん中でアーシェが一番後ろで警戒していてくれ。

 じゃあパーティコスモス、出陣!」


「何勝手にお前がリーダーになってんだ」


 軽口を叩きながらも、誰も異論は唱えない。

 この状況で先頭を任せられるのは、確かに彼しかいない。

 俺たちは一度だけ視線を交わし、それぞれが意識を戦闘へと切り替える。

 洞窟の入口に立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

 外の光はそこまで届かず、内部はすでに薄暗い。

 一歩踏み出す。

 靴底が湿った地面を踏む音が、やけに大きく響いた。

 油断はしない。だが、張り詰めすぎてもいない。

 その絶妙な緊張の中で――

 俺たちは、闇の中へと足を踏み入れていった。

今日は一旦この辺りで

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