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逆境に次ぐ逆境

 

 順調に売り上げを伸ばしていた東京支社に、思いもよらぬところから、とんでもないものが襲いかかってきた。

 リーマン・ショック! 

 それは見たこともないような怪物だった。


 2008年9月15日、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻した。

 東京支社長になって5年目、55歳の時だった。

 そのニュースをテレビで見ていたが、リーマン・ブラザーズに解雇された社員が自分の荷物を段ボール箱に詰め、それを抱えて会社から出ていく姿が映し出されていた。

 原因はサブプライムローンが焦げついたことだった。


 サブプライムローン? 


 聞きなれない言葉だった。

 専門家の解説によると、普通なら家を買えない低所得の人に対して住宅ローンを組ませ、高い金利をつけて貸し出す仕組みのようだった。

 銀行が安易にお金を貸してくれる上に、ローンを返済できなくなっても家を引き渡すだけでそれ以上何も請求されないということもあり、自分の家を持つことなど考えたこともなかった低所得の人達が競って家を購入したのだという。

 その結果、アメリカに住宅バブルが起こったらしい。

 その説明を聞いてなんとなくわかったような気がしたが、きちんと理解できているかどうかは疑わしかった。

 金融工学という高度なテクニックが使われたそうだが、それについてはまったく理解できなかった。


 リーマン・ブラザーズは60兆円を超える負債総額を抱えて倒産した。

 当初、市場関係者はリーマンが倒産するとは思っていなかった。

 余りにも大きな影響が出るので、アメリカ政府が救済すると考えていたのだ。

 しかし、アメリカ政府は救済しなかった。

 そのため、異常事態という大波を受けたアメリカの株式市場は暴落し、一瞬にして全世界へ飛び火した。


 日本も例外ではなかった。

 リーマンの倒産から半年後、株価の下落は40パーセントを超えた。

 つまり、株式で持っていた資産が40パーセント以上減ったことになる。

 投資家は狼狽した。


 実体経済への影響も甚大で、中小企業だけでなく、大企業までもが倒産の危機を迎えた。

 2008年の倒産件数は15,000件を超え、その年の負債総額は12兆円近くまで膨らんだ。

 倒産企業から失業者が溢れ、倒産を免れた企業でも聖域なき経費削減が行われた。

 それは人件費も例外ではなかった。

 つまり、社員の給料にも影響が及んだのだ。

 給料が減る中で多くの人が生活防衛に追われた。


 食品業界にも当然ながら大きな影響が及んだ。

 可処分所得が減った消費者は割安な商品を探してチラシの特売品に飛びついたのだ。

 1円でも安い食品を探すために店舗を渡り歩く客が一気に増えた。

 そんな状況だから、高額な商品は売れなくなった。

 つまり、メーカーにとって利益率の高い商品が敬遠されるようになったのだ。


 消費者の購買行動の変化に合わせて、店舗での安売り合戦が始まった。

〈他店より安く〉が小売企業の合言葉のようになった。

 新聞に折り込まれた競合他店のチラシ価格を徹底的に調べ上げて、それより1円安くする、そのようなことが日々繰り返された。

 消費者を繋ぎ止めるためには価格訴求しかない状況だったのだ。


 だから、店頭価格の下落が止まらなかった。

 その結果、小売企業からメーカーへの値下げ圧力が高まった。

 メーカーは利益を吐き出して対応するしかなかった。


 更に追い打ちをかけたのが、小売企業によるPB商品の開発強化だった。

 PBとはプライベート・ブランドの略で、ナショナル・ブランド(NB)と同等の物を、小売企業のブランド名でメーカーに作らせるものだ。


 PBの価格はNBよりも安い。

 ということは、メーカーからの仕入れ値も安い。

 かなり厳しい条件を突きつけられる。

 全量買い取りなので返品のリスクはないし、広告宣伝の必要もないが、小売企業によるメーカー支配力が増していく。

 つまり、メーカーが小売企業の下請けになる危険性が大きくなっていく。

 小売企業と対等のパートナーとして踏みとどまれるか、それとも、小売企業の従属物に成り下がるか、食品メーカーは運命の曲がり角に差し掛かっていた。


 そんな状況の中でわたしは焦っていた。

 大阪本社からの明確な指示を待っていたが、いつまで経っても対策が示されないのだ。

 売り上げ死守! ただ、これだけだった。

 しかし、出口のないデフレと終わりなき消耗戦という泥沼のような状態の中で手をこまねいている訳にはいかなかった。

 何かをしなければならなかった、何かを。

 ところが、本社は馬鹿の一つ覚えのように売り上げ死守を繰り返すだけだった。

 頑張れというだけだった。

 ケツを叩けばなんとかなるとでも思っているかのようだった。

 わたしは呆れてものも言えなくなり、本社への期待はゼロになった。

 それでも、このまま消耗戦を続けるわけにはいかなかった。

 終止符を打たないと大変なことになるのが目に見えているからだ。

 自らの力でなんとかしなければならないと腹をくくった。


        *


 支社の優秀な社員を集めてプロジェクトをスタートさせた。

 プロジェクト名を『付加価値が決め手!』とした。

 そして、製品や販促策が消費者ニーズから乖離していると思われることをすべて列挙させ、それを性別、年代別、シーン別に分類させ、その一つ一つを分析し、消費者ニーズに合致させるための対策を練った。

 更に、貢献度や対応可能性などを基に優先順位をつけていった。


 緊急度の高い最優先事項を三つに絞った。

 ・働く女性のニーズへの対応

 ・高齢者ニーズへの対応

 ・健康志向ニーズへの対応


 その上で、それぞれのプロジェクトにリーダーを任命した。

 すべて女性社員だった。

 スーパーで食品を購入する人はほとんどの場合女性だからだ。

 その女性購入者が求めていることを理解できなければ、購入者の気持ちに沿った対応ができるはずがない。

 今まで女性社員はサブという立場だったので、「こうしたらいいのに」と思っても、なかなか口に出すことができなかった。

 男性リーダーの指示に従うしかなかった。

 しかし、デフレが終わる気配を見せず、業界の消耗戦が激しくなっている現状を打破するためには、今までの考え方を大きく変えなければならないのは明白だった。

 女性社員主導で行うプロジェクトの必然性に疑う余地はなかった。


 プロジェクトでは様々なアイディアが出てきた。

 それを三つのプロジェクトに共通する訴求テーマに絞り込んでいくと、その中から新たなキャッチフレーズが生まれた。

『栄養バランスを考えた健やかおでん』

 単に食材として売り込むだけでなく、健康に焦点を当てた取り組みを展開したのだ。


 これが当たった。

 健康志向が強まる中で、《栄養バランス》というキーワードと《健やか》というキーワードが消費者の琴線を刺激したのだ。

 それによって採用してくれる店舗がどんどん増えていき、それに伴ってラウンダー職によるPOP貼付や小冊子配布、試食即売会が活発になり、日に日に成功例が増えていった。

 その結果、《イイネ&サンキュー情報》のイイネ!ボタンとサンキュー!ボタンのクリック数が急増し、社内連携が更に進み、下がり続けていた売り上げが底を打ち、反転し始めた。


 同時に新たな提案のための準備を進めた。

『おでんカレー』だ。

 おでんとカレーの組み合わせという今までにないアプローチだった。

 それは開発研究所出身の男性社員が発した何気ない一言から始まった。


「あのカレールーを使えないかな?」


 開発研究所では、全社員から新製品の提案を募るために『新製品アイディアコンテスト』という大会を年に1回開催していた。

 そこで銅賞を獲得したのが『おでんカレー』だった。

 提案者は人事部の女性社員。

 彼女は前日の余ったおでんを翌日食べるためにカレーの中に入れて煮込んでいたのだが、それを子供たちが喜んで食べることから、おでんの新たな可能性を感じて応募したらしい。

 その中にはおでんに合う専用のカレールーの開発が明記されていた。

 その専用カレールーの開発を担当したのが、元研究所員の彼だった。


「フルーツ味のカレールー、キムチ風味のカレールーなど色々試しましたが、私が一番合っていると思ったのが麺つゆ風味のカレールーでした」


 それを完成させ、研究所で試食会を開いたところ大好評で、これならいけると経営陣にアプローチすることになった。

 それで役員試食会を開いたところ、狙い通り多くの役員が美味い美味いと完食した。

 しかし、一人だけ顔をしかめていた役員がいた。

 社長だった。

 彼は「邪道だ」と言い捨てて席を立った。


「何が気に入らなかったのかよくわかりませんが、社長以外の役員からは褒めてもらいました。絶対イケると思います」


 レシピが残っているからいつでも作れると言うので、そのカレールーを再現して試食したところ、支社員に大好評だった。

 すぐに本社の常務と製造担当役員に掛けあった。

 二人共おでんカレーを試食して美味しかったことを覚えており、また、新規の設備投資が必要ないことも幸いし、小ロットから製造を始めることを条件にOKを出してくれた。


 発売したら大評判。

 予想以上のヒットになった。

 工場は本格生産を開始し、販路を全国に拡大することになった。

 その結果、東京支社だけでなく、全社の売り上げがリーマン・ショック前の状態に戻ろうとしていた。


 しかし、またもや想像を絶する逆流が押し寄せてきた。

 東日本大震災だった。

 未曾有の災害によって物流や商流が壊滅的な打撃を受けた東北や関東では商売どころではなかった。

 取引先の店舗は崩壊し、棚に並んでいた商品は水に浸かったり潰れたりして、使い物にならない状態だった。

 そんな状態なので店舗の営業再開までに相当な時間が必要だったし、その間にも小売店から返品と補償の依頼が日を追って増えていった。

 そのことを相談すると本社は渋ったが、信頼という観点と人道的な側面から必要と独断し、罹災品と正常な製品との交換に踏み切った。


 一方、食品の家庭内在庫が底をつき始めると、まだ気温が低いこともあって〈温かいおでん〉に対する需要が高まり、それによって想定外の事態に直面した。

 当社は主力工場が関西に集中していたので生産能力にはほとんど影響を受けなかったが、関東や東北に工場を持っている他社は稼働できず、需要への対応が困難になった。

 その分が当社に回ってきた。

 一瞬にしててんてこ舞い(・・・・・・)の状態になり、注文が製造能力を上回るようになった。

 そのため、在庫が急激に減り始め、取引先からの注文に応えることができなくなった。

 すべての工場でフル生産を続けたが、需要に供給が追いつくことはなかった。


 しかし、急ピッチの修理や再建によって他社の工場が再稼働を始めると、一転して供給過剰の状態になり、当社の倉庫に在庫が溜まり始めた。

 生産調整が必要になると、生産能力を増強していた工場の稼働率が落ちていった。

 需要と供給の乱高下が会社を翻弄するだけでなく、先の見えない不安が社員の心を落ち着かなくしていた。


        *


「次は、」


 車内のアナウンスで現実に戻った。

 よく通る声で降りる駅の名を告げた。

 それは毎日聞き馴染んだ駅名だったが、明日からは聞くことのない駅名だった。

 この駅で降りるのは今日が最後なのだ。

 もう二度とこの駅で降りることはない。


 電車のドアが開き、ホームに押し出され、煽られるように階段を上り、押されるように改札口を出た。

 すると、ム~っと纏わりつくような湿気が襲ってきて、耳のうしろから汗がじわ~っと浮いてきた。

 思わずハンカチを当てた。


 改札口の先の上り坂を傘をさして前傾姿勢で歩くと、額に汗が浮いてきた。

 でも両手が塞がっているので我慢していると、流れてきた汗が目に入って沁みた。

 慌てて雨に濡れないところに駆け込んで、ハンカチで拭った。


 駅と会社の中間くらいのところまで歩いていくと、何かまごつくような動きをしている人を見かけた。

 目の不自由な人のようだった。

 傘は持たず、フード付きのレインコートを着ていた。


「なにかお手伝いできることはありますか?」


 その人を驚かせないように慎重に声をかけた。

 すると、「駅の方角がわからなくなりました」とその人は訴えた。


「お連れしましょう」


 杖を持っていない方の手をわたしの腕にかけてもらって、駅まで引き返した。


 改札口で「お気をつけて」と声をかけると、わたしの方に向って何度もお辞儀をした。〈少しでもお役に立ててよかった〉と思いながら、その人の姿が見えなくなるまで改札口で見送った。


 もう一度会社へ向かうと、雨は強くなっていた。

 会社に着く頃には、靴だけでなくズボンの膝から下がびっしょりと濡れていた。


 ビルの玄関口で傘の水滴を振り落としたあと、妻が持たせてくれた小さなタオルでズボンと鞄と靴を拭き、エレベーターに乗った。


        *


「おはよう」


 いつものように声をかけて、自分の席に座った。

 そして、「ありがとう」と机と椅子に頭を下げた。


 明日からは誰が(あるじ)になるのだろうか?


 ふとそんなことが頭を過ったが、意味がないのでその考えを消し、机の引き出しを開けた。

 空っぽだった。

 机脇の棚の中も空っぽだった。

 紙の資料や書籍はすべて処分が終わっていた。


 パソコンを立ち上げた。

 ファイルはほとんど残っていなかった。

 ワードの文章も、エクセルの表も、パワーポイントもすべて削除していた。

 あとは、メールだけ。

 メールが3通だけ。

 削除できなかったメールが3通残っていた。

 それらのメールはどうしても削除できなかった。

 血と汗と涙が詰まったメールであり、分身のようなメールだったからだ。

 そう簡単に削除することなどできるはずはなかった。

 それでも、いつまでも残しておくことはできない。

 今日が出社最終日なのだ。


 日付の一番古いメールを開けた。

『ネット通販への取り組み』というタイトルだった。

 それは、わたしの想いが詰まったメールだった。

 読み進めるうちに、苦楽を分かち合ったメンバーの顔が浮かんできた。



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