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東京支社長(3)

 

 正社員の心のケアが一段落したので、契約社員の待遇改善に取り掛かった。

 東京支社には『ラウンダー』と呼ばれる契約社員が数多くいて、そのほとんどは女性だった。

 スーパーマーケットの各店舗を巡回し、自社の売場を見栄え良くディスプレーしたり、試食販売コーナーに立って売り込みをしたりするのが仕事だった。


 その契約社員の定着率が悪かった。

 採用しても長く続かないのだ。

 特に、優秀な人の定着率が悪かった。

 これは支社の活動に大きな影響を及ぼしていた。

 辞めた人の補充のために年中、採用活動をしなければならなかったのだ。

 新聞や雑誌での募集費用も馬鹿にならなかったが、何より採用を担当する総務課と営業部門の負担が半端なかった。

 常に面接とその準備に追われていたからだ。


 更に、教育研修課の負担も大きかった。

 新たに入社した人の導入教育を年中行っていたので、本来の仕事に支障が出ていた。

 この問題の解決が喫緊の課題だった。


 なぜ契約社員の定着率が悪いのか?


 原因は二つ考えられた。

 一つは、賃金の低さ。

 もう一つは、人間関係。


 さっそく、賃金体系の見直しに着手した。

 優秀な契約社員の定着率を上げるためである。

 正社員の賃金体系は本社マターなので手を出せないが、契約社員の賃金は支社に任されていた。

 東京は大阪やその他の地方と違って労働市場をはじめ環境がまったく違うという理由からだった。

 なので、支社長の権限で契約社員の賃金体系の見直しができたのだ。


 先ず、制度を改めた。

 やる気がある人もない人も、成績の良い人もそうでない人も、今まではまったく差がつかないようになっていた。

 そして、契約更新時にも、成績と関係なく全員が前年度とまったく同じ賃金で契約するようになっていた。

 これを改めなければならない。

 加えて、将来に夢を持てる仕組みが必要だった。


 考えた末に、月給制契約社員と年俸制(ねんぽうせい)契約社員の二つの賃金体系を設定した。

 そして、契約社員全員を月給制契約社員として同じ賃金でスタートさせ、1年後、会社基準を満たした人とは再契約をし、満たせなかった人とは再契約しないことを明確にした。

 緊張感を持って働いてもらうためである。


 年俸契約を結んだ人の初年度の年俸は400万円とした。

 契約社員の賃金としてはかなりの水準であるが、モチベーションを高く持ってもらうためにはこれくらい出す必要があると判断した。

 更に、各自の成績に対しては5段階で評定を行い、上下20パーセントの差がつくようにした。

 頑張ればより多くの賃金を獲得できるようにしたのだ。

 加えて、支社目標を達成した時には契約社員全員に特別手当を支給することにした。

 個人目標だけでなく支社目標への意識を高めると共に、今まで賞与がなかった契約社員の心情に配慮することによって、一体感が醸成されることを期待したのだ。

 これなら頑張ろうと思って働いてもらえるはずだ。


 更に、正社員と契約社員で差があった福利厚生についても見直した。

 これは東京支社だけではできないので、大阪本社の人事部と相談しながら進めた。

 先ず、冠婚葬祭の制度改定を行った。

 契約社員本人の結婚に対し、初婚・再婚にかかわらず、お祝い金を支給するようにした。

 次に、本人または配偶者が出産した場合のお祝い金を新設した。

 加えて、出産後に必要となるベビーバスやガーゼ、赤ちゃん用のスキンケア製品をセットにしたものを贈呈することにした。

 更に、契約社員本人やその家族の死亡に対する香典も新設した。

 本人死亡の場合だけでなく、配偶者や子供、両親の死亡に対しても支払うことにした。

 それから、災害見舞金も規定を設けて新設した。

 そして、本人が結婚した場合の慶弔休暇を新設し、加えて、看護休暇制度も整えた。

 正社員に比べて冷遇されていた契約社員の諸制度が充実し、彼らの不満が激減した。


 更にもう一歩踏み込んだ。

 もっと上を目指す人の挑戦心に火をつける制度を新設したのだ。

 それは、正社員登用制度。

 年俸制契約社員の中から特に優秀な成績を上げた人で、かつ、会社の方針をよく理解している人を選抜し、年に一人か二人を正社員に登用する制度である。

 大阪本社の人事部からは人件費の増加を懸念する声が上がったが、契約社員のモチベーション向上が利益増につながることを強調して押し切った。


 これらの制度変更により、優秀な契約社員の退職者数は激減した。

 その結果、採用にかかわる活動や新人への導入研修の時間も大幅に減り、社内が落ち着いてきた。


 次に解決しなければならないのは、契約社員同士の人間関係の問題だった。

 契約社員はほとんどが女性で、表面的には仲良くしていても、裏で陰口をたたく人が多かった。

 しかも、その悪口がメールで拡散していた。

 その結果、契約社員の間に疑心暗鬼が広がっていた。


 この問題の解決は難しかった。

 人の口に戸は立てられない。

 どうしたらいいのか、中々糸口は見つからなかった。


 そこで、彼らの行動をもう一度見つめ直すことにした。

 契約社員は全員、広域量販課に属しており、毎日スーパーマーケットの各店舗を回り、売場作りや試食即売会を行っている。

 そして、一日の行動を日報にインプットし、毎日上司にメール添付で提出している。

 しかし、その情報は共有されていなかった。

 上司が読んだら、それで終わりだった。


 これが使えるかもしれない、


 ふと、そう思った。

 契約社員の日報を全員が共有することができれば、なんらかの一体感が生まれるのではないだろうか。


 思い立ったら吉日と、広域量販課と総務課、そして、大阪本社の情報システム部に協力してもらって、新たなシステムの開発を始めた。

 今まで各自がメールで上司に報告していた日報を会社のイントラネット上の『日報報告サイト』に直接インプットする仕組みに変えるためだ。


 それだけではない。

 契約社員の日報情報に、他の契約社員が賛同する仕組みを入れ込もうと考えた。

 自分も試してみたいと思う良い情報に対しては〈イイネ!〉のボタンを、その情報通りにやって上手くいったら〈サンキュー!〉のボタンをクリックできるようにするのだ。

 加えて、それぞれのクリック数も表示できるようにした。

 名前も考えた。

『イイネ&サンキュー情報』


 初めてのことなので結構時間がかかったが、望んでいた通りのものが出来上がったので、契約社員を全員集めて新たな日報システムの概要を説明した。

 その中で、〈イイネ!〉ボタンと〈サンキュー!〉ボタンのクリックの件も伝えた。


 契約社員の反応は悪くなかった。

 なにか面白そうなことが始まることへの期待感が漂っていた。


 上手くいくかもしれない、


 そう感じた。


        *


 試験運用が始まると、予想外なことが起こった。

〈イイネ!〉ボタンをクリックした人が、その情報元の人に具体的なやり方を聞きに行くようになったのだ。

 それによって直接のコミュニケーションが生まれた。

 そして、その通りやって上手くいくと、〈サンキュー!〉ボタンをクリックするだけでなく、その情報元の人に直接「ありがとう」と言いに行くようになった。

 すると、契約社員同士の会話が増え、中には、店舗に同行して協力して売場を作ったり、一緒に試食即売会を実施する者も出始めた。

 明るい笑い声が出始めた広域量販課の売り上げがどんどん伸びていった。


 それだけではなかった。

 退職する契約社員が減り、退職者補充のための新人への導入教育の負担が大幅に減った教育研修課が年俸制契約社員への教育に力を入れ始めると、取引先への情報提供量が大幅に増えた。

 その結果、売り上げは更に伸びていった。


 加えて、契約社員の日報情報からより顧客目線に立った新たな販促策が生まれるようになった。

 それは、現場情報の重要性に気づいた販売促進課の社員が契約社員と同行して店舗へ行くようになったことから始まった。

 今まで会社の外へ出かけようとしなかった販売促進課の社員が積極的に取引先と面談し、その情報を基に顧客心理を重視した販促策を考えるようになったのだ。

 会社の歯車が前へ前へと回り始めた。


 契約社員の力量が上がってくると、正社員もうかうかしていられなくなった。

 特に、スーパーマーケットの本部担当者の目の色が変わった。

 お座なりだったバイヤーとの面談準備に力を入れるようになった。

 納入条件だけでなく、契約社員の情報を基にした顧客心理に訴える棚割り案や販促策を盛り込むようになった。

 更に、自主的にマーケティングの勉強を始め出した。

 専門書を購入して読書会のように読み合わせをし、その中から商談に使えそうなものを抽出し、バイヤーへの提案書に落とし込んでいった。

 すると、バイヤーとの面談回数が増えていった。

 1回の面談時間が長くなった。

 バイヤーからの電話も多くなった。

 広域量販課が猛烈に忙しくなった。


 縦割りだった組織が横の連携を意識するようになり、部門を超えた協力体制ができ始めた。

 社員同士の議論が白熱し、充満したエネルギーがオフィス全体に渦巻いた。

 東京支社が異次元の世界へ向かおうとしていた。


        *


 おっ! 


 ガクンと電車が揺れた。

 駅に入る手前のレールの切り替え箇所で揺れたようだった。

 なんとか踏ん張れたが、もう一度大きな揺れが来た。

 それはいつもより大きく、揺れに耐えられなかったわたしは後方に足を一歩動かされた。


 あっ!


 踵で誰かの靴を踏んでしまった。

 すぐに振り返って謝ったが、憮然としたような表情で睨まれた。

 もう一度謝ったが、その人はフンというような顔をして電車を降りていった。


 謝っているのだから許してくれてもいいじゃないか、わざとじゃあるまいし、


 わたしは心の中でブツブツ言いながら残像が残るその人の後姿を見つめていたが、首都圏有数の乗降客を誇る駅だけあって多くの人が降りたので、再びつり革を握ることができた。

 すると、前に座っている人に目が行った。

 その人は鞄から新聞を取り出すと、四つ折りにした新聞を器用に広げて、両隣の人の邪魔にならないように読み始めた。

 見るともなくその新聞を見つめていると、首相の写真が目に入ると同時にその横の見出しが飛び込んできた。

『リーマン・ショック級の出来事がない限り予定通り消費税を引き上げ!』


 リーマン・ショックか……、


 わたしは10年ほど前のあの日に引き戻された。



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