新入社員(2)
何がいけなかったのだろう……、
スーパーを出てからも、会社に帰ったあとも考え続けた。
しかし、原因は何も浮かんでこなかった。
〈主婦の気持ちに寄り添う〉という主任のアドバイスをノートに書いてはみたものの、それで何かが思い浮かぶことはなかった。
母親の顔を思い浮かべて、〈どんな気持ちで買い物をしているのだろう〉と考えてみたが、母親の内面を知ろうとしたことが一度もないわたしに思い浮かぶことは何もなかった。
これ以上考えても答えが出るはずはないと思って隣席の先輩に助けを求めたが、色よい返事は貰えなかった。
彼も自分の仕事で精一杯のようだった。
どうしよう……、
このままでは……、
追い詰められると共に強い焦りが湧き起こってきた。
しかし、焦れば焦るほど更に追い詰められていった。
頭を抱えて時間が過ぎていくのを甘受するしかなかった。
*
仕事が終わった社員が一人二人と帰り始めた。
それを茫然と見送っていると、隣の先輩も席を立った。
社内は空席が目立つようになった。
もうダメだと諦めかけた時、少し離れた席にいる女性社員が近づいてきた。
そして、心配そうな表情で「何があったの?」と声をかけてくれた。
今日あったことをすべて伝えた。
売れなかった原因がわからないし、対策が何も浮かばなくて困っていることを正直に伝えた。
すると彼女は頷いて、自分の椅子をわたしの隣に運んできた。
「ただ並べているだけでは誰も見向きもしないわ。土鍋の中に入れるディスプレーも目新しくないしね。それに、おでんなんて皆同じと思っているから、各社のイチ押しを並べても興味を惹かないのよ」
ガツンとやられてしまった。
その上、「モノを売ろうとしてはダメなのよ」と諭された。
しかし、彼女の言っていることがよく呑み込めなかった。
モノを売らなくて何を売るんだろう?
答えに辿り着けず首を傾げていると、「私も同じ間違いをしたの。入社してすぐの頃は〈どうやって売ろうか〉とばかり考えていたわ。でもね、そう考えている間は全然売れなかったの。本当に酷かったのよ」と失敗経験を話してくれた。
「営業成績はいつも最下位で、上司に怒られてばかりいたわ。自信が無くなっちゃって、落ち込んで、そのうち眠れなくなって、これはもう辞めるしかないかなって」
そんなことがあったんだ……、
わたしは身につまされた。
「そんな時、ふらっと立ち寄った本屋さんである本を見つけたの。マーケティングの本だったわ。それにはこう書いてあったの。『あなたの仕事は誰の役に立っていますか? 誰を幸せにしていますか?』って。それを見て、金槌で思い切り頭を叩かれたような衝撃を覚えたの」
彼女は自席の引き出しからその本を取り出して見せてくれた。
『お客様の幸せを売る営業マン』という本だった。
彼女は愛おしそうにその本の表紙を撫でた。
「モノを売っちゃダメなのよ。お客様の幸せを売るのが私たちの仕事なの」
そして、わたしの顔を覗き込んだ。
「あなたのお客様は誰?」
問われてすぐに「わたしのお客様は消費者です。スーパーに来ている買い物客です」と自信満々に返したが、彼女は頷いてくれなかった。
「もっと具体的に言ってみて」
「具体的には……、え~っと、女の人……」
わたしはしどろもどろになりかけたが、それに構わず彼女は質問を重ねた。
「どんな女の人?」
「どんなって言われても……、う~ん、奥さんが多いと思います」
「そうね、結婚して夫やお子さんがいる女性が多いわよね。では、その人たちはなんのためにスーパーに買い物に来ているの?」
「それは、毎日の食事を作るために、だと思いますが……」
食材を買い物カゴいっぱいにしてカートを押している姿が目に浮かんだ。
「単に食事を作るため?」
彼女は執拗に質問を続けた。
わたしは家族が家で食卓を囲んでいるところを思い浮かべた。
ご飯とおかずとみそ汁がテーブルに並んで、おいしそうに食べていた。
「そうか、おいしい料理を家族に食べてもらうためです」
今度は正解だと思った。
しかし、またしても彼女は首を振った。
「それだけ?」
「えっ、それだけって……」
これ以上は何も思い浮かばないので困っていると、予想外の言葉が返ってきた。
「彼女たちが作っているのは、単なる食事ではないのよ」
「えっ?」
「彼女たちはね、愛情を作っているのよ」
「愛情、ですか?」
「そう。彼女たちは夫や子供の体のことをいつも考えているのよ。夫が肥満気味だったらカロリーの低いものを、便秘気味だったら食物繊維の多い料理を、とかね。それから、好き嫌いの激しい子供には嫌いなものをどうやって食べさせようかと考えながら料理を作っているの。そして、毎日毎日、肉と魚と野菜のバランスに頭を悩ませているの。栄養が偏らないようにするためにね」
母の料理を思い出した。
と同時に、魚と野菜が大嫌いだったわたしになんとか食べさせようと苦労していた姿が浮かんできた。
「結婚した女性は家族の健康を最優先に考えて、尚且つ、おいしい料理を作ろうとしているの。わかる?」
はい、多分……、
「だからね、体に良い食材をおいしく料理できる提案をしてあげないといけないのよ」
その後、先輩は具体的な売場提案を一緒に考えてくれ、売場につけるPOPやイラストまで一緒に作成してくれた。
*
翌日、開店前に売場に向かった。
「おはようございます」
売場主任に挨拶をした。
「早いね~」
主任は驚いていた。
「今日はこれを提案してみます」
POPとイラストを見せると、〈ふ~ん〉というような表情を浮かべたが、「頑張ってね」とわたしの肩をポンと叩いて、笑みを浮かべた。
特陳コーナーに『低脂肪でヘルシーな《はんぺんハンバーグ》を今日の食卓に!』というPOPを付けた。
それから、はんぺんだけでなく、他の売場の責任者から許可を貰って、玉ねぎや鮭フレークなどを並べた。
最後に調理方法のイラストを付けた。
その瞬間、少しドキドキした。
〈関心を持ってくれるだろうか? 立ち止まってくれるだろうか? 手に取ってくれるだろうか? 買ってくれるだろうか?〉と不安になった。
それでも、弱気にはならなかった。
先輩が親身になって協力してくれたプランなのだ。
夜遅くまでかかって作り上げたPOPなのだ。
必ずうまくいく! と気合を入れて、開店を待った。
*
開店して30分ほど経った頃、小さな子供を連れた若い母親が特陳コーナーで立ち止まった。
「ハンバーグにしようか」
「やった~、ハンバーグ♪」
小さな子供が嬉しそうにはしゃいだ。
それを見た母親が頷いて、はんぺんと鮭フレークをカゴに入れた。
それは、自分が提案した商品が初めて売れた瞬間だった。
体が固まって動けなくなった。
そのうち、何か今までに経験したことのないような気持ちになってきた。
じわ~っと体の中から喜びが湧き出してきた。
嬉しいな~、
こんなに感激するなんて、こんなに最高の気持ちになるなんて、思ってもみなかった。
*
その日は何十人も特陳コーナーに立ち止まり、そして、多くの人が買ってくれた。
結果を報告すると、売場主任から賞賛と労いの言葉をもらった。
これも嬉しかった。
他人から褒められることの喜びを噛みしめた。
もちろん、この成功は自分一人でできたことではない。
売場主任や先輩のアドバイスや協力なくしてはあり得なかった。
もし、一人で右往左往していたらドツボにはまっただろう。
周りの知恵を借りられたからこそ、うまくいったのだ。
そのことを学べたことは大きな収穫だったし、これからも多くの知恵を借りることを肝に銘じなければならないと思った。
空になった特陳コーナーを見つめながら、心の中で売場主任や先輩に頭を下げた。
*
仕事が面白くて、たまらなくなった。
その店だけでなく、担当したほとんどの店で売り上げが増え、店長や売場主任からの信頼を勝ち取っていった。
その後は年を追うごとに販売成績が上がった。
連れて社内の評価も上がり、30歳で量販本部担当になった。
スーパーマーケットのバイヤーと交渉する重要なポジションだ。
ここでも顧客目線の提案を続けて、バイヤーからの信頼を勝ち取っていった。
その後も順調で、広域量販課で売り上げ上位の常連になるのに時間はかからなかった。
そして遂に39歳の時、念願のポジションに辿り着いた。
売り上げ成績のトップに立ったのだ。
それだけでなく、翌年も、その翌年もトップを守り抜き、自他共に認める広域量販課のエースになった。
そして42歳の時、課長に昇進した。
入社してちょうど20年が経っていた。
*
課長就任の挨拶をするために各量販店を回ることにした。
最初の訪問は新人の頃お世話になったあの店に決めていた。
当時の売場主任は店長になっていた。
「三木田さん、おめでとう」
当時よりふくよかになった彼がわたしの手を強く握った。
「ありがとうございます。その折は本当にお世話になりました。頂いたアドバイスのおかげです」
すると、彼が首を傾げた。
「君に何か言ったかな?」
「はい。『主婦の気持ちに寄り添って提案してね』とアドバイスしていただきました」
「そうだったっけ……」
「はい。常にお客様の気持ちに寄り添って仕事をするきっかけになりました。あのアドバイスがなかったら、自社製品を売ることだけに囚われていたかもしれません。本当にありがとうございました」
「嬉しいね、そんなことを覚えてくれていて。それをやり続けてくれていて。そんな人はなかなかいないよ。ありがとう、こちらこそ」
*
痛っ!
誰かに足を踏まれた。
気づくと、3駅先の乗降客の多い駅に着いていた。
若い頃からのことを思い出してボーッとしていたわたしは、この駅で降りる客の邪魔な存在になっていたようだ。
誰かに踏まれた靴跡が残る自分の靴先に目をやっていると、そこをまた踏まれた。
今度は乗り込んできた人に。
「ごめんなさい」
謝ったのは小太りの男性だった。
50歳くらいだろうか。
わたしは「いいえ」と返して、その男性から目を逸らせた。
悪気があってやったわけじゃないから怒るわけにはいかなかった。
その男性と共に乗り込んでくる人たちに押されながら、奥の方へ押しやられてギュウギュウ詰めになった時、若い男性の声が聞こえた。
「部長、今日は同行よろしくお願いします」
頷いたのは、わたしの靴を踏んだ男性だった。
上司と部下だろうか。
とすれば、取引先へ同行するための直行なのかもしれない。
話を聞くともなしに聞いていると、今日は新規採用を成功させるためのクロージング商談のようで、なんとか成功させたいと、部下が上司を引っ張り出したみたいだった。
部下が期待しているぞ。
頑張れ、部長!
そんなエールを心の中で送っていると、自分が支店長、そして、支社長になった時のことを思い出した。