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ニューカレドニア(2)

 

「ウ・ソン・レ・トワレット?」

「ウ・ソン・レ・トワレット?」


 ニューカレドニアに向かう飛行機の中で、わたしはフランス語の暗記に集中していた。


「さっきから何ぼそぼそ言ってるの?」


 妻が本を覗き込んで、それから、わたしの顔を見て笑った。

 わたしは〈トイレはどこですか?〉というフランス語を練習していたのだ。


 昔からその気配があったが、最近、特にトイレが近くなっていた。

 外出前や電車に乗る前、そして、風呂へ入る前など、何かをする前には催してもいないのにトイレに行くようになった。

 行っても少ししか出ないが、それでも行かないと不安になる。


 海外ではトイレを探すのに苦労することが多いらしい。

 公用語がフランス語で、かつ、公衆トイレのないニューカレドニアでは一層心配だった。

 だから、一心不乱に練習した。

「ウ・ソン・レ・トワレット?」


 意味を知った妻がクスクス笑いだしたので、わたしは肘で妻の腕をつついた。

 すると、いきなり吹き出した。


「ウ・ソン・レ・トワレット?」


 それでもわたしは練習を止めなかった。


        *


 ニューカレドニアの首都ヌメアのトントゥータ国際空港に着いたのは、夜の12時前だった。

 気流のせいで予定より少し遅れた到着になった。


「涼しいわね」


 意外そうに妻が言った。


「時計を2時間進めないと」


 わたしの時計は日本時間のままだった。


 空港近くのホテルを予約していたので、チェックインして、シャワーを浴びて、すぐにベッドに入った。

 飛行機の中で眠らなかったので、苦労せずに眠りに入ることができた。


        *


 ぐっすり眠って目覚めた朝、窓のカーテンを開けると、視界が青一色に埋め尽くされた。


「日頃の行いが良いと天気に恵まれるね」


 大きく背伸びをしてから幸せな気分に浸った。

 しかし妻は能天気なわたしの声に反応することもなく、部屋に忘れ物がないかどうかのチェックに余念がなかった。


「急がないとリムジンバスに遅れるわよ」


 妻に急かされて慌ててバス停に向かった。


 バスはすぐに来た。

 乗り込むと、意外に空いていたので、前後して窓際の席に座った。

 右側に海を見ながら、約1時間でヌメアの中心部に着いた。


「あっ、フランボワイヤン!」


 前の席に座っている妻が小さく叫んだ。


「何?」


「ほら、燃えるような赤い花が咲いているでしょう。あれが、フランボワイヤンの木よ。日本名は火焔樹(かえんじゅ)というのよ」


 見ると、辺り一面に燃えるような赤い花が咲き乱れていた。

 圧倒されるような赤い花だ。


「あっ、プルメリア」


「あっ、ブーゲンビリア」


 妻は次々に色鮮やかな花を見つけては、嬉々として説明してくれた。

 日本では見ることのない花々を見ていると、心が解放されてなんとも言えない幸せな気持ちが込み上げてきた。


 本当に天国にいちばん近い島に来たんだな~、


 何故かしみじみと感じ入るものがあった。

 見上げると、どこまでも青い空に太陽がまぶしく輝いていた。

 素敵な旅になりそうな予感がした。


 わたしたちが泊まるのは、ヌメアの中心部ではなく、アンスバタ。

 ヌメア市内から車で15分くらいの距離にある有数のリゾート地。

 しかし、予算に限りのあるわたしたちは高級ホテルには泊まれない。

 だから、人気のビーチから少し離れたところにある小さなコテージを予約していた。


 食事は付いていないので自炊か外食。

 でも、それで何も問題はなかった。

 贅沢をしに来たのではない、のんびりしに来たのだ。


 コテージの中は、トイレ、シャワー、小さなキッチン、小さな冷蔵庫、エアコン、そして、ベッドルーム、それがすべてだった。


「あっ、ハイビスカス♪」


 ベッドルームに先に入った妻の声が弾んだ。

 真っ赤なハイビスカスがベッド一面を覆っていた。

 わたしは1脚しかない椅子に座って、しばしその様子を楽しんだ。


 コテージの外に出ると、小さなベランダがあった。

 そこには丸くて白いテーブルと、同じく白い椅子が2脚置かれていた。


「食事はここね」


 妻がテーブルに腰かけて足を組んだ。

 普段そんなことはしない妻のはしゃいでいる姿が可愛らしかった。


「新婚旅行みたい♪」


 妻は海を見つめて微笑んだ。


        *


 今回のテーマは〈何も予定を立てない旅〉〈のんびりする旅〉〈時間を気にしない旅〉。

 だから二人とも時計を外すことにした。

 7時に朝食、12時に昼食、19時に夕食などという決まり切ったパターンに縛られたくなかったので、起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、寝たい時に寝る、という気ままな生活にどっぷり浸かるのだ。


 食事は妻のプランでなんの問題もなかった。

 スーパーマーケットの惣菜も個人商店の惣菜も全部美味しかった。

 味付けも日本人好みなのでなんの問題もなかった。

 それに、酒はレストランで飲むよりも格段に安く済んだので、安心して心ゆくまで飲めた。

 特に南仏産のロゼが美味かった。

 魚料理にも肉料理にも合うので万能のように感じた。

 加えて、コテージから10分ほど歩いたところにあるワインショップの主人と仲良くなれたので、リーズナブルで美味しいロゼを楽しむことができた。


 ランチも美味しかった。

 ガイドブックに載っている店だけでなく、ぶらりと入った店も外れはなかった。

 その日のおすすめランチを頼むとワンプレートで出てくるのだが、どれもレベルが高いのだ。

『天使のエビ』などのシーフードや鹿や牛などの肉料理、野菜のソテーやサラダも美味しかった。

 味だけでなく見た目もよく、舌と目で存分に楽しむことができた。


 とにかく、妻の言うことは正解だった。

 彼女の言うとおりにしたらなんでもうまくいくことがわかった。

 これからは素直に従おうと思った。


 食事以外も楽しいことばかりだった。

 朝市に行ったり、午後はのんびり海を見たり、砂浜の木陰に寝そべって読書をしたり、ぶらぶらと当てもなく散歩をしたり、誰にも、なんにも縛られず、自分たちのペースで過ごした。


        *


 8日目の午後、いつものように海辺を歩いている時だった。


「あっ、トップレス!」


 妻の声にわたしはすぐに反応した。


「どこ?」


 妻が指差した方を必死で探した。


「どこ、どこ?」


 しかし、そんな姿はどこにもなかった。

 それでも探していると、「嘘よ」と妻の声が聞こえた。

 見ると、笑いながら舌を出していた。


「えっ、嘘って……」


 思わず顔が火照った。

 かなり恥ずかしかった。


「もう~」


 妻の腕を肘で(つつ)いた。


「騙される方が悪いんだ~」


 妻がアッカンベーのような仕草をして、わたしから逃げるように足を速めた。


「コラ!」


 わたしはすぐに追いかけた。

 海岸沿いのヤシの木を縫うように追いかけっこを続けた。

 息が上がるまでそれは続いた。


 こんな他愛もないことで毎日ふざけあった。

 気のせいか、妻が少し若くなったように感じた。

 もっと早く連れて来てあげたらよかったと思った。

 少し後悔したが、これからでも挽回できると思い直した。

 捕らぬ狸の皮算用とわかってはいるが、作家としてデビューしてある程度の印税が入ったら、いろんな所へ連れて行こうと心に誓った。



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