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妻のこと(3)

 

 音のない状態を早く解消したかったので、最近よく聴いているCDを本棚から抜き出した。

『The Good Life』

 セットしてスタートボタンを押すと、ミュートしたトランペットの音が流れてきた。

 すると、その音につられるように妻が顔を上げた。

 もう泣き顔ではなかった。

 穏やかな目でわたしを見つめていた。

 それは何かを誘うような眼差しだと思った。

 私は妻に近づき、手を取り、立ち上がらせた。

 そして、ゆっくりと引き寄せて、静かにステップを踏んだ。


 ゆったりとしたリズムとメロディがわたしたちを包み込む中、2曲目が始まった。

『Sweet Lorraine』

 スタンダートナンバーを歌うティル・ブローナーの声が優しく部屋に漂うと、妻が体を寄せてきた。

 わたしはリモコンで照明を落とし、更に密着した。


 3曲目が始まった。

『For All We Know』

 物憂げなトランペットの音に続いてピアノのアンニュイな演奏が続き、うっとりとしたような表情の妻がわたしの顔を見上げた。

 誘われるようにわたしは唇を寄せ、新婚時代の時のような甘いキスをした。

 そして、うなじに唇を這わせると、「もう立てない」と艶めかしい声が漏れた。

 わたしは妻をソファに横たえてパジャマのボタンを外し、首から胸へと唇を這わせた。


 妻は感じているようだった。

 わたしも(たかぶ)っていた。

 夜は昇り詰めようとしていた。

 トランペットとピアノと吐息が一つになる中、わたしと妻はソファの上でいつまでも踊り続けた。


        *


 翌朝、歯磨きと洗顔を済ませてリビングのドアを開けると、鼻歌が聞こえてきた。

 妻は上機嫌のようだった。

「おはよう」と声をかけると、少し照れたような表情でわたしを見つめた。

「おはよう」と返してくれたが、わたしも少し照れ臭かった。


「食べる?」


「うん」


 椅子に座ってモーニングショーを見ていると、トーストと目玉焼きとサラダとミルクをトレイに乗せて妻が運んできた。


 わたしがトーストにバターを塗っていると、妻は旅行誌を持ってきて、わたしの前に座った。

 そして、(しおり)が挟まれたページを開けてわたしの方に向けた。

〈天国にいちばん近い島〉という文字が目に飛び込んできた。


「ニューカレドニアに行きたいの」


 中学生の時に『天国にいちばん近い島』という本を読んで以来、いつか行ってみたいと思っていたのだと言った。


「イギリス領?」


「ううん。フランス領」


「フランスか~」


 わたしが知っているフランス語は、「ボンジュール」と「メルシ」と「マダム」と「マドモアゼル」くらいだった。


「大丈夫かな?」


「何が?」


「言葉」


「言葉?」


「うん。英語ならなんとかなるかもしれないけどフランス語は……」


 フランス人は英語を喋れる人でもわからないふりをするというのを聞いたことがあったから、ちょっと不安になったのだ。


「大丈夫よ、観光地なんだから。それに、オーストラリアの人もよく遊びに行っているらしいからなんの問題もないと思うわ」


 妻はまったく心配していなかった。


「ならいいけど……」


 すると、〈言葉の件はそれで終わり〉というように妻は話題を変えた。


「1月の平均気温は27度くらいだって。でも、カラッとしているから、爽やかな暑さみたいよ」


「へ~。ということは、出発する時は冬のコートで、向こうに着いたらTシャツか~、いいね」


 さっきまでの心配が嘘のように消え、青い空と青い海が脳裏に浮かんだ瞬間、海岸で寝そべるビキニ美女の姿が鮮明に現れた。

 もしかしたらトップレスが見られるかもしれないと思うとイソイソしてきた。


「なんか、変な目してる」


 妻の鋭い勘がわたしの妄想を止めた。

 ちょっと慌てたが、すぐに目を真面目にして言葉を継いだ。


「いいんじゃない。ニューカレドニアにしようよ。爽やかな風に吹かれて、のんびりするのも悪くないと思うよ」


「本当?」


 わたしは大きく頷いた。


「やった!」


 妻が小躍りした。

 本当に嬉しそうだった。

 妻の喜ぶ姿を見て、わたしも嬉しくなった。

 といっても、わたしはニューカレドニアのことをなんにも知らなかった。

 だから、妻がアルバイトに行っている間、旅行誌だけでなくネットでも情報を収集した。



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