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妻のこと(2)

 

 翌日、本屋に行って旅行本を買って帰った。

 妻がバイトしている駅前の店に行くわけにはいかないので、ひと駅先の大型店で買った。


 家に帰って、紙袋から出そうとして、思いとどまった。

 妻の驚く顔が見たくなったからだ。

 指折り数えて妻の帰りを待った。


        *


「ただいま」


「お帰り」


 玄関で出迎えると、夕食の食材を両手に持った妻が立っていた。


「今夜はスキヤキにしましょ」


 それはわたしの大好物だった。

 思わず(よだれ)が出そうになったが、ハッと気づいて買い物袋を受け取った。

 かなり重たかった。

 これを駅前から持って帰ったことを思うと、申し訳ない気がした。

 そのせいでもないだろうが、思わず優しいことを言ってしまった。


「じゃあ、わたしが準備するから、シャワー浴びておいでよ」


 一瞬、妻はキョトンとした顔になった。

 夕食の前にシャワーを浴びることはかつて一度もなかったからだろう。

 いつもわたしが夕食の前に浴びて、食後の片づけが終わってから妻が浴びるのが決まりごとのようになっていた。

 だから、どうしたの? というような表情を浮かべていたが、わたしが急かすと、「はい、はい」と言いながら着替えを取りにいった。

 その後姿はどことなく嬉しそうだった。


 妻がシャワーを浴びている間に食材を冷蔵庫に入れ、ホットプレートを出した。

 そこで、しばし考えた。

 関東風でやるか、関西風でやるか、

 つまり、割り下で煮るか、牛脂で焼くか、

 どちらでやるかを考えたのだ。

 そのためには食材の確認が必要だった。

 なので、仕舞ったばかりの食材をもう一度取り出して、キッチンカウンターに並べた。

 白菜、ネギ、えのき、春菊、しらたき、焼き豆腐、牛肉。


 で? と探す必要もなく、しっかりと牛脂が鎮座ましましていた。

 妻は関西風にしようと考えていたのだろう。

 それに従うことにした。


 リビングのテーブルに置いていた紙袋を一旦本棚に隠して、ホットプレートを置いた。

 それからキッチンに戻って、野菜を切って、大皿の上に乗せてから、醤油とみりんと酒を同量混ぜて割り下を作った。

 そして、ちょっと深めの取り皿に卵を割って入れ、食器棚からビールグラスを二つ出して並べて、セッティングを終えた。

 最後にホットプレートに電源を入れ、保温にして、妻が出てくるのを待った。


 しばらくして、「あ~気持ち良かった」と言いながら妻がリビングに入ってきた。

 顔がピンク色になっていた。

 いつもと違うしなやかな生地のパジャマを着ていた。

 ちょっと艶めかしくてそそられたので、〈牛肉をしっかり食べて今夜は頑張ろう〉と勝手に気合を入れた。


 妻が席に着くのを待って、グラスにビールを注いで乾杯した。


「シャワーのあとは美味しいわ」


 何気ない一言だったが、チクリと心が痛んだ。

 今までこの美味しさを一人占めしていたことに気づいたからだ。

 シャワーのあとのビールの味は妻には遠い存在でしかなかった。


 今まで気づかなくてごめんね、


 心の中で手を合わせた。

 そして、これからはこの美味しさを毎日味あわせてあげたいと心底から思った。


 ホットプレートが熱くなったので、牛脂を投入して満遍なく塗るようにプレートの上を滑らせた。

 その上に牛肉を広げて乗せて、砂糖を少々振りかけて割り下を少し垂らした。

 そして、卵を付けずに食べるように妻に促した。

 すると、口に入れた妻がすぐに恵比寿さん顔になったので、わたしも続いて口に入れた。

 美味かった。

 頬が落ちるかと思うほど美味かったが、すき焼き奉行に休んでいる暇はなかった。

 続けて牛肉、そしてネギを入れて焼き、その上から砂糖をどっさりと入れて、割り下を流し込んだ。

 それから、残りの食材を入れたところで卵を溶くように妻に促した。


 あざやかな箸さばきで黄色が広がったのを見て、その中に牛肉を入れると、妻は卵にたっぷり絡めてから口に放り込んだ。

 すると、またもや恵比寿さん顔になった。

 さっきより目が細くなっていたので、満足度が上がったのがわかった。

 わたしもたまらず卵に絡めて牛肉を食べた。

 これもまた美味かった。

 至福という言葉が脳裏に浮かび、それからあとは牛肉と野菜を夢中になって食べ、ビールをガンガン飲んだ。

 妻もいつも以上にビールが進んでいるようだった。

 ガツガツ、ガンガンを繰り返してお腹いっぱいの夕食が終わった。


「今日はわたしが片づけるから」と言った瞬間、妻が目を丸くした。

〈どうしたの?〉というような表情になっていた。

 わたしは笑みを返してホットプレートと食器を台所に運び、さっと洗い物を済ませて、食器棚からワイングラスを二つ出した。

 そして、いつものチリ産赤ワインをそれぞれに注いだ。


「乾杯」


 グラスを合わせて口に含むと、甘い香りが鼻に抜けた。

 味はいつもよりまろやかに感じた。

 妻をもてなしたご褒美だろうか? 

 500円ワインが1,000円ワインに変身したような気がした。

 上機嫌になったので、本棚に隠してあった紙袋を持ってきて妻に手渡した。


「何?」


 不思議そうな表情を浮かべながら妻が受け取った。


「開けてみて」


 妻がセロテープを剥がして、紙袋から中身を取り出した。


「あらっ」


 ぱっと顔が輝き、表紙をまじまじと見た。

 そこには『南半球の旅』と書かれていた。

 オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、モルディブ、パラオ、バヌアツ、ニューカレドニアなどへの旅が紹介された旅行誌だった。


「ワ~、ステキ」


 ページをめくるたびに小さな歓声が上がった。


「この中に君が行きたいところはある?」


 夢中になってページをめくっていた妻が顔を上げた。


「私?」


「そう、君」


「あるけど……」


 また昨夜のような遠慮気味な口調になった。


「言ってみてよ」


「でも……」


 視線を本に落とした。


「君が行きたいところがわたしの行きたいところ」


 妻の背中を押すように敢えて強く言った。

 すると妻は〈ん?〉というような表情を浮かべたので、もう一押し必要だと感じて言葉を継いだ。


「わたしの卒業旅行は君の卒業旅行でもあると思うんだ。結婚以来二人三脚でやってきたから、出社最終日のあの日、二人一緒に卒業したと思うんだけど、違うかな」


 妻は何も言わずじっとわたしを見ていた。


「それに今までわたし優先で物事を決めてきたから、今度は君優先にしたいなって思ってね」


 妻の顔が少し歪んだ。


「無事サラリーマン生活を終えることができたのは君のお陰だからね」


 妻が視線を落とした。


「本当にありがたいと思ってる。だから」


 本の上に涙が落ちた。

 それを見てグッときた。

 それ以上言葉を継ぐことができなくなった。

 じっと見つめていると、妻の顔が揺れているように見えた。

 ヤバイと思った。

 まさか自分がウルウルするなんて信じられなかった。

 すぐさま顔を上に向けて立ち上がり、本棚に向かった。



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