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人生二毛作

 

 翌日、朝食を済ませたあと、パソコンに向かった。

 なんのイメージも湧いていなかったが、じっとしているわけにはいかなかった。

 締め切りまで残り1年を切っているのだ。

 初めて長編小説を書く身としてはのんびり構えているわけにはいかない。

 でも、何も思い浮かばなかった。

 画面には『エンタメ風ビジネス小説』と打ち込んだ文字だけが表示されていた。

 午前中は画面を睨んだだけで終わった。


 昼食後は作戦を変えた。

 実際に書くのではなく、スケジュールを考えることにした。

 〆切日から逆算して大まかな計画を立てるのだ。

 妻が買ってくれたノウハウ本を何回も読んで、推敲が重要ということを理解していたし、書き終わってすぐに推敲するのではなく、しばらく時間を置いた方が良いことも理解していたので、それを参考にすることにした。


 先ず、執筆期間の目安を年末に設定した。

 あと5か月強あるから無理なスケジュールではないと考えた。


 放置期間は1か月間とした。

 特に理由があるわけではないが、その位が丁度いいように感じたからだ。

 その間に別のことをして完全に小説のことを忘れるようにしようと考えた。


 その後、推敲を始めることになる。

 つまり、12月までに書き終えて、1月中は書いたことを忘れ、2月から推敲に取り掛かるのだ。

 これなら締め切りまで4か月ほどあるので、徹底的に加筆や削除、バグ退治ができるだろう。

 となれば、余裕をもって6月中には郵送できる。

 よし、決めた。

 取り敢えずこれでやってみよう、


 スケジュールが決まったので、小説の概要を考えた。

 どんなエンタメ風ビジネス小説にするのかという大枠を決めるのだ。

 それには主人公の職業を決めるのがいいように思えたので、色々な職業に思いを馳せた。

 警察官、弁護士、政治家、官僚、銀行員、証券マン、生保レディ、画家、作家、スポーツ選手、アナウンサー、コメンテイター、歌手、俳優、お笑い……、

 そして、次々に主人公のペルソナを固めながらプロローグを考えた。

 しかし、具体的に物語は動き出さなかった。

 どの職業も表面的には知っているが、深いところまでは知らないからだ。

 中途半端な知識や情報では物語は始まらないし、続かない。

 それに、なぞったような小説では一次選考さえも通らないだろう。

 そんなものを書いても仕方がない。

 この方法はやめることにした。

 といって、別の方法が思い浮かぶわけではなかった。

 1時間ほど考えたが何も出てこなかったので、〈下手の考え休むに似たり!〉とパソコンを閉じた。


        *


「どんな小説を書くか決めた?」


 その日の夕食後、500円のチリ産赤ワインを飲みながらチーズを食べている時、妻が突然訊いてきた。

 きちんと答えたかったが、頭を振るしかなかった。


「エンタメ風ビジネス小説にしようと思っているけど、具体的には何も思い浮かばない」


「そう……」


 それで会話は終わり、妻はリビングを出てドアを閉めた。

 多分シャワーを浴びるのだろう。

 わたしはボトルに手を伸ばして赤ワインを注ぎ足した。


 スワリングをして口に流し込むと、「どんな小説を書くか決めた?」という妻の声が蘇ってきた。

 そして、「そう……」というため息のような声も。


 そうなんだよね~、


 意味もない言葉が口を衝いたが、それさえも続かなかった。

 わかっているのだ、ペンネームとエンタメ風ビジネス小説とスケジュールを決めただけでは何も始められないことを。

 でも、きっかけがつかめないことにはどうしようもない。

 考えるのを止めて、気分転換をするためにテレビをつけた。

 すると、画面が立ち上がった瞬間、若い女性のやかましい声が耳に飛び込んできた。

 旅番組らしく、特大のサイコロを振って六が出たと大騒ぎしているようだった。

 すぐにテレビを切った。

 一転して部屋がシーンとなった。

 そのせいか、意識の中に小説が戻ってきてしまった。

 ワインもテレビも気分転換にならず、また囚われることになった。

 といっても、今日の今日、いい考えが浮かぶはずもなく、頭から小説を追い出すための最後の手段を取ることにした。

 音楽に身を任せるのだ。

 では何を聴こうか、と考えたが、今の気分に合う曲は何一つ思い浮かばなかった。

 それはそうだ、こんな中途半端な気分に合う曲があるはずがない。

 それでも音楽しか身を寄せるものがないので、本棚を開けてCDを収納しているコーナーから良さそうなものを探した。

 それでも、聴きたいと思うようなものは見つからなかった。

 どれもピンとこなかった。

 CDの背表紙に右手の人差し指を当てながら探していったが、指が止まることはなかった。


 ところが、一番端に指が辿り着いた時、目立たないグレーの背表紙から目が離せなくなった。

 そのタイトルがわたしを見つめているように感じたからだ。

『The Good Life』

 ドイツ出身のトランぺッター『ティル・ブローナー』が2016年に発表したアルバムだった。


 幸福な人生……、


 思わず呟いてそのCDを抜き出すと、髭を整えた精悍な男性がわたしを見つめていた。人生を問うような眼差しで。


 人生か……、


 呟いた途端、就職してからのことが走馬灯のように蘇ってきた。

 でも、それ以前のことは思い出さなかった。

 多分それは親の庇護のもとに生きた時間だからだろう。

 人生とは自らの意志で生きた期間であり、その意味では、自立してからのものだけがそれに当てはまるに違いないのだ。


 そんなことを考えながらCDをステレオにセットして、リモコンのスタートボタンを押すと、1曲目が始まった。

 タイトル曲だ。

 ミュートしたトランペットの音が聞こえてきて、すぐにドラムとベースとピアノの音が控え目に重なってきた。

 落ち着いた、ゆったりとした曲調が心地よくしみ込んでくると、またワインが飲みたくなった。


 一口含んで目を瞑り、口の中で噛むように味わうと、安いワインが上品な味に変わったような気がした。


 The Good Life……、


 頭の中で呟いて、ワインと共に飲み込んだ。


 豊かな人生か……、


 今度は口に出して呟いた。

 自分の人生が豊かかどうかはわからないが、結構波乱万丈だったことは間違いなかった。

 それに、色々なことを経験したことが豊かというなら、それも当てはまるかもしれない。

 サラリーマン生活の最後は嫌なことが多かったが、それでも、その期間に作家に挑戦する準備ができたし、今はなんのプレッシャーもなく充実した毎日を送れている。

 年金だけの生活だからリッチというのにはほど遠いが、決してプアーではない。

 そこそこ満足して毎日を過ごしている。


 人生……、


 もう一度呟いて気がついた。


 そうだ、人生だ。

 わたしが書きたいのはビジネスではなく、エンターテインメントでもなく、人生を書きたいのだ。


 すぐにメモを探して『人生小説』と書いた。

 すると、『人生二毛作』というタイトルが浮かんできた。

 それを書き加えて自室に急いだ。

 そして、パソコンを開いて打ち込んだ。


 ・第60回日本ビジネス小説大賞応募作品

 ・題名:人生二毛作

 ・筆名:三木幹


 1枚目が出来上がると、2枚目に『プロローグ』と打ち込んだ。

 すると、大学4年生の時のことが鮮明に蘇ってきた。

 指が自然に動き、物語が始まった。



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