ライヴハウス(2)
彼女にスポットライトが当たると、それを合図にしたようにピアノを弾き始め、響くような低音に連れられて歌が始まった。
『Every Time We Say Goodbye』
1930年代にコール・ポーターという傑出したコンポーザーが発表したバラード・ナンバー。
彼女はしっとりと、そして、艶やかに歌い上げる。
ピアノを弾く彼女の姿が美しい。
弾き語りがもう1曲続いた。
『Lush Life』
物憂げに、切なく、どこか自虐的に、彼女のハスキーな声がピアノと戯れる。
曲が終わった時、会場からはため息が漏れ、静かに始まった拍手が次第に大きくなっていった。
それに応えて彼女が椅子から立ち上がって軽く頭を下げると、サテンのロングドレスが眩く揺れた。
拍手が鳴りやむと、バンドのメンバーが登場した。
ギターとベースとドラム。
全員、名の知れた一流のジャズ・ミュージシャンだった。
彼らが彼女を一斉に見つめた時、彼女がウインクした。
「スウィングしましょう」
軽快な曲が始まった。
『IT`s Love』
恋する女性の気持ちを、その高鳴る胸の鼓動を、喜びに満ちた声で歌い上げる。
間奏のギター・ソロもピアノ・ソロもノリノリで、観客も体を揺らしている。
隣の妻も楽しそうに手拍子を打っている。
アップ・テンポの曲が3曲ほど続いたあと、彼女がバンドメンバーの紹介をすると、一人一人に大きな拍手が送られた。
それが静まると、「今度はちょっと怖いお話の曲よ」と眉を寄せて話し始めた。
「冬の朝、ある女性が道端で凍え死にそうになっている蛇を見つけたの。可愛そうに思った彼女は、自分の家に蛇を連れて帰ったの。すると、体が温まった蛇は元気になったの。そうしたら、そうしたら……、蛇は彼女に噛みついたの。助けてくれた彼女を噛んだの。何故だと思う?」
悪戯っぽい目を観客に向けた。
「蛇だからよ」
会場から笑いが漏れた。
と同時に、ベースが独特なリフを奏で始めた。
すると、ドラマーとギタリストが、ベースのリズムに合わせて指を鳴らし始めた。
ベースの演奏とフィンガースナップだけをバックに彼女が歌い始めた。
蛇を助けた、優しくて可哀そうな女性を憐れむように。
演奏が終わると、「『The Snake』でした。くれぐれも蛇には気をつけてね」とまた悪戯っぽく笑ったが、すぐにバックの三人に向き直って、「あなたたちは、ちょっと休んでてね」とウインクした。
彼らがステージをあとにすると、静かにピアノを弾き始めた。
『朝日のようにさわやかに』
1920年代に発表されたジャズのスタンダード・ナンバーを、意味深な表情でしっとりと歌い始めた。
恋の始まりと終わりを朝日と夕暮れに例えて。
もう1曲弾き語りをしたあと、バンドメンバーが戻ってきた。
「この曲は知っているでしょう」
わたしが待ち望んだ曲が始まった。
『The Look of Love』
アメリカが生んだ偉大な作曲家、バート・バカラックの代表曲。
彼は映画音楽を含めて数々の大ヒット曲を生み出し、アカデミー賞やグラミー賞を数多く受賞している。
この曲は、もともと『007』シリーズの主題歌に使われた曲で、日本でも大ヒットした。
邦題は『恋の面影』
愛しい恋人と一瞬でも離れたくない女性の想いを切なく甘くしっとりと歌い上げると、もうたまらなくなった。
あ~、なんて素敵なんだ……、
たまらず息を吐いてしまったが、それを妻は見逃さなかった。
思わずわたしはうつむいた。
「あ~、ジャズノート青山」
歌い終わった彼女は天井を見上げたまま、独り言のように呟いた。
「ここは、ジャズノート青山よね」
近くのギタリストに向かって、「私の頬をつねってみて」と左の頬を差し出す振りをした。
「やっと来ることができたわ」
吐息のような声が漏れた。
「私の親しいミュージシャンがみんな言うの。『ジャズノート青山は最高だぜ』って。『何が最高なの?』って訊いたら、『何が最高かって? すべてだよ、すべて。お客さんが最高、スタッフが最高、音響が最高、音響エンジニアが最高、それから、料理が最高、ワインも最高、つまり、すべて最高なのさ』って、みんながみんな言うのよ。でもね、私のスケジュールが空いている時はジャズノート青山には空きがない。ジャズノート青山に空きができた時は私がツアー中で忙しい。両想いなのに、すれ違ってばかりだったの。でもね、やっと夢が実現したの。ねえ、私の姿が見える? 私は幽霊なんかじゃないわ。だから、私の姿が見えるでしょ?」
すると、会場から大きな拍手が巻き起こった。
「My dream has Finally come true」
彼女が晴れやかな表情を浮かべると、温かい拍手が彼女を包み込んだ。
応えるように彼女は笑みを浮かべたが、しかしすぐに真剣な表情になって話し始めた。
「夢は、いつか叶います。諦めなければ、必ずいつか叶います。皆さんも自分の夢を絶対に諦めないでください」
そして一人一人をじっと見つめるように、会場をゆっくりと見回した。
「今夜最後の曲を、私の大好きな曲を、今日お集まりいただいた皆様のために、そして、世界最高のジャズ・クラブ『ジャズノート青山』のために歌います。『Dream』」
*
公演が終わり、ジャズノート青山から駅に向かって歩いている時だった。
突然、妻がわたしの手に触れた。
そして、優しく握られた。
妻は前を向いたまま、微かに笑みを浮かべているようだった。
しばらく歩くと、大きな交差点に差し掛かった。
信号待ちをしている間、目の前のブランドショップが集まるビルを見つめていると、突然、上空を光が走った。
流れ星だった。
間違いなく流れ星だった。
とっさにわたしは「ありがとう」と胸の内で呟いて、妻の手を握り返した。
心からの感謝を込めて。