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ライヴハウス(1)

 

「さあ、妻が待つところへ」


 気持ちを切り替えるためにわざと声に出した。

 なんか吹っ切れたような気がした。


 エレベーターに乗った。

 1階に着いた。

 出口のところで立ち止まって、振り返った。

 ビルは何も言わなかったが、わたしは頭を下げた。

 最後は嫌なことだらけだったが、このビルに責任があるわけではない。


 ありがとうございました。


 心の中で呟いて、傘を差し、ビルをあとにした。


 最寄り駅に向かって歩き始めると、妻の顔が浮かんできた。

 会社から卒業する日、その日は妻と食事をすることに決めていた。


 地下鉄に乗って、表参道駅に着くと、改札口で妻が待っていた。

 手を振ると、不思議そうな表情になった。

 花束も何も持っていないことに違和感を抱いたのだろうか? 

 そう考えると、一瞬たまらなくなったが、無理して口角を上げた。


「待った?」


「少しだけ」


 妻も無理したように笑みを浮かべた。

 二人して黙って階段を上った。


 地上に出ると、雨は上がっていた。


「涙雨は止んだみたいね」


 出社最終日の心情を(おもんばか)ったのか、目を細めて空を見上げた。


 骨董(こっとう)通りを南青山六丁目交差点方面へ向かって歩き始めた。

 この通りの沿道には古美術品店や民芸品店が数多く立ち並んでいるので、骨董通り、もしくは、アンティーク通り、とも呼ばれている。


 少し時間があったので、岡本太郎記念館や根津美術館の近くをのんびりと散歩した。

 それから緩い坂を少し上って、日本で最も有名なジャズ・クラブの前に立った。

 ジャズノート青山。

 木製の重い扉を開けると、下に降りる階段が見えた。

 暗い階段をゆっくり降りていくと、淡い照明に照らされたホールにたどり着いた。


「いらっしゃいませ」


 落ち着いた女性の声がわたしたちを迎えてくれた。

 ホールには、もうかなりの人が集まっていた。

 開場を待つ人たちの熱気でムンムンしていた。

 わたしは鞄をクロークに預けてからチェックインを済ませ、妻と共に壁際に立った。

 空いているソファがなかったので仕方なかったが、それでも、モニターに映るライヴビデオを見ていると、気分が盛り上がってきた。

 それは妻も同じようで、ワクワクしながら開場のアナウンスを待った。


 開場の時間になると、予約席の人が呼ばれ、それから、自由席の人が受付順に呼ばれる。

 わたしはいつもは安い自由席を予約するのだが、今日はペアシートを予約していた。

 特別な日だから、思い切って奮発したのだ。


 少し待ったあと、わたしの番号が呼ばれた。

 担当者に札を見せ、待合のホールから更に階段を下りていった。

 そう、ステージは地下2階にあるのだ。

 そこにチェックカウンターがあり、札を渡すと、係の人が予約席へと案内してくれた。

 ステージが正面に見える最高の席だった。


「本日は、ありがとうございます」


 一礼して、係の人が今日のメニューを説明し始めた。


「ディナーコースをご予約いただいております。アミューズ、前菜、メイン、デザートの順にお持ちいたします。お飲み物はお決まりですか?」


「シャンパンをハーフボトルでお願いします」


「かしこまりました。素敵な夜をお楽しみください」


 係の人は一礼して背を向けた。


「素敵なところね」


 初めてこの店に来た妻が店内を見渡した。


「雰囲気がいいだろう」


 わたしも見慣れた店内を見渡した。


「ジャズノート青山って、お店の名前に地名がついているということは、他にもお店があるの?」


「そうなんだ。本店はニューヨークにある」


「ニューヨーク? アメリカの?」


「そう。ジャズのメッカ、ニューヨークの老舗ジャズ・クラブが『ジャズノート』なんだ。そこは1981年の開業なんだけど、それから7年後にこの店がオープンしたんだ。だから、今年で30周年」


「へ~。ということは、このお店にとって記念の年なのね」


「そう。それに、わたしたち二人にとってもね」


 すると、〈そうね〉というように妻が笑った。


 学生時代の夢、レコード会社への就職は叶わなかったが、音楽への愛情は増していた。ロックからクロスオーヴァーへ、そして、フュージョンになり、今はスムーズジャズにハマっている。

 会社人生を全うすることができたのは、妻の支えに加えて、音楽の存在があったからだと思っている。

 特にこの店は、辛い時、投げやりになりそうな時、わたしに寄り添ってくれた。

 ライヴ終了後、この店を出る時は、いつも笑顔になれた。

 エネルギーを貰えた。

 退職する日にこの店を選んだのは、店への感謝の気持ちがあったからだ。


 シャンパンが運ばれてきた。

 ソムリエが栓を開け、グラスに注いでくれた。


「卒業おめでとうございます。乾杯!」


 妻の発声でグラスを合わせた。


「ありがとう。わたしの卒業式は君の卒業式でもあるよね。二人の卒業式に、もう一度乾杯!」


 シャンパンの繊細な香りとエレガントな泡が、口の中を、喉を、そして、心を満たしていった。


 アミューズが運ばれてきた。

 ウニのコンソメジュレ。

 シンプルなカクテルグラスの中でウニが光っていた。

 スプーンで口に運ぶと、幸せが口の中をいっぱいにしてから、溶けるように消えていった。


 前菜は2種類のテリーヌ。

 貝と野菜、そして、キノコ。

 貝と野菜のテリーヌは見た目が美しく、それだけで食欲をそそった。

 ホタテとハマグリが、赤パプリカやオクラ、ヤングコーンに挟まれて美しい層になっていた。

 ただただおいしかった。


 食べ終わってキノコのテリーヌに移った。


「何が入っているのかな?」


「シメジでしょ。エリンギでしょ。それから、マッシュルームと、これはマイタケ」


「これも、うまいね」


「本当。おいしい」


 妻が幸せそうな笑みを浮かべた。


 メインは肉料理なので、その料理に合う赤ワインをソムリエに選んでもらった。


 少ししてメインが運ばれてきた。

 鴨のオレンジソース:グラタン・ドフィノワ添え。

 脂がのった鴨肉がジューシーだ。

 添えられているオレンジが爽やかで、鴨肉と見事に調和している。


「グラタン・ドフィノワって何?」


「薄くスライスしたジャガイモのグラタンのことよ」


「な~んだ。じゃあ、ジャガイモのグラタンって言えばいいのに」


「……」


 デザートは2種類のシャーベット。

 レモンとマンゴーのシャーベットを前に、わたしは迷った。


「どっちから食べたらいい?」


「私はレモンから。甘酸っぱさが口の中を爽やかにしてくれそうだから。そのあとでマンゴーを食べると、甘みをしっかり感じて、口の中が満足すると思うの」


 ふ~ん、そうなんだ……、


 よくわからなかったが、妻に(なら)ってレモンから食べ始めることにした。

 これが大正解だった。

 マンゴーの甘みが最大限に引き出されて、思わずニンマリとしてしまった。


 デザートのあと、わたしはコーヒー、妻は紅茶を頼み、ほぼ飲み終わった頃、会場の灯りが暗くなった。

 と同時に、拍手が起こった。

 本日の主役が登場したのだ。

 世界的人気を誇るシンガー&ピアニストだった。



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