作家修業(3)
初めての習作の出来に満足して、定時で会社を出た。
みんなが働いている時にさっさと帰るのはちょっと気が引ける感じもするが、慣れっこになってくると、〈昼に飲むビール〉のような快感も味わえる。
〈やめられない、止まらない〉と言えばいいだろうか。
駅のホームに立つと、まだ人は少なく、乗り込んだ電車もそんなに混んでいなかった。
これも定時退社のご褒美だ。
しかし、頬を緩めてばかりいるわけにはいかない。
人物観察をしなければならない。
吊革に掴まりながら視覚と聴覚のスイッチをONにした。
すると、近くにいた若い男性と女性の話し声が聞こえてきた。
すぐに耳をそばだてた。
「やってられないよな、ノルマきつすぎだよ」
彼らは営業マンのようだった。
「ほんとにね。こんな製品、誰も買わないわよ」
どんな製品?
興味が湧いた。
「新製品と言ったって、前のと代わり映えしないしさ」
「そうよ。成分をちょっと変えただけだからね」
だんだん声が大きくなってきた。
「それに、値段高くない? このシャンプー」
「高機能ってPOP付けたってこれじゃあ誰も買わないよな」
「そうよ、売れっこないわよ、この××シャンプー」
えっ、製品名?
こんなところでそんなこと言っていいの?
耳と目を疑ったが、唖然とするわたしに気づかない彼らは尚も大きな声で話し続けた。
「社長がなんにもわかってないのよ。部長もへらへらしてるしさ」
「どん詰まりだよな。お先真っ暗」
「あ~あ、どっか、うちの会社買収してくれないかな~」
声を落とすことなくしゃべるので他の乗客も聞き耳を立て始めたようだった。
他人事ながらわたしは心配になった。
それだけでなく注意したくなった。
だから、気づかせようと思って咳払いをして、彼らを強く睨んだ。
しかし、彼らは二人だけの世界にどっぷりと入っているようで、まったく気づく様子がなかった。
「実はさ、昨日、経営企画室の同期に聞いたんだけどさ」
「何?」
「▢▢がうちの会社狙っているらしいよ」
「うっそー」
「今のうちに株買っておこうか」
「いいかも」
えっ、それってインサイダー情報じゃないの? ヤバイよ君たち、と思った瞬間、二人が掌編の主人公に見えてきた。
よし、二人に名前を付けて物語を紡いでいこう。
そうだな……、
男はインサイダー野郎だから〈因西太郎〉でどうだろう。
女は内部情報を悪用しようとしているから〈内部情子〉がいいかも知れない。
よし、そうしよう。
となればさっそく、想像、いや、空想かな、それとも妄想? まあ、なんでもいいや、彼らの行く末に思いを巡らせよう。
*
因西太郎は経営企画室の同期から聞いた機密情報に心を奪われていた。
▢▢が自社を狙っているというのだ。
それが事実なら株価が大きく跳ね上がるに違いない。
自社株で大儲けするチャンスだ。
千載一遇といってもいいほどの稀に見る好機だ。
しかし、自分名義で自社株を売買するわけにはいかない。
もろインサイダーで引っかかってしまう。
ではどうする?
無い知恵を絞り始めた。
そうだ、妻に売買させよう。
いや、ちょっと待て。
妻と自分は同じ苗字だ。
ばれる可能性が高い。
そうなったら大変なことになる。
他に何かないか?
そうだ、妻の親の名義で売買するのはどうだろう。
妻の旧姓はありふれた名字だし、気づかれることはないだろう。
よし、そうしよう。
いそいそと帰宅した因西は着替えを済ませたあと、妻に切り出した。
「ちょっといいかな」
「何?」
「お義父さんて、株やってた?」
「株?」
「そう、株の売買」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「そうね~、やってたような気もするけど……」
「そうか。実はね、うちの株上がりそうなんだ」
「会社の株?」
「そう。だから、お義父さんに頼めないかなって思って」
「なんで? 自分で買えばいいじゃないの」
「そうなんだけど、社員が会社の株を買うのは大変なんだよ。事前に書類を出して承認を得ないといけないし、買ったあとも書類を提出しなければいけない。めちゃくちゃ面倒なんだ」
「ふ~ん」
「で、ね、こっちでお金を出すから、売買してもらえないか、お義父さんに聞いてくれないかな」
「私が?」
「うん、頼むよ」
「う~ん、まあいいけど。でも、変なことになったら嫌よ。変なことにならないって約束して」
「大丈夫、大丈夫、何も問題ない。約束する」
「なら、いいけど……」
翌日実家を訪れた因西の妻は、父親に頼んで会社の株を1,000株買ってもらった。
その後、▢▢と夫の会社が資本・業務提携して、▢▢が筆頭株主になったことを妻は知ったが、新聞の株式欄を見て驚いた。
「あなた、凄いわよ、株が……」
なんと、ストップ高になっていた。
その後も上がり続け、1週間で60パーセントも上昇した。
50万円の投資が80万円になったのだ。
十分な利益が得られたし、これ以上は上がらないと見た因西は妻に頼んで義父に売却を依頼した。
その結果、税金として利益の2割を差し引かれたが、それでも24万円の儲けが出た。
「お義父さんへの御礼は儲けの三分の一でいいかな」
「8万円? すご~い。喜んでくれると思うわ。ちょっとした親孝行ができて良かった」
二人は無邪気に笑った。
一方、内部情子は親友を拝み倒していた。
「うちの株上がりそうなの。でも、お金なくて一人では買えないの。ねえ、二人でお金出し合ってうちの株買わない?」
しかし、親友は怪訝そうな表情になった。
「それって、まさかインサイダーじゃないでしょうね」
「ううん、違うの。ネットの株予想に『今年の有望株』としてうちの会社が取り上げられていたの。買うなら今がチャンスだって」
内部は嘘をついた。
「会社に申請書出したら承認が下りる間に株が上がるかも知れないでしょう。そうしたらチャンス逃しちゃうでしょう。だから、今すぐあなたに買って欲しいの」
そして、畳みかけるように言った。
「利益が出たら台湾に行こうよ。二人で食べ歩きしようよ」
すると、台湾という言葉に親友は食いついた。
その瞬間、インサイダーという疑念はどこかに飛んでいったようで、「いいわね。わかった。すぐに買い注文入れるわ」と笑みを浮かべた。
二人で25万円ずつ出し合って会社の株を1,000株買った1週間後、60パーセント値上がりしたところで売却した。
24万円の儲けが出た。
格安ツアーを利用して二人で台湾旅行するには十分すぎる金額だった。
内部は5日間の有給休暇を取り、親友と台湾へ旅立った。
因西が義父に8万円を渡し、妻と豪華なフレンチを楽しんでいた頃、そして、内部が台湾行きの飛行機ではしゃいでいた頃、会社の倫理監査室では、ある内部通報によってインサイダーに関する調査が始まっていた。
調査対象は経営企画室に在籍している男性社員だった。
因西と同期の男性社員。
彼は自分の父親に自社株の売買を頼んでいた。
それも、あろうことか、会社から父親に電話をかけて頼んでいたのだ。
彼は誰もいないことを確認して、男子トイレの個室で電話をした。
電話が終わるまで誰もトイレに来なかったので安心して仕事に戻ったが、その電話を聞いていた社員がいた。
女性社員だった。
彼女が用を済ませて洗浄ボタンを押そうとした時、男の声が聞こえてきた。
「だから~、とにかくうちの株を買ってくれればいいんだよ!」という話し声が。
そして、彼女が女子トイレを出た時、キョロキョロしながら足早に去っていく男性社員の後姿を見た。
見覚えのある社員だった。
経営企画室の男性社員は小声で話していたが、耳の遠い父親の反応に苛立ち、思わず大きな声を出してしまったのだ。
それを女性社員が耳にした。
彼は、男子トイレの個室と女子トイレの個室が隣接していることに気が回らなかった。
だから、女子トイレの利用者に聞かれているとは思いもしなかった。
総務部に所属していた彼女は迷った末に上司に相談した。
上司は即座に通報を勧めた。
しかし、彼女は躊躇った。
密告することに気が進まなかった。
すると上司は、「匿名でも大丈夫だから」と背中を押した。
それでも彼女は迷ったが、最終的に上司の説得を受け入れて倫理監査室に電話をかけた。
受けた倫理監査室は担当役員にすぐに報告すると共に、証券取引等監視委員会に調査を依頼した。
株の売買履歴を調査する中で、経営企画室の男性社員と同じ姓を見つけるのに時間はかからなかった。
そして、その人物が父親であることはすぐに判明した。
社員は逮捕されて取り調べを受けた。
気の小さい彼はあっさりとインサイダーの事実を認めただけでなく、営業部の因西太郎に話したことを白状した。
さっそく因西に関して捜査が開始されると、本人名義での売買は確認できなかったが、妻の旧姓名義での売買を確認した。
それが因西の義父であることはすぐに判明し、ただちに取り調べが始まった。
決定的な証拠を突き付けられた因西は自分の非を認めると共に、同じ営業部の内部情子に話したことを白状した。
しかし、内部姓での取引実態はなく、捜査は難航した。
証拠が見つからないまま捜査が打ち切られそうになり、それで終わるかと思われた時、女性捜査官が内部の有給休暇に目を付けた。
本人に問いただすと、台湾へ旅行に行ったことを白状した。
すぐに旅行会社へ問い合わせると、同行者がいることが判明した。
その同行者の名前が株式の売買者の名簿と合致した。
経営企画室の男性社員は懲戒解雇となった。
因西と内部にも厳しい処分が検討されていた。
三人に対する刑は確定していないが、法律では5年以下の懲役もしくは500万円以下の罰金と明記されている。
それを知った三人は真っ青になり、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やんだが、後の祭だった。
自業自得とはいえ、彼らは自らの将来をドブに捨てることになった。
*
三人称神視点で紡いで、『自業自得』とタイトルを付けた瞬間、電車が急ブレーキをかけた。
わたしは吊革に掴まっていたので大丈夫だったが、あのインサイダー男女は他の乗客にぶつかったあと、床に倒れ込んで無残な姿を晒していた。
男は膝を強く打ったようで思い切り顔をしかめていた。
女は肘をすりむいたようで、べそをかいていた。
しかし、周りの乗客は冷たい目で見ているだけで、手を貸そうとする人は誰もいなかった。
天罰だと思った。
秘密情報を世間に晒した罰が当たったのだ。
正に自業自得だった。
わたしは彼らから目を離して窓の外を見た。
*
最寄り駅で降りてバスに乗った。
降りたバス停から家までは早足で帰った。
『自業自得』を一刻も早くパソコンにインプットしたかった。
だから、家に帰って手洗いとうがいをすると、台所にいる妻に「夕食はあとで食べる」と告げた。
自分の部屋で一心不乱にキーボードを叩いた。
そして、完成させると印刷して、それを読み返した。
誤字脱字や表現のおかしなところをチェックして、またインプットし、それを何度か繰り返した。
お腹は鳴っていたが、そんなことは気にならなかった。
部屋から出てこないわたしを心配した妻は、大きなおにぎりを2個差し入れしてくれた。
それを頬張りながら深夜まで没頭した。
そして、二つ目の掌編習作を完成させた。
タイトルは『自業自得』改め『欲望の代償』とした。




