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オイルショック!

 

 大学4年生だった。

 就職活動の準備に追われていた。

 音楽を仕事にしたいと思っていたわたしはレコード会社への就職を目指していて、自分が発掘したミュージシャンを大スターにするという夢を持っていた。

 しかし、取り巻く環境は最悪だった。

 それはわたしだけではなく、就職活動をするすべての大学生、短大生、高校生にとっても同じだった。

 オイルショック! 

 それが、わたしたち就活生の環境を最悪にしていた正体だった。

 中東発の超ド級の爆弾が炸裂したのだ。

 その引き金は1973年10月に始まった第四次中東戦争だった。

 それを機にアラブ産油国が原油の減産と大幅値上げを行い、日本など石油を輸入している国々に深刻な影響を与えることになった。

 1974年になると、石油が入手困難になるという憶測の中でありとあらゆる製品の生産が停滞し、物不足が起こるという噂が広まった。

 中でも、紙不足になるというまことしやかな(・・・・・・・)噂が国民を生活防衛に走らせた。

 その結果、日本中のスーパーマーケットからティッシュが姿を消した。

 それに連動するように洗剤などの石油関連製品も売り切れが続出した。

 ほとんどの日用品は値段が上がり、テレビの画面には『狂乱物価』という文字が躍った。

 2月の消費者物価は前年比26パーセント上昇という酷いものだった。

 国民は右往左往し、日本中がパニックに陥った。


 ティッシュや洗剤を入手するため、わたしは家族と共に何度もスーパーマーケットの行列に並んだ。

 それは他の人たちも同じで、ティッシュと洗剤を求める長蛇の列が連日続いた。

 対してスーパーの店員は「同じ人が何度も並ばないようにお願いします。本当に必要な分だけお買い求めください」と声を枯らして叫び続けていたし、店の入り口には目立つ大文字で『ティッシュと洗剤はお一人様一個でお願いします!』と書かれた紙が張り出されていたが、ほとんどの人は生活防衛のために必要以上のティッシュと洗剤を買っていた。

 だから、いつまでたっても品不足は解消されなかった。


 オイルショックは国の経済活動と企業業績の両方を直撃した。

 石油を筆頭に輸入原料が大幅に値上がりし、インフレや貿易収支の急速な悪化という経済的ダメージを与えた。

 日本は戦後初のマイナス成長に陥った。


 1975年になってもオイルショックの後遺症は色濃く残っていた。

 そんな中での就職活動だった。

 厳しいと覚悟はしていた。

 しかし、厳しいどころではなかった。

 東京に本社のあるすべてのレコード会社を受験するつもりだったが、門戸を開いている会社はほとんどなかった。

 問い合わせても、「今年度の新卒採用予定はありません」という回答しか返ってこなかった。


 そんな厳しい状況であったが、若干名募集しているレコード会社が1社だけ見つかった。

 知名度の低い新興の会社だったが、(わら)にも(すが)る思いで応募した。


 だが、惨めな結果で終わった。

 書類選考で()ねられたのだ。

 レコード会社志望の大学生が殺到する中で、音楽業界でのアルバイト経験もなく、コネもないわたしにチャンスが訪れるわけがなかった。


 なんでバイトすることを思いつかなかったんだ……、


 自分の甘さに気づいて愕然とすると共に、物事について深く考え行動してこなかった大学4年間を悔やんだ。


 夢が断たれたショックは大きかった。

 落ち込むだけでなく、絶望が襲ってきた。

 目の前には暗闇しかなかった。

 悪いことばかり考えるようになり、夜も眠れなくなった。

 それでも、時間の余裕はなかった。

 将来の進路を早急に決めなければならないのだ。

 就職浪人をして来年もう一度挑戦するか、それとも、レコード会社を諦めて他の業種に就くか、どちらかを決めなければならなかった。


 本音を言えば、就職浪人を選択したかった。

 夢を諦めたくはなかった。

 しかし、そんな甘いことを言える状況ではなかった。

「1年間就職浪人させて下さい」なんて親に言えるはずがなかった。

 オイルショックの影響で父の給料が減っているようだし、来年は妹の大学受験が控えている。

 経済的に厳しいことがわかっているのに、これ以上負担をかけるわけにはいかなかった。


 なんとかしなくては……、


 ふらふらしながら立ち上がり、バスと電車を乗り継いで大学へ向かった。


        *


 就職課で女性職員に事情を説明すると、大学に求人が来ていた会社のうち9割で募集が終わっていると言われた。

 残っている求人票を見せてもらったが、知らない会社ばかりだった。

 それでもなんとか良さそうなところを探そうとしたが、入りたいと思うようなところは見つからなかった。

 落ち込んでいると、「ちょっと待っててね」と言って奥の席に座る男性のところへ行った。

 何やら相談しているようだったが、しばらくしてその男性がわたしの前に座った。

 係長だと言った。

 改めて事情を説明すると、表情が険しくなった。


「今頃なに言ってるの。レコード会社しか頭になかったって?」


 いきなり語気強く責められた。


「みんな必死でやってるんだよ。どこでもいいから受けられるところは全部受けているんだよ。この業界に行きたい、この会社に入りたいなんて、そんな甘いことを言ってる場合じゃないだろう!」


 言葉のゲンコツが飛んできた。


「すみません」


 蚊の泣くような声しか出せなかった。

 自分の馬鹿さ加減に打ちのめされてうつむくしかなかった。

 しかし、そんな様子を可愛そうに思ったのか、〈んん〉と喉を鳴らしたあと、「東京で仕事がしたいんだね」と投げやりな口調で救いの手を差し伸べてきた。

 反射的に顔が上がった。

「はい。できれば」と(すが)ると、「探しておくから、明日来なさい」とぶっきらぼうな声を残して席を立った。


        *


 わたしは重い心を引きずりながら家路についた。

 その日の夕食は大好物のハンバーグだったが、なんの味もしなかった。


 その夜は悪夢にうなされ続けた。

 どこにも就職できず、収入はなく、何日も食事が摂れず、遂には飢え死にするという夢だった。

 うなされて目覚めた時、下着とパジャマがびっしょりと濡れていた。

 なんとか体を起こして、シャワーを浴びたが、そのあとは何をする気も起らず部屋でボーっとしていた。


 時間になったので、朝食も摂らずに家を出た。

 大学へ向かう足取りは重かった。

 でも、心はもっと重かった。


 就職課で用件を告げると、5分ほど待たされてから係長が目の前に座った。

 厳しい表情だった。


「東京に本社のある会社は、もう残っていない」


 冷たい言い方だった。

 わたしはうな垂れた。

 自分の甘さが招いたこととはいえ、思い切り落ち込んだ。

 何か言おうとしたが、声を出せなかった。

 もちろんそれで終わりにするわけにはいかないので、どこでもいいから紹介してくださいと頼むべきなのだが、その言葉が出てこなかった。

 頭がボーっとして、(かすみ)がかかったようになっていた。


「ただ、」


 声に反応して顔を上げると、係長は手元の書類をこちらに向けた。


「大阪に本社がある食品メーカーの東京支社で二次募集が来ている。営業職が若干名。東京での営業力強化のためと記載されている」


「えっ、本当ですか⁉」


 信じられない思いで係長を見つめたが、すぐに我に返って、「是非紹介してください。お願いします」と頭を下げた。

 これを逃せば次のチャンスが無いことは明白なので必死だった。

 それが通じたのか、「わかった」とだけ言って係長は席を立った。

 その後姿には〈次はないぞ〉という文字が浮かび上がっているように見えた。

 〈ラストチャンス〉という文字も見えたような気がした。


        *


 幸運なことに書類選考を通過し、一次面接の通知が届いた。

 わたしは小躍りして、その通知を何度も穴が開くほど読み返した。

 すると、強い決意が体の奥底から湧いてきて、居ても立っても居られなくなった。


 行きつけの床屋へ急いで行って、その決意を店主に伝えると、店主は「本当にいいんだね」と確認した。

 わたしが大きく頷くと、店主が持つハサミが、肩まであった長髪をバッサリと切った。

 その瞬間、髪と共にレコード会社への未練が床に落ちたような気がした。


 店主がバリカンに持ち替えた。

 あっという間に丸坊主になった。

 中学生以来だった。



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