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挫折(3)

 

 家に帰って妻に伝えた。

 その瞬間、妻が気色ばんだ。


「余りにも酷い」と声を荒げた。


「辞めたら」


 直球だった。


「こっちから三下り半を突きつけたらいいのよ」


 怒りが収まらないようだった。


「あなたがどれだけ会社のために尽くしてきたか……」


 感情が高ぶり過ぎたのか、声が揺れた。


「本当に酷い……」


 涙声になった。


「神も仏もないのね……」


 やりきれないというように何度も首を横に振った。


 わたしは黙って頷くことしかできなかった。

 常務や人事部長に対して感情をぶつけないように抑制してきたわたしは、妻の前でも感情を抑えていた。

 そうしないとおかしくなりそうだったからだ。

 だから、自分に代わって感情をぶつけてくれる妻を有難いと思ったが、一緒になって怒りを爆発させることはできなかった。


「悔しかったでしょうね」


 心情を汲み取るような悲痛な声を出した妻は、目に涙をいっぱい貯めてわたしを見つめた。

 わたしはなんとか声を出そうとしたが、喉の奥で、〈うう〉と唸るしかできなかった。


「いいのよ」


 両方の人差し指で涙を拭った妻が無理矢理声を絞り出した。


「辞めてもいいのよ」


 無理して続ける必要はないというような、背中を押すような口調だった。


「転職が嫌なら働かなくてもいいのよ」


 もう十分頑張ったんだから無理をしないでね、というようなニュアンスを感じた。


「今度は私が働いて食べさせてあげる」


 わたしの手に妻の手が重なった。


「あなたの好きなようにしてください。後悔しないように」


 わたしの手をぎゅっと握った。


「なんとでもなるわよ、なんとでも」


        *


 その晩は興奮して中々眠れなかった。

 妻の前で冷静を装っていたが、それが良くなかったらしく、反動が起こったようだった。

 眠れないだけでなく、ムカムカが止まらなかった。

 常務に辞表を叩きつけるシーンを想像しては、そんなものでは物足りないと、もっと激しい行動を思い浮かべた。

 しかし、エスカレートしていくと、最後は常務を殴ることしか考えられなくなったので、そこで止めた。

 一時の感情に任せて相手を成敗(せいばい)してもその時限りだからだ。

 それに、暴力は自分に跳ね返ってくる。

 最悪の場合、懲戒免職だってあり得るのだ。


 冷静になれ、と自らに言い聞かせた。

 そして、怒りを単にぶつけることではなく、相手が嫌がることは何かと考えることにした。

 啖呵を切って辞めるということは、一時的に気持ちがいいかもしれないが、それは、奴らの思う壺にはまることになる。

 術中にはまるということだ。

 罠にかかるということだ。

 それは不本意でしかない。

 そんなことは絶対にしたくない。


 ではどうする? 

 針のむしろを覚悟して会社に居続けるか? 

 これから5年間、ろくな仕事を与えられないまま、しらっと不要族を続けるか?


 いや、それも本意ではない。

 真っ当な生き方をしてきた自分が選択するようなことではない。


 ではどうする?


 そこで止まってしまった。

 奴らの思い通りにはなりたくないが、自分を曲げるのも嫌だった。

 コンフリクト(相反)を解決するのは簡単ではないのだ。

 すぐに答えが出るような問題ではない。

 考えるのを諦めると急に空しくなったが、それを埋めるように新たな問いが生まれてきた。


 これから先、自分は何をやりたいのか? 


 この問いに答えを出さない限り、コンフリクトは解消できない。

 しかし、考える時間は限られていた。

 人事部長へ返事をするのをいつまでも延ばすわけにはいかないのだ。

 書類の提出期限は刻々と迫っている。

 それでも、本当にやりたいことはなんなのか、容易には思い浮かばなかった。


 行き詰って、問いを変えた。


 今まで楽しかったことはなんだったか?


 答えはすぐに見つかった。

〈新しいことを考えて、それに挑戦して、新たな価値を創造すること〉だ。

 契約社員の待遇改善や正社員登用、日報のイントラネットシステム、おでんカレー、ネット通販への挑戦など、会社初のことを次々にやって結果を出してきた。


 では、その中で一番楽しかったことはなんだったか?


 この答えは難しかった。

 それぞれに楽しかったからだ。

 どれが一番と言われても、一つを選ぶのは簡単ではない。


 では、最近、最もやりがいを感じたのはなんだったか?


 これもすぐには答えが出なかった。


 しかし、考えるうちに予想外のことが思い浮かんだ。

 それは、『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』だった。



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