メールマガジン(1)
「支社長にもお願いしたいのですが」
乾の突然の提案だった。
「私のメルマガはどうしても暗い内容になりがちです。悩み、不安、不満、愚痴、怒りに関するものが多いので仕方ないのですが」
だから、わたしにエッセイを書いて欲しいと言うのだ。
「ご挨拶ではなく支社長の想いを書いていただきたいのです。どの会社でも社長や通販の担当役員の挨拶文をホームページに載せていますが、型通りの挨拶文なので、その方たちの想いを感じることはありません。ですから、支社長の熱い想いを語っていただければ他社との差別化につながると思うのです」
乾が真剣な表情で迫ってきた。
「私は支社長の仕事に対する真摯な姿勢が大好きです。お客様や社員を想う気持ちが大好きです。そんな支社長のありのままの日常を発信していただけないでしょうか」
鋭い視線がわたしを捉えて離さなかったが、そんなことを急に言われても返事のしようがなかった。
「ちょっと考えさせてくれるかな」
具体的なイメージがわかないわたしは、前向きとはほど遠い口調で返事をするしかなかった。
*
う~ん、
帰宅したわたしはパソコンの前で頭を抱えていた。
夕食を済ませたあと、自分の部屋に閉じこもって1時間近くになるが、1行も、いや、1文字も入力できていなかった。
ありのままの日常を、熱い想いを、と語った乾の顔が頭に浮かんだが、エッセイなど一度も書いたことがないわたしには何を書いたらいいのかさっぱりわからなかった。
どうしろというのだ、
乾の無茶振りに顔をしかめるしかなかったが、それでもそれから1時間、パソコンの画面を睨み続けた。
*
「おはようございます」
翌朝、明るい表情の乾がわたしの出社を待っていた。
それだけでなく、席に着くとこちらにツツっと寄ってきて、「タイトルを考えてきました」と微笑んだ。
「タイトル?」
「そうです。支社長のエッセイのタイトルです」
「えっ、まだ、するともなんとも言ってないけど」
しかし、それが聞こえていないかのように机の上にA4の紙を置いた。
そこには『支社長の喜怒哀楽日記』と書いてあった。
「タイトルが決まると具体的なイメージが湧きやすいかなって思ったのですが、どうでしょう」
顔を覗き込むように見つめられたが、反応する前に「詳しいことはメールに書きましたのでご覧になってください。楽しみにお待ちしております」と笑って、踵を返した。
*
う~ん……、
今夜もわたしはパソコンの前で頭を抱えていた。
昨日と違って『支社長の喜怒哀楽日記』という文字が画面に表示されていたが、といって何かが浮かんでくるわけではなかった。
タイトルが決まればすぐに言葉が湧き出してくるわけはないのだ。
何か手掛かりが欲しかったので、〈日記〉という文字から連想することを思い描いたが、小学1年生の域を抜けなかった。
〈朝ご飯を食べて、会社へ行って、仕事をして、昼ご飯を食べて、仕事が終わったら家に帰って、風呂に入って、晩ご飯を食べて、寝ました〉ではエッセイにはならない。
止めた。
日記という文字からの連想では無理だ。
しかし、そこで諦めるわけにはいかないので、〈喜怒哀楽〉という文字からの連想を試みた。
すると、今日一日の出来事が浮かんできた。
午前中、取引先から嬉しい電話をいただいた。
担当する営業マンの丁寧な対応に感激したと言っていただいた。
社員が褒められると本当に嬉しい。これは〈喜〉
では〈怒〉は? と考えると、午後の会議のことが思い浮かんできた。
居眠りしている社員をみんなの前で叱ってしまったのだが、場所を移して1対1で叱った方がよかったかもしれない。
反省も込めて、これは自分に対する〈怒〉
それから……、
そうだ、昼過ぎに悲しい報告を受けた。
闘病中だった社員の父親の容態が急変して、突然亡くなられたという。
打ちひしがれた社員に掛ける言葉が見つからなかった。
切なくなって胸が詰まった。
これは〈哀〉
それと……、
そうそう、異業種交流会の事務局から次回の合宿が和歌山県になったと連絡があった。
和歌山県はまだ一度も行ったことがないので楽しみだ。
これは〈楽〉
こうして考えると、一日の中に喜怒哀楽が結構あることに気がついた。
しかし、こんなレベルの話をメルマガで発信するわけにはいかない。
発信するからには自己中心的な喜怒哀楽ではなく、読者の共感を得られる喜怒哀楽でなくてはならない。
それには練習が必要だ。
最初はレベルの低いものになるかもしれないが、毎日入力していけば上達していくに違いない。
そう思うと少し心が軽くなったので、「明日からよろしくね」とパソコンに呟いて画面を閉じた。
*
翌朝出社すると、またも乾が待ち構えていた。
とっさにわたしは身構えた。
今度は何を要求してくるのかと思うと、心拍数が上がったような気がした。
しかし、恐れていたこととは違っていた。
彼女は開口一番「私をリトマス試験紙にしてください」と言ったのだ。
なんのことかわからなかったので、「どういうこと?」と聞くと、「私が反応したら、それは共感を生んだということで」と悪戯っぽく笑った。
なるほど、それでリトマス試験紙か……、うまいこと言うな、
彼女の表現力に舌を巻いたが、〈その十分の一でもわたしに表現力があったら〉と思うと、胃の中から苦いものがこみ上げてきたような感じがした。
しかし、羨ましがっている場合でも卑下している場合でもないので、「わかった。毎日送信するよ。でも、絶対笑わないでくれよ」と返すと、彼女は〈もちろんです〉というように頷いた。
*
その日から毎晩、自宅で一日を振り返って、『支社長の喜怒哀楽日記』を入力した。
うまい文章が浮かんだ時もそうでない時もあったが、乾が〈笑わない〉と約束してくれていたので、どういうレベルであっても必ず彼女に送信した。
その度に返信を待った。
乾のリトマス試験紙が反応すればニコチャンマークが返信されることになっているので、期待して待った。
しかし、その週に返信は一度もなかった。
その後も乾のリトマス試験紙はなんの反応も示さないまま時間だけが過ぎていった。
やっぱり無理だよな……、
自分に文才がないのはわかっていたので、あと1週間やってダメだったらギブアップしようと決めた。
月曜日……返信なし。
火曜日……今日も返信なし。
水曜日……やっぱり返信なし。
木曜日……またしても返信なし。
そして遂に自ら期限を決めた入力の最終夜がやってきた。
明日、返信がなければギブアップするしかない。
でも、それは仕方がない。
ダメなものをいつまでも続けるわけにはいかない。
ずるずると引き延ばすのが一番よくないのだ。
スパッと諦めて気持ちを切り替えることが大事なのだ。
そう思ってパソコンの前に座ったが、何故か、ほっとするというよりもモヤモヤしてきた。
これは意外だった。
夕食後から寝るまでの間、束縛されていた状態から解放されるというのに、嬉しいという感情がまったく湧いてこなかった。
どうしてかわからないが、このまま終わってしまったら心の中が空っぽになってしまうような気がした。
だからか、〈今夜で終わりにしてはいけない〉という言葉が突然脳の奥から発せられたような気がした。
すると、今までのような表面的なことではなく、もっと内面的な、なんというか、本質的な事を書きたいという欲望が急に湧いてきた。
わたしは姿勢を正してパソコンに向き直り、画面を睨みつけた。
しかし、指はキーボードの上で固まったままだった。
気合だけではどうにもならなかった。
そのうち昼間の疲れからか、眠気が気力を上回るようになった。
睡魔に抱かれるのに時間はかからなかった。
*
ハッと気づくと、1時になっていた。
2時間近くも眠っていたことになる。
ヤバイ!
顔を洗って、机に向かい直し、うっかり寝をする前に考えていたことを思い出した。
〈表面的なことではなく本質的な事〉
でも、漠然としていて具体性が欠けているように思えたし、難しく考えすぎているようにも思えた。
では、なんだ?
考えても何も出てこなかったが、何故かふと、喜怒哀楽という言葉に縛られているような感じがした。
そのうち、〈もっと気楽にやった方がいいのではないだろうか〉という思いが強くなっていって、喜怒哀楽に代わる言葉を考え始めた。
すると、すぐに二つほど浮かんできた。
『支社長通信:日常あるある』
『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』
あとは……、
『支社長の独り言:ムニュムニュ』
これはちょっと砕けすぎのような気がしたので、前の二つを見比べて、『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』に決めた。
その途端、昨日、会社で話題になっていたことが浮かんできた。
それは食品廃棄に関する新聞記事で、年間600万トン以上の食品ロスがあるというものだった。
これがいいかもしれない、
そう思うと、指が勝手に動いた。
どんどんどんどん入力が進んだ。
まるで誰かに操られているように淀みなく打ち続けた。
*
入力を終えたのは、4時30分だった。
椅子に座ったまま大きく背伸びをすると、大あくびが立て続けに出た。
ほんの少しでも寝た方がいいとは思ったが、頭が興奮状態で目に気合が入っている状態では無理だと思った。
立ち上がってカーテンを開けると、空が白み始めていた。
散歩でもするか、
妻を起こさないようにそっと家を出ると、ひんやりとした空気が気持ち良かった。
朝食まで時間があるので少し遠くまで足を延ばそうと川沿いの遊歩道に向かった。
鳥たちが囀る中歩いていると、いきなり川面が光った。
小さな魚が身を翻していた。
〈朝から元気だね〉と胸のうちで声をかけると、また水面から姿を現した。
それを見ているとパワーをもらったような気になった。
〈わたしも頑張ろう〉と気合を入れた。
少し歩くと、ランニングしている人とすれ違った。
その瞬間、「おはようございます」と声をかけられた。
とっさのことで声が出なかったが、軽く会釈した動作は気づいてくれたと思う。
次誰かとすれ違ったら、こちらから「おはようございます」と挨拶しよう。
そう思うと、何か幸せな気持ちになった。
朝の散歩っていいな、
爽やかな気持ちで自宅へ戻った。