ネット通販(2)
支社に帰ってすぐに準備を始めた。
先ずやったことはプロジェクトの命名だった。
新たな挑戦を始めるためには強い想いを込めることが重要だからだ。
考えた末に、『精米発酵プロジェクト』と名付けた。
いつか本格醸造に移行して見せる、そんな決意を込めていた。
だから、テスト・マーケティングで終わらせるつもりは最初から無かった。
本格的なネット通販の展開を狙っていた。
しかし、準備にかかるといっても実務の経験も運営するための知識も無いので、ネット通販に詳しい専門家に相談する必要があった。
知り合いの広告代理店の社員に話を持ち掛けると、社内の専門家を紹介してくれることになった。
*
1週間後、専門家と面会した。
彼は挨拶もそこそこに重要なポイントを指摘した。
「先ず、ネット通販の準備に専念できる社員の確保が必要です。支社長が片手間で出来るほど簡単ではありません。次に、低コストで始めること。試行錯誤の段階でお金をかけてはいけません」
揺るぎない口調に専門家としての自負が現れていた。
わたしはすぐさま、『専任者の採用』と『低コストでのスタート』という二つのキーワードを頭に叩き込んだ。
さっそく人材紹介会社に依頼して専任者を探してもらった。
条件として、ネット通販の実務経験者であること、女性であること、食品事業に関心があること、の三つを提示した。
しばらくして5人の候補者を紹介されたが、どの人も興味深い経歴を有していた。
化粧品会社で美容ドリンクを担当している人、総合酒類メーカーで栄養補助食品を担当している人、健康食品会社で新規事業を担当している人などで、全員が3年以上のネット通販経験者だった。
面接した結果、これだと思う人が一人いた。
乾百合。34歳。
健康食品会社に転職する前にドラッグストアの店舗で5年間の接客経験があった。
そして何より栄養士の資格を有しており、〈お客様の健康に貢献し、生き生きとした毎日を実現する〉という高い志を持っていた。
「ただ単に商品を売るのではなく、お客様の笑顔につながる仕事がしたいのです」
彼女の強い意志がわたしの心を射抜いた。
しかも、ほかの候補者と比較する必要がないくらい群を抜いており、彼女の語る一つ一つの言葉がすべて的確で、揺るぎがなかった。
彼女ならやってくれると確信したので、その日のうちに採用を決めた。
そして、彼女の出社を待ってテスト・マーケティングの準備に入った。
*
先ず、広告代理店傘下のネット通販請負会社と契約した。
低コストでテスト・マーケティングを引き受けてもらうためだ。
次に、販売品目の検討に入った。
〈何を売るか〉を決めなければ始まらない。
ただ、これには制約があった。
スーパーマーケットで売っている既存品と同じ物は売れないからだ。
もしスーパーのバイヤーに気づかれたら大変なことになる。
ネット通販専売品を何にするかということは極めて重要な問題なのだ。
しかし、簡単ではなかった。
ネット専売にできる製品が見つからないのだ。
小売店とバッティングしない製品は皆無だった。
困り果てて研究所にいる友人に新規開発品目の問い合わせをしてみたが、部外秘なので話せないと断られて、八方塞がりになった。
そんな中、乾が提案を持ってきた。
「『百貨店専売の歳暮用プレミアムおでんセット』はどうでしょうか? お歳暮の時期限定だったものを通年商品としてネットで販売するのです」
覗き込むようにして見つめられたが、首を捻るしかなかった。
歳暮用のおでんは冬だから売れるのだ。通年にしたら、特に夏場についてはまったく売り上げが見込めないだろう。
それを伝えても、懸念を示しても乾が怯むことはなく、意外なことを口にした。
「夏場は冷製おでんとして訴求したらどうでしょうか?」
食欲が減退する夏場はどうしてもソーメンやざるそばのようなもので済ますことが多くなるが、それだと栄養バランスが悪くなる。だからこそ、栄養バランスに優れた特製おでんにチャンスがあるというのだ。
「例えば、『がんもどき』は食物繊維やミネラル分が含まれていますし、『はんぺん』はタンパク質含有で低脂肪かつ柔らかくて食べやすいことを訴求できます。『さつま揚げ』はタンパク質含有で消化しやすい食材ですし、『つみれ』はイワシやアジなどの青魚が主な原料なのでEPAやDHAなどの海からの贈り物が含まれています。食物繊維やミネラル分含有の『昆布』や、お腹の中を掃除すると言われる水溶性の食物繊維含有の『こんにゃく』も夏場に食べていただきたい食材です。食品表示法上言えることと言えないことがありますが、ルールの範囲内でも十分に訴求できると思います。そして、」
おでんには緑黄色野菜を入れることが少ないので副菜として『青菜のおひたし』を、デザートにはビタミンCが豊富な『いちご』『キウイ』『みかん』など季節の果物を食べることを推奨したいという。
自社製品をいかに売るか、ではなく、消費者の健康を前面に打ち出したものにしたいというのだ。
それを聞いて感心した。
彼女の言うことはもっともなことだった。
さすが、栄養士だと思った。
それでも、価格というネックがクリアできるとは思えなかった。
歳暮用のプレミアムセットは3,000円と高額だ。
これを日常の食材として買う人がいるのだろうか?
わたしはまたも首を捻ったが、これに対しても平然とした声が返ってきた。
「30代以上の共働きをしている女性なら可能性があると思います」
価格というネックは打破できるという。
「30代以上の共働き家庭の女性は、ダブルインカム、つまり、夫と二人分の収入があってお金に余裕があります。でも、時間がありません。仕事に、家事に、育児にと、本当に忙しいのです。そんな状態の中で、家族の健康に注意を払わなければなりません。とてもじっくり考えている暇はないのです。ですので、多少高くても、納得さえすれば購入していただけると思います」
と言われても即座に納得はできなかった。
〈そうかな?〉とすぐに疑問が浮かんだ。
腑に落ちる説明だとは思わなかった。
いくらダブルインカムといっても3,000円を日常使いにすることは難しいのではないだろうか。
そのことを指摘すると、きちんとした理由が返ってきた。
「健康だけではありません。美容に関してもニーズがあります。ターゲットとなる彼女たちは外で勝負をしている女性ですから、若さを保ちたいという思いがとても強いのです。言い換えると、加齢による肌の変化に怯えているとも言えます。ですので、美容への関心がどんどん高まっているのです。それは年齢を重ねるほどに顕著になっていきます。ですから、そこにチャンスがあるのです。ご存じだと思いますが、いま内外美容ということが盛んに言われています。表面的な化粧だけでなく、食品を摂取することによる美容効果にも注目が集まっているのです。このプレミアムセットに入っている具材は厳選した特別なものばかりです。一つ一つに強力な訴求力があります。そこを徹底的にプッシュしていくのです」
なるほどね、健康に加えて美容か……、
わたしは昨日の新聞の記事を思い出した。
高額商品の売れ行きに関する記事だった。
1万円を超える美容液が飛ぶように売れているし、5,000円を超える健康食品の売り上げもうなぎ上りだと書いてあった。
健康と美容には金に糸目をつけないか……、だとしたら、
わたしは乾の提案を真剣に考えてもいいと思うようになった。
それでも、もう一つクリアしなければならない問題があった。
バイヤーの反応だ。
「スーパーマーケットで売っている商品とは違うので問題はないと思うが、もしバイヤーが知った時には、どんな反応があるのか、予め想定しておかなければならないね」
「そうですね。私もそう思います。自分がバイヤーの立場だったら……」
そこで考え込むように顎に手を当てて視線を落としたが、少しの間ののち、〈うん〉というふうに頷いて言葉を継いだ。
「店頭とまったく同じものを通販で売られたら怒るかもしれませんが、商品もターゲットも違うものを通販で売られても、文句を言うのは難しいのではないでしょうか」
確かに、言われてみればその通りで、自社の店頭と競合しない商品をメーカーに売るなと言う権利はバイヤーにはないはずだし、万が一クレームをつけられてもきちんと説明すれば理解いただけるだろう。
なんら問題なさそうだ。
「では、百貨店のバイヤーはどうかな? 歳暮限定品として扱っていただいている商品をメーカーが通販で通年販売するとなると」
しかし、最後まで言う前に答えが返ってきた。
「まったく同じものだとトラブルになる可能性が高いと思います。でも、ネーミングと包装、そしてJANコードを変えれば、そんな心配は無くなるのではないでしょうか。一物二名称というのはどの業界でもやっていることですし、いちいちクレームをつける人はいないと思います」
これも言われてみればその通りだった。
わたしはどうも取り越し苦労が過ぎるようだ。
とにかく、彼女の言うことにはすべて納得できたし、大きな問題は見当たらないようなので、ネット通販請負会社の担当者と共に検討を開始することをその場で決めた。
そして、来週の早い時期に会議を設定するよう指示を出した。
*
1週間後、担当者を交えてミーティングを行った。
彼は食品や化粧品といった健康や美容に関する業界に精通しており、幾つもの新製品の立ち上げで成功を収めていた。
わたしがネット通販への参入理由を説明したあと、乾が『百貨店専売の歳暮用プレミアムおでんセット』の概要と選んだ理由を説明すると、彼は意外なほどあっさりと賛意を示した。というより極めて前向きだった。
「いいと思います。健康と美容というのは旬のテーマですし、価格もスーパーに並んでいる商品とはまったく違いますので、却ってインパクトがあると思います」
それを聞いて胸を撫で下ろした。
その道のプロからお墨付きを得たのだから自信を持って前に進めることができる。
〈百人力〉という言葉が心の中で踊った。
但し、担当役員である常務の了解を得ないと本格的には進められない。
さっそく、概要を説明するための資料作りに着手した。