ネット通販(1)
東日本大震災への対応に追われている頃、消費者の購買行動に大きな変化が表れていた。
店舗以外での購入だった。
1995年頃から始まったネット通販は年を追って勢いを増し、実店舗での売り上げを脅かし始めていた。
消費者は、より便利な、より快適な購買行動を求めていたのだ。
どんな時間帯でも、どんな悪天候でも、クリック一つで買い物ができるネット通販の魅力に取りつかれていた。
今までは、雨が降っても、雪が降っても、強風が吹いても、必要なものを買うために外出して店舗に行かざるを得なかった。
しかし、もうそんな必要はない。
パソコンやスマートフォンがあれば、クリック一つで買い物ができるのだ。
書籍を筆頭に、CDやDVD、家電、酒、衣料品などの世界ではネット通販が急速に広がった。
その結果、業界地図が変わろうとしていた。
ところが、食料品の世界ではこれからも大きな影響は出ないだろうというのが大方の予想だった。
でも、そうだろうか?
今のところはそうかもしれないが、この流れに例外なんてあるのだろうか?
ネット先進国アメリカでは日持ちのする食品だけでなく生鮮食料品のネット販売が始まっているのだ。
日本だけ例外のはずがない。
食品のネット通販を止めることなんてできるはずはないのだ。
そう確信したわたしは、東日本大震災の影響に翻弄されながらも、ネット通販への対応を真剣に考え始めた。
ある日、ネット通販に対する調査資料を偶然見つけた。
そこには通販で食品を購入する理由が列挙されていた。
〈24時間いつでも注文できるから〉
〈価格が安く品揃えが豊富だから〉
〈米や飲料などの重たい商品を自宅まで運んでもらえるから〉
〈時間や身体上の制約などでお店に行くのが大変だから〉
等々、もっともな理由が並んでいた。
その通りだと思った。
店頭販売に固執していたら明日の敗者になる危険性が高まるのは間違いなかった。
このまま手をこまねいていたら大変なことになるという危機感が一気に膨らんだ。
今まで自社は100パーセント卸流通、つまり、会社が卸へ商品を売り、卸が小売店に商品を卸す、という仕組みの中で業務を行っていた。
しかし、取り巻く環境は大きく変化していた。
ITが急速に普及し、共働きが増え、シニア層が急増し、生活スタイルが変わる中で消費者ニーズが一段と多様化していたのだ。
もはや従来の手法の踏襲では時代に取り残されかねない。
店販だけでは生き残れるはずはないのだ。
ネット通販への取り組みを今すぐ始めなければならないのは明白だった。
わたしは1週間考えて資料を作成したのち、大阪本社に提案した。
消費者ニーズの多様化に伴う消費行動の変化を具体的に示して、ネット通販への取り組みが急務であることを訴えたのだ。
しかし、本社はわたしの提案を一笑に付した。
まったく取り合ってもらえなかった。
特に東京支社を担当する常務からは厳しい言葉が飛んできた。
「なにバカなことを言っているんだ。1袋数百円の食品をネットで買う人なんかいるわけないだろう。投資に見合う売り上げが立つわけがない。それにネット通販を始めたことが取引先に知れたら大変なことになるぞ。取引停止だってあり得る。そうなったら、どうするんだ。君は責任が取れるのか!」
取り付く島もなかった。
誰からも賛意を得られず、わたしは四面楚歌に陥った。
それでも諦めなかった。
会社の運命を左右する重要な問題だと強く思っていたからだ。
だが、熱意だけでは伝わらない。
同じことを繰り返しても説得はできないだろう。
ではどうする?
意を異にする人を説得するためには何が必要なのか?
考えを巡らせていると、不意に新入社員の時の店長の言葉が思い浮かんだ。
「主婦の気持ちに寄り添って売場を考えてね」というアドバイスだった。
相手の立場になって考えろということか、
ということは自分が常務になるということだから……、
身を置き換えて考えていると、「投資に見合う売り上げが立つわけがない」と言った時の常務の苦々しい顔が思い浮かんできた。
そうか、常務は投資対効果に疑問を持っているのか、なるほどね、
糸口がつかめたような気がした。
すると、大々的に始めるのではなく、小さく始めたらどうかと思いついた。
調査という形でなら理解を得られるかもしれない。
すぐに提案内容を練り直した。
『テスト・マーケティングとしてのネット通販』というのが新しい提案だった。
あくまでも予備的な調査であることを明記して本社に提出した。
そして、本格的な展開ではなく、調査であることを本社の幹部に説いて回った。
常務には〈またか〉というような顔をされたが、前回のように強硬な反対をされることはなかった。
調査を前面に出したことが功を奏したようだった。
それでも、彼は念を押すのを忘れなかった。
「例え試しだといっても取引先に気づかれないように慎重にやるんだぞ。取引先に気づかれたら即刻中止するんだぞ。わかってるな!」
わたしは深く頷き、礼を言った。