飛行訓練
次の日……
俺は眠りから目覚め、そっと自分の体を起こす。もう慣れてしまったが、ドラゴンの体というのは意外に不便なもので、胴が長いせいなのか起き上がるのにもかなりの力を要する。フルフルと首を振り、眠気を払おうとすると……
「やっと、起きたか。 遅いぞ!! シルフォン!!」
俺が淡い青色の目を彷徨わせると、兄であるフィオレンが近づいてくる。相当今日という日を楽しみにしていたのだろう。
淡い緑色の目は爛々と輝き、尻尾は興奮で、左右に激しく動いている。もう出発する準備はできているといく感じだ。俺が寝坊してしまったのだろうかと不安になっていると姉であるルルシカが軽くフォローを入れてくれる。
「気にしないで、シルフォン。 フィオレンが早起きしすぎなの。 いつもは一番のねぼすけさんな癖に……」
横を見ると、姉もまだ、起きたばかりのようで眠たそうに目を開いたり閉じたりしている。そんな妹弟の様子を見て、フィオレンは信じられないというように目を瞬かせる。
「お前らは楽しみじゃないのか? 初めて巣の外から出られるんだぞ!!」
俺も決して顔には出さないが、フィオレンと同意見だった。トラックに轢かれ、ドラゴンに転生してから、この巣の外に出た事がなく、長い間ヤキモキしたのを思い出す。
しかし、それを口に出す事はない。この事に限らず、俺は日常のあらゆる事について、自分の意見を主張するのを避けてきた。
理由は俺が転生者であるということからだ。この世界が転生者をどう扱うのか未だ分かっていない。生前の世界のことを述べたら、異端者として排除されてしまうかもしれない。若干マイナス寄りの思考だが、ここは右も左も分からないような異世界。
慎重に行動する事に間違いはないはずだ。そういうわけで、俺は自分の世界の事をうっかり話してしまわないように、自分の意見を主張するような事はしない。あくまで、普通のドラゴンの子供として振る舞うのみだ。
「お。二匹とも起きたか。まだ少し早いが、もう出発するとしよう」
三匹の父親である赤竜は子供達が起きているのを確認し、急いで出発しようとする。その態度に俺は違和感を覚える。父がここまで、事を急ぐ事は珍しい。普段は温厚のマイペースで急かされた事は一度もないのだが……。
ちらっと兄姉を見やると、二匹は何も疑問に思っていないようで、フィオレンは父親の体によじ登り、ルルシカは母親の体によじ登った。
「気のせいだよな」
両親も子供達に早く飛行練習をさせたいだけだろう。俺は頭の中に浮かんだ疑問をスルーし、父と母どちらの背中に乗るかを検討し出す。
「シルフォン。 あたしの方にしなさいよ。 フィオレンと一緒だと、尻尾ではたかれて、下に落とされるわよ」
「なるほど」
今もなお興奮で尻尾が左右に激しく動いている兄を一瞥し、俺は母親の背中に掴まる。
「納得すんなーー!!」
兄は自分と一緒に乗りたかったのか、声を荒げる。普段なら、姉と一緒に兄をからかうところだが、今回は申し訳ないがスルーさせてもらう。なぜかというと、母親の体が宙に浮き始めたからだ。
俺は興奮で軽く目を見開く。あまりに現実離れした光景に、本当にこれは現実なのだろうかとすら思ってしまう。
空中に浮く感覚に意識を奪われている間に、もう軽く、ニ〜三キロは移動してしまっていた。俺は空の上から見る景色をしっかりとこの目に焼き付ける。そこは、広大な大自然の中だった。
現実ではあり得ないような虹色の草木を持つ大森林に、銀色に輝く海のように広い湖。そして、何度か自分の横を横切っていく、翼が四つほど生えた、プテラノドンのような飛行生物。
どの光景もこれが異世界であるという事を肯定していた。俺はこの世界の切り立った山脈で生まれたため、周りは雲や霧だらけで、下を見る機会などなかった。
そのため、この光景がとても新鮮なものに感じられた。先程まで興奮でうるさかった兄姉もあまりの光景に水をかけたように静かになる。
飛行訓練所というのは意外にもかなり近くにあったようで、ほんの二〜三分で到着してしまった。一目見ただけ百メートルぐらいはありそうな大木の木の頂上に板の床が貼り付けてあった。その下には先程見えた銀色の湖が広がっている。
付近にはボロボロの小屋のようなものがあり、荒れ果てた人間の住処のようになっていた。この世界にも人間はいるのだろうか。一体どうやってこんな高いところに家を建てたのだろうか。
両親はあっという間にその場所に下降し、子供達を木の上に下ろす。ここでどうやって飛行の練習をするのだろうか?
「まさか、ここから飛び降りるなんて言わないよね」
飛び込み台のような設置からそんな考えに至ったしまったが、まさか、こんな生まれたての子ドラゴンに飛び込みなんて高度なものを要求するわけがない。
「そうよ。 シルフォンよく分かったわね。 飛び降りた拍子に両方の翼を広げて風に乗るの。 大丈夫よ。 失敗しても湖に落ちるだけだから」
いつもと変わらない 笑顔で母親は恐ろしい事をいってのける。今よりもっと幼い頃、巣に雨が降り、その時に巣の中が小さな水溜りのようになってしまったので、そこで、犬かきの真似をして、水泳をした事がある。
なので、泳ぎはもう三匹とも完璧だが、失敗して溺死でもしたら、一体どうするのか。
「でも、湖に落ちたら、重力が反動して痛いよね?」
普段は自己主張しない自分だが、流石にこれはおいそれと受け入れられない。確か、一定の高さを超えると水に当たる衝撃はコンクリートに直撃する程の衝撃らしい。
何メートルかは忘れてしまったが、どう見てもこの高さはその基準を超えているだろう。
「重力というのはよくわからないけど、大丈夫よ。死にはしないわ。 ほら、フィオレンとルルシカも、もう飛び込んでいるわ。 早く行ってきなさい」
「でも……」
「"行ってきなさい"」
圧が凄い。これはもう何を言っても無駄だろう。俺は仕方なく、兄姉の元にゆっくりと向かい出す。両親は子供達を少し離れた場所からそっと見守っている。
近すぎず、遠すぎず、子供との距離をよく分かっている両親であると思う。そんな考え事をしながら、歩いていた俺に両親の会話は届かなかった。
「あの子たちに飛行訓練はまだ、早いと思っていたけど、急ぐに越した事はないものね」
三匹の母である、"ランフィア"はそっとため息をつく。それを見ていた三匹の父である、"シルルカ"は妻を宥める。
「仕方ないよ。 ランフィア。 今の時代は色々と物騒だ。 子供達にはいち早く自分達で生きる術を学んでもらわないと」
シルルカは顔を顰めて、飛行訓練をする子供達を見つめる。温厚な彼にしては珍しい表情だ。それ程、今回の事件は悲惨だったという事だ。
「三日前、隣森の巣が襲われた。 子供も皆殺しにされたらしい」
ランフィアはそんな夫の様子を横目に見ながらも、子供達を不安げに見ていた。今、ちょうど、フィオレンがいち早く大木のうえから、飛び降りたところだ。
三匹の中でも体も大きく、やんちゃなフィオレンが飛び降りたのを機にルルシカとシルフォンも勇気を出して飛び降りる。
本来なら、あの子達は飛行訓練をする歳に達していない。しかし、夫の言う通り、これは仕方のない事である。シルルカは赤い鱗を逆立たせ、険しい表情をしたまま会話を続ける。
「人間どもが、迫ってきている。 俺らも、覚悟を決めなくてはならない」
そんな会話が繰り広げられているのを、幼い三匹は知るよしもなかった。