表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

作者: 大和階梯

 海風になでられた草が揺れるのに合わせて、そっと足元の砂を蹴り上げてみた。

足の周りを少し灰色に染めあげた後はすぐに霧のように消えた。


 視線を上げると、となりにいる女性の全身が視界に収まる。霧が完全に散ると、輪郭がはっきりした。華奢で滑らかな曲線が妙な生を持って映りだした瞬間に、初めて彼女はこちらに振り向いた。途端風が吹き付けてきたので、僕の驚きようも多少は誤魔化されただろうか。


 湘南(しょうなん)のビーチは、徐々に(だいだい)色に染まっていく空をバックに、雲合(くもあい)から未だに派手な存在感を醸し出す夕日と、単調な色合いのサーフボードとが対照をなしていた。

 どこか遠い現実のように、そんな景色に目を奪われていた。目を見張るような輝かしさはないけれど心を惹かれて、昔見た光景ではないけれど懐かしさを感じた。


 今隣にいる女性は――なんと名状すべきか分からない。関係性を抽象化することがいつでも必要なわけではないだろう。


「きれいだね」

「口説いてるの?」

「そういうことを言わなければ、君もその一部だったのにね――」

 特に目も合わせずにそういうやり取りをした。目を合わせなかったが、息遣いですぐ隣に彼女がいることは分かった。


「――かもしれない」

 断定してしまったのが引っかかって、思わず不確かな言葉に訂正した。あたかもきれいなことが既定路線のような表現だったのではなかろうか。


 砂浜の奥、幾分か海面より高いところから、少しずつ、砂に足を取られながら歩みを始めた。いつもなら隣にいる人にも声を掛けるが、今回はそうしなかった。踏み出す重々しい一歩一歩は、絶え間ない海風の助けもあって、先程の失言をかき消してくれるような気がした。


 湘南の海岸は人が多い。それはたとえ海水浴シーズンでなくてもだ。もう随分と吹き付ける風も冷たくなってきた時期だった。それで夕暮れ時とあってもサーファーはちらほらと見えたし、そうでなくとも砂浜で(くつろ)いでいる人々はちらほらと見られた。


「でも、なんだか落ち着いてるね」

 ふと自分の口から、「でも」なんて言葉が飛び出したのに驚く。自分の思考を相手が読めるわけもないのだから、初めて話題にあげることに使う言葉ではない。……と理性的には考える。


「そうだね」

 彼女はそう同調した。僕は彼女に視線を向けた。すると彼女の視線がどこかそっぽを向いていることに気がつく。

 視線の先には、レジャーシートを敷いて二人で寄り添っている男女があるようだった。


 僕の目にも、その姿はどこか遠いように見えた。なぜ「にも」なのかといえば、それがどこか遠くにあるものという認識がなければ、そう不躾な視線を彼女も向けないだろうと思ったからだ。


 その男女の姿はどこか遠かった。しかしそれは、この夕暮れに覚えるノスタルジーのように、どこか心地よさがあった。

 しかしその実はそう感じることができる自分自身に、ある種の幸せを覚えているのかもしれないと思った。


「あの二人、いい感じじゃない?」

 幾分か興奮したような声音だった。

「まあ、そうかなぁ……」

 なんとはなしに、そうだと断定してしまうのは(はばか)られた。

「この後しっぽりやるんですかね?」

「いや、あの、カップルとは限りませんし……」

「いや、あの距離感はカップルだね、間違いない」

 いやに自信満々に彼女は宣言した。


 言われてみれば、カップルでもない男女があのように寄り添うことはない気もする。それでも、僕は彼女の言う事をどうも否定したかった。


「このまま時が暗がりに向かっていくにつれて、いい感じの雰囲気になっていくんですよ!?日没の差し迫る海岸で、夕闇をバックに彼氏の方が思わず口にするんです。『こんな風に、ずっと二人きりでいられたらいいのにね……』」

「……」

 僕は黙殺した。恋愛じみた幻想めいて馬鹿げた台詞だと思った。


 水際に近づくにつれて、波の打つ音が大きく聞こえるようになった。

 彼女の言うようなことが(ささや)き声で起こるなら、それは幾分か波にかき消されてしまうかもしれないと思った。しかし、そうやってかき消されてしまうほど儚いからこそ、人の心に残るのかもしれない。


「僕たちもさ……完全に日が落ちるまで、この海岸にいてみない?」

 さほど望みもかけず、弱々しい声で僕は言う。


「うーん、今日米炊いてるから無理」

 なんかよく分からない理由で断られてしまった。まあ、ただの冗長な情緒の問題だ。これに付き合ってくれる酔狂な人もあまりいないかもしれない。日没までは1時間以上あるだろう。


「まあ、また今度付き合うよ」

 適当にあしらわれた割には前向きな言葉で僕は混乱した。まあ、これは適当な社交辞令なのかもしれない。けれども、しっとりとした彼女の口ぶりと、話す前、話しながら、話した後にせせこましく顔をこちらに向けたり向けなかったりしてくる態度からは、それがただの社交辞令には思えなかった。ひょっとすると、これは常識的な理解を超えて言葉通りの意味を持ってくれているのかもしれないと思った。


 ……まあともあれ、断られたのも少しは残念だ。誘い方の失策もあったかもしれない。さっきまでそれを見ていた心地よさに()かれてか、あたかもあのカップルの真似を提案するかのような流れで言ってしまった。あれは自分で受け取る心地よさとは大分違う。見ていて心地良い、というものが自分に近いものばかりとは限らない。


 完全に際まで来て、歩みが止まった。あまりに手持ち無沙汰だったので、()ぐように海岸線を横に滑ったが、それもほとんど立ち止まるのと同じようなものだった。


 規則的かと思えば不規則な波の音を聞きながら、僕より少し前で、波の加減次第で濡らされるような位置まで歩いた彼女が振り返った。

 スポーティーながらも立体的なポニーテールが、海風の助けもあって揺らめいた。


 何か衝撃的な告白でもされるかと身構えたが、彼女は何も言わなかった。ただ、「こうするのは当たり前でしょ」とでも言わんばかりに、時折微笑(ほほえ)みを見せるだけだった。


 その時間が随分と長くなってしまっていたので、少しばかり空回りしたことを僕は言った。

「波打ち際ってさ……普段自分たちが立っている大地が完全に隔絶される場所との際なんだよね」

「それな」

 返答は即返ってきた。


 やっぱり適当にあしらわれている気もした。だが同時に、こういうものなのかもしれないという気もした。明確な言葉も当てられていないような関係というものは。

 だから、そのままでもいい気がしたが、ノスタルジックな雰囲気に少し酔ってか、何か無理やりにでも会話を捻出しようと試みた。きっと自分の中のノスタルジーに残っているような、何か形あるものを求めたのだ。それ自体は空っぽの心で追憶するものだけれど。


「最近何してる?」

「英文和訳0点の人の答案かな?」

「What do you do? じゃないよ」

「もっとこう……ストレートな感じで来てよ」


 ストレートと聞いて僕が思い浮かべたのは会話のキャッチボールというより、満塁のピンチで放られる豪速球だった。(もっと)もストレートという言葉は別に野球を介した隠喩(いんゆ)ではないだろうが。

 そういう考えで、最大限攻めの姿勢で行こうと思った。


「最近人にはいえない秘密のことは?」

「人にはいえないんだから君にも言えないよ」

 ……しまった。攻めの姿勢が過ぎる余り字義の限界にぶつかってしまった。

 少し気まずい沈黙が広がった。その間も波は絶えることがない。


「いや、別に秘密がどうこうというのを聞き出すことが重要なわけじゃないんだ」

「そう」

「秘密を話せるくらいの間柄だって確認したかったというか……」

「言えたじゃねえか」

 彼女は勇ましく言った。


「それで、秘密は?」

「めちゃくちゃ秘密にこだわってるじゃん!変質者だよ!」

「太陽を覆い隠すあの雲のように……」

婉曲(えんきょく)表現ならいいわけじゃないよ」


 見えるはずのないもので、彼女と一緒に(たわむ)れるのは楽しかった。本当に秘密なんてものの中身はどうでもいい。ほんの思いつきで言ってみただけのことだ。

 

 頭の中で自分から遠いものを思い浮かべたのに呼応して、視線を海の奥の方に移す。左を見やると、さほど遠くないところに島が出てくる。シーキャンドルがランドマークのあの島の名前は江の島だ。


「あっちに江の島が見えるね」

 僕がちょうどそちらの方に目を向けたタイミングで、彼女はそう言った。心を読んだわけでもあるまいに、自分の思ったことと彼女の言うことが一致したのは嬉しかった。

 彼女は左隣にいたから、視線は読まれなかったはずだった。江の島が二人の視線の先にある今は、やはり彼女の方が僕の前にいることになる。


 もう少し左側に視線を移すと、鎌倉の方まで海岸がよく見えた。まだ辺りは暗くはなっておらず、色々なものがよく見えた。

 ひょっとしたらと思って、右側に視線を向けた。天気もそれなりだし、まだ大島あたりは見えるのではないかと思ったのだ。


 今回は僕が前だった。だから彼女が声を掛けてくるのには不意をつかれる。

「あそこに見える島って、小笠原諸島かな?」

「地球平面論者か?あれは大島だよ」

「良く分からないけど、名もなき島って感じでかっこいいね」

「話聞いてる?」


 まあ名もなき島と命名した方が、ロマンはあるのかもしれない。全容を完全に理解して、詳らかになってしまうことは、必ずしも情緒の観点からは望ましいものでもない。どこか分からない所が残っているからこそ、そこに憧れがあるのではなかろうか。まあ、島の名前くらいは分かっていた方が景色を楽しめそうなものだが。


 また正面に向き直した。その必要は無かったが、彼女が見える所まで首を回していた。

 そして僕は止まった。今見える光景は、夕暮れの素朴さには見合わない気がした。

 そんな不粋さにも、どこか心惹かれてしまう自分にもやもやした。


 彼女は肩を出したトップスを着ていた。夜闇にしか紛れることのできない黒は、それを拒みながらも色あせていく太陽がかえって、その深みをなしていた。

 それは間違いなく不粋であった。でもそこにある種の美を否定しきることはできなかった。だから、照れ隠しに不満交じりに僕は言った。


「そういう服、この季節だと寒くない?体に障りますよ」

 まあ純然たる心配の方が濃かったかもしれない。

「えっ、なにセクハラ?絶対触らせたくないんだけど」

「僕は気に障ったよ!」

「ああ、そういう…」


 彼女の服に気が散ったせいか、海の景色を見続けるのも少しばかり飽きてきた。陸の方を振り返ってみる。

 僕が何らかの感想をその景色に抱く前に、彼女は口を開いた。



「あのホテル、なんかおしゃれな感じじゃない?」

 見た。まあでも、経験上ああいう中途半端な上品さは「その手の」ものだ。

「……休んでいくつもり?」

 多分彼女は驚いた目をしていた。なぜ憶測かといえば、視線を向けない方が紳士的な気がしたからだ。

「いや、ラブホじゃん……見分けつかないよ……」

 彼女は明け透けと口にしたので、僕も気を揉まずに多少話を膨らませることができた。


「レジャー施設の近くはああいうの多いよね、盛り上がるし」

「いや、知らないけど。私も経験なっ……あっ……」

 彼女は沈黙したし、思わず盗み見たところによると少し赤面していたし、何より僕の問いかけの意図を曲解していた。別に「盛り上がる」の部分に同調を求めていたわけではない。てか僕も知らない。


「というか、よくそういう話をしようと思ったね」

 僕は少し意地悪をした。

「いや、そういう流れかと思って、先手を取ろうかと……」

 少ししおらしく彼女は答えた。


 彼女の発言を文字通り捉えるなら、彼女にそういう意図は無かったように見えるのだが、そう返事をしたということは、言葉の裏にそういう意図があったということだった。まああえて、その事実は指摘しないであげた。

 自分のうちに抱え込んで堪能(たんのう)しておくのが粋というものだ。


 彼女は実のところ僕より一歳年上だった。だから何だという話ではあるのだが、その事実だけで少しだけ彼女の存在は自分より遠いものに思った。


 今日という日の記憶もまた、通常なら霧のように消えてしまうだろう。今日どういう経緯で二人して海岸に足を運ぶことになったのかも、水平線の向こうの雲がどんな色に映っていたかも、どんな会話を交わしたかも。

 それがきっと自然なのだ。だから美しい。そんな風に儚いからこそである。


 しかし、彼女の姿は自然とは思われなかった。

 今日の彼女の姿は、自分の記憶に刻み込まれてしまいそうだった。

 時間とともに記憶は歪むのに、消えなくなってしまう。

 そこには背徳的な高揚があった。先程のカップルを思い出した。


「少し冷えてきたね」

 彼女は腕を交差させ、はにかみながら言った。

「うん」

 それは今日という日の終わりを告げる合図でもあった。


 またずっとずっと遠くの海を見た。あるいは空かもしれない。その見分けはつくかもしれないが、それを区別する必要性は感じなかった。太陽以外は全て似たようなものに感じられる。側にいる彼女を除けば。


 夕焼けは時が経つにつれて寂しさが増すようだった。砂浜に映る影は二人分あった。余計に悲しく思えた。


 このまま寂寥(せきりょう)感に身を委ねて、彼女に引導を渡してもらおうとも思った。それが自然に美を愛することだとも思えた。

 それでも自分の中に居座る不自然は確かに存在感を持っていた。


 視線を大きく右に移せば山々も見える。それはまた遠かった。果てのない海は、遠いという概念とは少し性格が異なるかもしれないと思った。山は確かに向こう側に立っているのだ。


 僕たちは波打ち際から遠ざかり始めていた。徐々に小さくなる波の音が別れを告げているようだった。


 砂の山を登って道路の方へ向かおうとする。遠くを見すぎたせいか少し足を取られた。それからはおのずと足元に目線が行った。


 砂浜の一番高いところまできた。ここで海岸線に平行に伸びる砂の遊歩道にぶつかる。

 ここを渡ればこの砂浜は終わりだ。


 僕は振り返った。一番遠くから見る海は果てしなく大きかった。

 彼女も振り返った。

 彼女が髪を揺らしながら起こした風を浴びる。


 僕が最後に目に焼き付ける景色は、この果てしなく広がる海岸で良いのだろうか……

 それはそれでいい気もした。でも僕の内心はそれを許さなかった。不自然がまた、自分のうちから湧き上がってくる。

 でもその原因は彼女じゃないか。


「あのさ」

「うん?」

 まだ遠く海の果てを見ている僕に対して、彼女ははっきりと顔もこちらの方に向けて相槌を打った。


「今日の君はすごくきれいだったと思う」

「えっ!?急にどうしたの?」

 口にしてしまえば、後はありきたりな記憶の一つになって、やがて消えてゆく。僕は自分の中の背徳的な高揚(こうよう)を払拭するために言った。


「また君とこうやって、色々なところに行きたい」

「そう」

 僕の勇気に比べて彼女の反応は随分と冷淡に思えた。


「この先も、ずっと一緒にいてほしい」

 僕は彼女の顔を見なかった。それはもしかすると臆病でもあったかもしれない。でも一番に、そうすべきであるような気がした。それが僕の求めるあり方だと思った。


「そ、それって告白?」

 彼女は全身をこちらの方に向けて、本当に恐る恐る、という調子で聞いていた。

「違う、と思う」

 僕はそう答えた。


「思うって何?」

 彼女の声には意外と(とげ)があった。不満を(たた)えているようだった。僕はすぐに答えられなかった。


「そういう思わせぶりな発言、ちょっとずるいと思うな」

 まだ棘は抜けきっていないが、「ずるい」という言葉だけには拗ねているようなかわいらしい響きがあった。


「それは――何度でもこれから、同じことを言いたいと思うから」

「もっとずるいんだけど」


 彼女はその後も僕と並んで歩いて帰ってくれた。


 今日が僕たちにありふれた何でもない思い出の一つになってしまえば良いと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ