モヒートもハイヒールもいらない
この小説を、ある事件の被害者へ捧げます。
気が付くと、知らない部屋に座っていた。
「おめでとうございます、ユリさん。あなたの『いらない人』は、無事に消すことができました。」
自分の目の前に立つ男が、穏やかな笑みを浮かべてそう告げてくる。何を言われているのか、そもそも一体ここがどこなのか分からず混乱していると、男は私の近くに置いてあった紙切れを指さした。
「処置の後は記憶が曖昧になってしまうことも多いので、あらかじめ同意書へサインを頂いています。ご確認ください。」
言われるがまま、紙に記載された内容に目を通してみる。
要約すると、この同意書は、自分にとって消えてほしい人を『存在しなかったこと』にできるサービスを受けるためのものらしい。対価は消す相手の年齢や社会的地位などによって変動するそうだが、今回は百万円に満たないくらいの額が書いてあった。
これが高いのかどうか、私には判断できないが、人を一人消すと考えたら破格の値段なのではないだろうか。そして最後のサイン欄の直前に、赤字で依頼の取り消しに関する記載があった。
『依頼の取り消しは基本的に受け付けられません。ただし、自身で消した相手のことを思い出し、その上で依頼を取り消したいと本当に望まれた場合のみ、元に戻すことが可能です。』
私は、一体誰を消したのだろうか。自身の記憶からも消去されているのだから、当然ながら思い出すことはできないのだが、心に言いようのない喪失感を覚えたような気がした。
実感はないが、自分の依頼は完了しているようだし、ここからはもう去った方がよいのだろう。座っていた椅子から立ち上がった瞬間、なぜかバランスを崩して倒れこみそうになり、間一髪で目の前の男が腕を掴んで支えてくれた。
「危なかったですね。大丈夫ですか?」
「すみません、なんだか足元がふらついてしまって。」
「…そうですか。まだ、頭がはっきりとしていないのかもしれませんね。お気をつけてお帰りください。」
外に出ると、辺りは既に暗くなっていた。空には厚い雲がかかっており、今にも雨が降り出しそうだ。低気圧のせいか、頭に鈍い痛みが走った。頭痛持ちなので、これくらいの痛みには普段から慣れている。常備している市販の頭痛薬を飲もうと鞄の中を探したが、何故かいつもしまってあるはずの場所に薬が入っていなかった。
ぽつり。冷たい水滴が頬に当たる。やはり一雨来てしまいそうだ。傘も持っていないし、どこかで雨宿りをしたい。スマートフォンで周辺情報を確認して、友人がやっているバーが近くにあることを思い出した。飲むには少し早い時間だが、逆に空いていていいだろう。雨がひどくなる前にと、私は足早にその店へ向かった。
「いらっしゃい、なんだかえらく久しぶりね。」
事前に連絡をいれたところ、お客もおらず暇だったということで、友人は快く迎えてくれた。
「確か、濃い目のモヒートが好きだったよね。すぐ作るから待ってて。」
「ありがとう、突然来たのにごめんね。」
「ちゃんとお代はいただくから大丈夫。」
軽口をたたきながら、友人は慣れた手つきでミントとライムをすり潰していく。さっぱりとしたいい香りが鼻腔を刺激した。ほどなくして、ソーダの気泡が美味しそうに弾けるモヒートが目の前に差し出された。
「お待たせ。バカルディ濃い目の特製モヒートよ。」
お酒は好きな方だ。たぶん、かなり。つまみが無くても延々と飲んでいられるタイプだった。しかし、どうしたことか。そんな私が今、カクテルを前にしたとたん、何故だか全くもって、それに手をつけたいと思えなくなってしまった。
「どうした?飲まないの?」
友人が不思議そうにこちらを見ている。折角用意してくれたのだから飲まねばと思うのだが、グラスを持ち上げても、口にするのをどうしても体が拒否してしまうのだ。
「なんだか顔色が悪いよ。大丈夫?」
「ごめん。ちょっと調子が悪いみたい。今日は大人しく帰るね。お酒、作ってくれたのに申し訳ない。」
自分でも自分に起きている異変の正体が分からず、気持ちが悪い。席を立とうとしたところ、先ほどと同じように、何故かうまくバランスが取れずふらついてしまった。
「ちょっと、転ばないように気を付けてよ。」
バーカウンターから出てきた友人が、心配そうに目線を私の足元へと落とした。
「あ、でも今日はスニーカーなんだね。前は絶対十センチ以上のヒールしか履かなかったのに、珍しい。」
そう言われて、はっとした。自分でも靴を確認する。確かにおしゃれとはいえないスニーカーだ。こんなもの、いつ買っただろう。でも確か、これが一番いいと思って選んだのだ。絶対に転ばないように、これを履いて歩こうと決めたんだった。
「ユリ、ちょっとどうしたの?」
友人がぎょっとしたような声をあげた。何の前触れもなく、私が涙を流しはじめたからだろう。
友人への挨拶もそこそこに、私は店を出て、雨に濡れるのも構わず全力で走り出した。そういえば、こうやって走るのも本当に久しぶりだ。
ごめん、ごめんね。ごめんなさい。
心の中で何度も何度も謝り続ける。お酒も、靴も、何もかもどうだってよかったんだ。
「お願いします、返してください!」
先ほど出たばかりの部屋へ駆け込み、叫ぶように言った。男は驚いた様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「きっと、戻られると思っていましたよ。」
その言葉と同時に、お腹の中にあの懐かしい『胎動』を感じて、私はひどく安堵したのだった。
世の中には、未熟な母親も沢山います。母親も人間ですから。
身勝手な理由で、「いらない」なんて言ってしまうこともあるかもしれない。
けれど、それは一時の感情に振り回されているだけ。本当にいなくなってしまったら、きっと深く後悔することでしょう。
そうであってほしい、と、願いを込めながら書きました。