07 頼り過ぎていたようだ。
扉の前に立った少女は、そっと鍵を差し込む。
軽くひねるとカチリという音が鳴り、ビクッと身体を震わせる。
急いで鍵をポケットに入れると、ドアノブをゆっくりと回した。
──兄ちゃん、まだ寝てんよな……
心の中でそう呟くと、扉の音に気を付けながら、ゆっくりと引っ張る。
この少女は、郡上美晴。栄太の従兄妹だ。
美晴の父──栄太の叔父に頼まれて……というか、無理やり頼ませて、サプライズ訪問という名の「抜き打ち検査」にやってきたのだ。
だから、この鍵も父から預かったものだ。
扉が抵抗なく開いて行く。
──兄ちゃん、不用心やなぁ……
扉にチェーンは掛かっていなかった。
とはいえ、潜入する美晴にとっては、好都合だ。
中に入って、ゆっくりと扉を閉める。
──よっしゃ、潜入成功♪
嬉しそうに小さくガッツポーズをする。
靴を脱いだ美晴は、くつ下のまま部屋に向かう。
近くにスリッパがあるが、くつ下のほうが静かに歩けると思ったのだ。
部屋の扉は開いたままだった。
普段からそうなのだろう。
そーっと中の様子をうかがう。
従兄は、ベッドでぐっすり眠っているようだ。
足音を忍ばせて近づく。
──やっぱ、兄ちゃん、かわいいなぁ……
そう言いながら、栄太の頬をつつく。
少しもがいてから寝返りを打ち、再び安らかな寝息を立て始める。
思わず笑い声が漏れそうになるのを、必死に我慢する。
部屋の中を観察する。
模様替えをしたのか、家具の配置が記憶とは違うが、しっかりと片付いており、掃除も行き届いているようだ。それに……
──なにこれ……、まあオシャレかも知れんけど、部屋に全然合うてへんやん。
美晴の記憶だと、ここには大きな棚が置いてあった。
それが別の場所に動かされており、代わりに大きな布が飾られていた。
どう見ても、この部屋には合ってないように思える。
こんな物を、あの従兄が飾るだろうかと訝しむ。
──ハハーン、さては、何か隠してるんやな。
とはいえ、訪問することは伝えていない。
普段から隠しているのなら、よほど他人に見られたくないモノかも知れない。
美晴は腕組みをして考える。
あの従兄だ。エッチなお姉さんの……というの考えにくい。
どちらかと言えば、可愛い女の子イラストだろうか。
そんなことを考えながら、ワクワクした気持ちで布をめくる。
一瞬、鏡だと思った。だが、すぐに違うと気が付く。
「何なん? ……これ」
まるで隠し部屋だった。
しかも……
「こんにちは。栄太の妹さんかな?」
見知らぬ女性に話しかけられた。
明るくて優しそうな声だ。
神秘的な雰囲気をまとった、幻想かと思うほど綺麗な女性だった。
しかも、美人なのに、かわいい雰囲気も兼ね備えている。
少し小柄だがスタイルのせいだろうか、年上の落ち着いた女性に見える。
──いやぁ……、さすがに兄ちゃん、これはアカンやろ……
我を取り戻した美晴は、ペコリとお辞儀をして従兄の部屋に戻ると、そのままベッドにダイブして、栄太の身体を揺さぶって叫んだ。
「ちょぉ、兄ちゃん。これ、どないなってんの。ちゃんと説明しいや!」
驚いたってもんじゃなかった。
寝覚めは最悪だった。
最初は誰だか分からなかったが、どうやら従妹の美晴が、俺を揺さぶっているようだ。しかも、ベッドの上にいる俺に、馬乗りになって。
ニコニコしながら、雫奈がこの部屋に入ってきた。
それだけで、大体の事情は察した。
まあ一応、そんなこともあろうかと、簡単な設定は考えてある。
だが、こんな寝起きの状態で、頭が働くわけがない。
「まぁ……なんだ。まずはどれから説明したらいい?」
そう答えるのが精一杯だった。
何を話すにしても、とりあえず互いのことを紹介しないと始まらない。
「えっと、この騒々しいのが、いとこの郡上美晴。で、こっちの浮世離れしてるのが、静熊神社の宮司をしてる秋月雫奈だ。二人とも仲良くやってくれると助かる」
必死に頭を目覚めさせている最中だ。
だから、投げやりだとは言ってくれるな。
これで済めば楽だったが、どうもそうはいかないようだ。
仕方が無いので、練りに練った設定を披露することにする。
構想時間は実質半時間にも満たないが……
「あー、雫奈は……」
「ちょぉ、なんで呼び捨て? せや、雫奈さんも兄ちゃんのこと、呼び捨てにしよったなぁ。それって、付き合うてんの?」
「あー、美晴さんや。高校生になったんだから、もうちょっと落ち着こうな。今からそれを説明しようとしてたんだぞ。……じゃあ、続けてもいいな?」
美晴がコクリとうなずく。
「雫奈は東京にいた頃の知り合いで、どういう因果か、その窓からも見える静熊神社の宮司になったらしい。
俺がこの町に住んでるって知ってたから、住む場所を紹介して欲しいって頼んできた。だが、俺だってそんなに詳しいわけじゃない。
だから、このアパートを紹介した。まあ、隣の部屋になるとは思わんかったが、部屋数も限られてるからな。そういうこともあるよな」
「ほんで、二人の関係、どうなってんの?」
美晴は、どうしてもそれが気になるようだ。
「お前が思ってるような関係じゃねぇよ。まあ、ただの知り合いってわけじゃないが……。そうだな、簡単に言えば、主と使用人だ。もちろん、俺が使用人な」
「それだと私が、無理やり栄太に手伝わせてるみたいでしょ。違うからね。互いに助け合ってる関係っていうか、仲間って言ったほうが近いんじゃないかな」
「まあ、雫奈の料理は絶品だからな。美晴も一度、ご馳走してもらえばいい」
「そうね。せっかくだから、お昼に何か作ってあげるね」
よし、昼メシが確保できた。
「あ、ありがとうございます」
なんだろう。美晴の様子がおかしい。
いきなり心の距離が開いたような気がする。
「美晴、どうした?」
「なんか、二人の息ピッタリやし。もう夫婦やん。アタシ、お邪魔かなって」
ちょっと待て。なんて嬉しい……いや、なんて恐ろしい事を言ってくれるんだ。
理想の女性姿のせいで、雫奈が土地神だってことを、忘れてしまう時がある。
今のこの関係が、ずっと続けばいいとさえ、思い始めている。
けど……
「まあ俺たちは、一緒に楽しく過ごせても、付き合ったり結婚したりって仲にはならねぇよ。だから遠慮する必要はないぞ」
「いや、今の『なんでやねん』ってツッコむトコやん。けど、兄ちゃんも満更やないんちゃう?」
こういうノリは、よく分からん。
どうやら、思いっきり遊ばれているようだ。
なんだか美晴の元気は空回り気味だが、元気ならばそれでいい。
「ごめんな、兄ちゃん、ちょっとやり過ぎたかな。あんまり気にしたらアカンで。こんな二人ですけど、雫奈姉さん、これからもよろしゅう、おたのもうします」
いやいや……「おたのもうす」なんて普段使わねぇだろ。……なんて、ツッコんだら負けだ。たぶん、こうやって言葉で遊んでいるのだ。
「こちらこそ、ミハルちゃん」
どうやら、仲良くやってくれそうだ。
「あー、アタシも高校生になったし、これから兄ちゃんのこと『兄さん』って呼ぶようにするから。……栄太兄さん。どうや、大人っぽいやろ?」
「じゃあ俺も、美晴さんって呼んだほうがいいか?」
……なぜか、ドン引きされた。
いや~、良かった。これで丸く収まった。……っと思ったが、なぜか美晴がこちらを見つめている。
「ん? まだ何か用か?」
そう答えると、美晴がニッコリ微笑む。
「あれのこと、まだ聞いてへんねんけど」
そう言って指を差したのは、布の壁飾り……ではなく、通路のことだろう。
完全に忘れてた。
「あー、これな。俺もびっくりした。部屋の模様替えをしてたら、偶然見つけて。
引っ越した時、なんかこの棚だけ置いてあって、便利だったから使ってたけど、よくよく考えたら変だよな。ちょっと場所が悪いから動かしてみたら、コレだ。
そりゃまあ、塞ごうとは思ったが、雫奈が面白いし便利だから使おうってさ。
たぶん、もともと二部屋だった物件を、別々に分けて単身者用に改装したんじゃねぇか? 費用をケチって棚で塞いでたのを、俺が偶然見つけちまったのかもな。
これが大家にバレたら気まずいし、追い出されるのも勘弁だから、このことは誰にも言うんじゃねぇぞ。俺たちだけの秘密だ」
いやあ、調子が出て来た。舌好調だ。
……いやスマン。かなり苦しい言い訳だと、自分でも思っている。
棚は自分で買ったものだし、このアパートは初めから単身者用。
通路なんてもともと無かったし、雫奈が勝手に作ったもの。
この話の中にある真実は、大家にバレたら追い出されるってことぐらいだ。
こんな話、信じろってほうが無理がある。
ほら今も、美晴が難しい顔をして、部屋を見ている……
「まあせやな。アタシも不思議やったんよ。この部屋の大きさで、なんでこんな大きい棚、必要なんやろかって」
マジか。信じちゃったよ……
騙した俺が言うのもなんだが、変な奴に騙されないか心配だぞ。
「父さんには、つつがのう元気にやっとるって言うとくから、ちょいちょい遊びに来てもええやんな?」
たぶん、最初からコレが狙いだったのだろう。
けど、まあいい。
「別に構わんが。あんま相手してやれんぞ?」
「そん時は、雫奈姉さんのとこ行くし、なあ兄さん、構へんやろ?」
「私はいいわよ。美晴ちゃんにも、神社を手伝ってもらえたら嬉しいかな」
「うん、やるやる!」
まあ二人が納得しているなら、止める理由はない。
……何をさせるつもりかは分からないが、無茶はさせないだろう。
「雫奈は、こう見えても忙しいからな。あんま邪魔してやるなよ」
「心配せんでも、大人しゅうしてるって」
よぼど嬉しかったのか、いい笑顔を浮かべていた。
ちなみに昼食は焼うどんだった。
料理なら美晴も得意なはずだが、それでも雫奈の腕前を褒めちぎっていた。
それどころか、料理を習いたいとまで、言っていた。
その二人は、今は静熊神社に行っている。
もちろん、歩いてだ。
今のうちにと、会社への提出物を片付け、ついさっき送った。
なので、この空いた時間に……
ソフトを立ち上げると「妹」が現れる。
かなり出来上がってきているように見えるが、本体は細かな調整がまだまだ必要だし、衣装も粗いし装飾も全然だ。
とにかく、表情と髪を中心に進めていく。
上手くいかないときは、すぐに集中力が途切れるが、順調だとどんどん集中力が増して無心になっていく。
気が付けば、あっという間に時間が過ぎていたということもあるが、その分、完成に近づいていると思えば、なんてことは無い。
一時間ほどで、本体の気になる部分は調整できた。
続く二時間で、衣装もかなり進んだ……と思う。
なんだか、いつもより集中できた気がする。
そういえば、美晴は帰ったのだろうか。
来た時も私物らしきものは持ってなかったし、神社に行くと言って部屋を出た時にも、何も残してなかったと思う。
念のために、部屋の中や玄関を確認するが、美晴の私物らしきものは無い。
靴が無いのだから、隣にも居ないと思う。
窓から静熊神社を見てみるが、やはり障害物が邪魔で、よく見えない。
──まあ、こんなことで呼ばれたら、雫奈も迷惑だよな……
仕方がないので、買い出しついでに神社の様子を見てこよう。
神社の家は、賑やかだった。
なので、そのまま立ち去ろうとしたら、見つかった。
「エイタ兄ちゃん、お邪魔してるよ」
家の窓からミヤチが手を振っている。
あの窓からだと、この辺りがよく見える。とはいえ、毎回よく気が付くものだ。
監視でもしてるのだろうか。
「ようミヤチ、今日もユカリとデートか?」
声を詰まらすミヤチに代わって、座ったままのユカリが返事をする。
「はい。神社デートって素敵ですよね」
相変わらず、変わった子だ。
中には美晴の姿も見える。
なかなか楽しそうだ。……まあ、混ざりたいとは思わんが。
「日も傾いてきたから、暗くなる前に帰るんだぞ」
「はーい」
よし、元気な返事だ。
我ながら、らしくないことを言っている気がする。
とはいえ、こういうのも悪くない。……と思えるようになった。
これも雫奈のお陰だろうか。
「おい兄ちゃん、もう帰んのかよ」
「ああ、買い物のついでに、様子を見に来ただけだからな」
そんなに露骨に残念そうな顔をするなって。
俺が居たところで、何がしてやれるってわけでも無いんだから。
窓越しにミヤチの頭をわしゃわしゃする。
「ちゃんとユカリを守ってやれよ」
「あ、当たり前だ」
少し顔を赤らめて、目を逸らす姿が、初々しい。
……なんてことを思っていると、玄関から美晴が出て来た。
「兄さん。途中までやけど、付き合うたるわ」
そう言いながら、窓のほうを向いて笑顔で手を振っている。
雫奈の姿も見える。こちらを見て手を振り返している。
なんとなく……としか言えないが、なんだか美晴の事を託された気がした。
「まあ、いいけど。なら、スーパーへ行くか」
そこなら、美晴の家にも近い。
俺は、郡上家とはそれほど親しいわけじゃない。
こうして近くに引っ越したのも、ただの偶然。叔父さんの顔を見たのも、数えるほど。近くに住んでいるのを知って挨拶に行ったが、子供の時以来の再会で、共通の話題といえば母のことぐらいしか無かった。
その時は、美晴の母親とは会えなかったが、子供の頃の記憶では、綺麗で優しい人だったはずだ。
美晴に会ったのは、その時が初めてだと思う。それより前に会っていたとしても、美晴が赤ん坊の頃だろう。少なくとも、俺の記憶にはない。
家事は美晴の担当で、弟たちの世話もしているらしい。
その後、一度だけ、美晴を連れた叔父さんが、俺のアパートに来た。
そんなにヒドイ生活をしていたつもりはないが、それ以来、叔父さんは俺のことを気にかけてくれ、その度に美晴がメッセージを代筆させられている。
中学生らしからぬ必要最小限の文面は、嫌々させられている様子を物語っていた。それは高校生になっても変わっていないが、どうやら俺のことを嫌っているわけではなさそうなので、少し安心した。
美晴と二人っきりで、こうやって並んで歩くのは初めてだ。
歩調はかなり速いが、俺にはとても歩きやすい。
「兄さん。ホンマ優しいなぁ」
「そうか?」
「わざわざ家に近い店、選んでくれたんやろ?」
「たまたまだ」
「まあ、そう言うんやったら、それでもええけど。ほかにも、ほら、アタシって歩くの早いやろ? それに合わせてくれてるやん。しかも、車道側歩いてくれてる」
無意識に、雫奈と歩いてる時のクセが出てしまったようだ。
「気にするな。側溝のほうが危ない時もあるから、油断するなよ」
「せやな。気ぃつけるわ」
冗談だと思ったのか、クスクスと笑っている。
目的のスーパーが見えてきた。
そろそろ美晴ともお別れだ。
俺の心配は杞憂だったようで、結局、何も起こらなかった。
「ほんじゃ兄さん、また遊びにいくから、ばいばーい」
無駄に元気な従妹の背中を見送る。……って、ちょっと待て!
「美晴!」
叫ぶ前から、俺はダッシュしていた。
必死に手を延ばし、服をつかむと強引に引っ張る。
そのまま、抱き寄せるようにして後ろに飛んだ。
その前を、制御を失ったオーバースピードのパン屋のバンが通り過ぎ、横転して歩道に突っ込む。
俺たちは、勢い余って無様に転んでしまったが、美晴にケガは無いようだ。
当たり前だが、よほど恐ろしかったのだろう。指の血の気が失せるほど、俺の服を思いっきり握って離さない。
青い顔で震える美晴を放っておけず、家まで送り届けることにした。
家に着くころには、少しは元気が戻ったようだ。
美晴はあまり騒ぎにはしたくないようで、特にあの叔父が知ると大騒ぎになるから、伏せておくことになった。
なので、美晴が家に入るのを遠くから見届け、叔父には会わずに戻ってきた。
事故現場は騒然となっており、とても買い物をする雰囲気じゃなかった。
雫奈を呼ぼうか……とも思ったが、それなら雫奈も付いて来てたと思う。
なので、近くのお地蔵さまに手を合わせて、アパートに帰った。
とても気分が重い。
下手をすれば雫奈と喧嘩になる可能性もある。
だが、これだけは絶対に聞いておきたかった。
部屋に戻ると、雫奈はいつもと変わらない様子で、俺の部屋で料理をしていた。
まあ、それは、今さらいちいちツッコまない。気分が落ち込んで、何かを作ろうという気力も湧かない今の俺には、ありがたいぐらいだ。
「雫奈、あの事故が起こるって知ってたのか?」
「ううん。分かってたら、教えてあげることもできたんだけど、さすがにね」
あらかじめ質問されることが分かっていたのだろう。
いつもの笑顔で平然と答えている。
「じゃあ、俺に何か……気を付けろとか、美晴を守れとか、そんなことを伝えなかったか? 神社を出る前、雫奈が俺たちに手を振ってた時だ」
「伝えた……というのは、ちょっと違うかな。たぶんそれは、栄太自身が感じ取ったんだと思うよ。虫の知らせってあるでしょ? たぶん、そんな感じかな」
予想していた答えとは違ったが、違ってよかったとホッとする。
「そっか。だったら、美晴が危険な目に遭うってことは、知らなかったんだな」
「そりゃそうよ。知ってたら、私が一緒に行ってたわ」
そのまま信じていいのか分からないが、たぶん嘘はないのだろう。
「スマン、少し気が立ってた。疑って悪かった」
「仕方ないよ。私だって悔しいもん」
「悔しい?」
女神にも……いや、雫奈でも、そんな気持ちになるのかと驚く。
「残念だけど、全ての不幸を止めることはできないから……」
冷静に考えれば、当たり前のことだ。
土地神だから、女神だから、なんとかしてくれるだろう、なんて考えは、ただの甘えだ。そんなことができるなら、悪人は居ないし、事故も事件も起きない。
俺もいつの間にか、雫奈に頼り過ぎていたようだ。
今夜の湯豆腐は、冷えた俺の心を、優しく癒してくれた。