28 雫奈、優佳、鈴音、頼む!
郡上家の玄関は、無残な姿になっていた。
ドロリと腐り落ちた扉の向こうには、ヘドロともアメーバーともつかない、何だかよく分からない不定形の黒い塊が、蠢いていた。
「これが悪霊……なのか?」
「はい、悪霊の一種で、人々が発した負の感情の集合体です。兄さま」
「ちょっと、観察してもいいか?」
「飲み込まれたら大変なので、やめたほうがいいと思いますけど。どうしてもと仰るなら、五秒間だけ私が守りますよ」
「………五秒だな。分かった、頼む」
嘲笑、侮蔑、嫉妬、ざまあみろ、不幸になれ……
「分かった、もういい。これは、何と言うか……ヒドイな……」
「こうなっちゃうと、アラミタマのほうが可愛く見えますね」
「叔父さん、人がいいからな……。妬まれて、利用された挙句、馬鹿にされたって感じだったが……多分コレでも、表面に出て来た一部なんだよな」
「そうですね……。そろそろ兄さま、集中してください。悪霊が動きます」
毎度の事ながら、何をどう気を付ければいいのか分からない。
だが多分、捕まれば終わりだろう。だから、全力で回避することだけを考える。
「なんだアイツ、家を飲み込もうとしてるのか? ってか、シズナと鈴音は大丈夫なのか?」
「姉さまは、さっき落ちて来た男の人を守っています。鈴音は美晴さんと女の人を守っているようです」
「つまり、動けるのは俺たちだけって事か。奴を家から引きずり出すことはできないか?」
「多分ですが、難しいかと。恐らくあの悪霊は、美晴さんの家庭を崩壊させる為に生み出されたモノですから」
「なんで、こんなになるまで気付かなかったんだ?」
「隠していてごめんなさい、兄さま。対処はしていたのですが、何か想定外のことが起こったようです」
「いやまあ怒ってるわけじゃない。俺じゃ頼りにならないが、郡上家のことなら俺も無関係じゃないからな。事情は知っておきたかったし、何か力になってやりたかったってだけだ」
「美晴さんが、兄さまに気付かれることを頑なに拒んでましたから、私たちも尊重したのですよ、兄さま。この悪霊も、数日前まではかなり弱ってたのですけど、この短期間で何があったのか……」
「やっぱり、原因を探るしかなさそうだな」
「兄さま、避けて」
ユカヤの声に反応し、横に転がって避ける。
さっきまで立っていた場所が、黒く変色している。
「あいつ、何か飛ばしてきやがったのか?」
「悪意をまき散らすので気を付けて下さいね。兄さま」
「ああ、スマン。でも、こんなことって普通にある事なのか?」
「このタイプの悪霊は、珍しいと言えば珍しいですけど、毎年、何体かは現れてますよ」
黒の飛沫を避けながら、少し遠ざかる。
そこへ、ケバケバしいオバさんが近づいてきた。
「なんだ、あのオバさん。真っ黒じゃねぇか。しかもケガレ持ちだ」
「悪霊の元凶のひとりですね」
「何か塀越しに投げ込んでいったぞ」
「あの人、この前も姉さまが祓ったのに、もうあんなに真っ黒になってますね。たぶん、ゴミか何かを投げ入れたのだと思います」
「くそっ、なんとかならねぇのか……」
「焦らないで下さいね。もうすぐ姉さまが来ますから。それと、さっきの人には、私がちゃんとお仕置きしておきますからね。兄さま」
情けない話だ。
俺はこの視界を維持することしかできない。
もちろん、シズナたちが共闘するために必要な、要の役割だとは分かっている。
何か武器があれば……
「ユカヤ、俺は一度アパートに戻るが、構わんか?」
「……そうですね。あとは任せて下さい、兄さま」
俺はアパートに向かって走り出す。
飛ぶことも、跳ぶこともできないのだから仕方がない。
ただし、壁抜けだけは出来るので、一直線に向かう。
困りものなのは他人の魂だ。ぶつかれば、吸い込まれる危険がある。
今も、かなりギリギリだった。もしかしたら、少し触れてしまったかも知れない。見知らぬ人の記憶が流れ込んできた。
アパートに戻った俺は、部屋の中で探し物をする。
たしか、捨てずにこの辺りに置いたはず……
目当てのモノを見つけたが、手に取ることができない。
物理的にすり抜ける……という意味ではない。精神が変質するようで、とても長時間触れていられない……という意味だ。
肉体であれば平気だったのに、まさかの事態だ。
──こうなったら、肉体を動かすしかない!
意識を分けて両方を見る……だったか。
……まあ、そんな簡単にできたら苦労はしない。
そもそも意識を分けるってことが意味不明だ。
何か発想の転換が必要だ。
今まで困った時はどうしてた?
瞬間移動や飛行した時は、頭を真っ白にして衝動に任せた。
走ったりジャンプした時は、精霊に願った。
視界を設定したり変更した時は……ゲームのつもりでデザインした。
ならばどうする……
静熊神社は、新たに訪れる人も減り、御朱印の記帳を待つ人も少なくなって、落ち着きを取り戻しつつあった。
今は、三藤さんが昼食ついでに休憩をしている。
なので、雫奈が記帳をし、その他の対応を優佳が行っている。
「あたしゃ、次の番なんだけど、そちらのお嬢ちゃんに書いてもらおうかね」
「えっ? 私ですか? 私、字は下手ですよ?」
「別にいいんだよ。遠くに行った孫が、お嬢ちゃんと同じぐらいでね。良かったら、写真も一枚、撮らせておくれ」
「はい。では先に書かせて頂きますね。写真は、そちらに行った方が、よろしいでしょうか」
「ならば、ワシが撮りますぞ」
「じゃあ、お願いしようかね」
いかにも神主然とした時末忠次郎が、にこやかに撮影する。
郡上家のことが気になって、内心で焦っているはずの優佳だが、そんな様子を全く感じさせず応対を続けている。
それは、隣にいる雫奈も同じだった。
精神世界では悪霊から、栄太の叔父を守る事で精一杯で、他に何もできない状態に陥っているが、いつもの優しい笑顔で筆を走らせている。
「はい。ありがとう。また来てね」
雫奈にとっては、この付近の人たちならば大抵は知り合いだ。
お辞儀をして、軽く手を振って送り出す。
「ごめんなさい、お昼、頂きました。雫奈さんと交代しますね」
「あっ、はい。じゃあ淑子さん、大変だけどお願いね」
「まっかせて下さい。じゃんじゃん書きますよっ」
実のところ、ほとんど雫奈が終わらせてしまい、待っているのもあと数人になっている。だが、また増えることもあるだろう。
美味しい食事に満足した三藤淑子は、ヤル気に満ち溢れていた。
雫奈は社務所に入ると同時に、郡上家へと跳んだ。
悪霊に包まれているシズナよりはマシとはいえ、かなりキツイ。
シズナに守られた栄太の叔父を抱えて、家から出る。
栄太の視界のお陰で、魂の状態が分かりやすいのは助かる。
後の処置をシズナに任せ、雫奈は再び家の中へと跳んだ。
その間、ユカヤは別の視界で、さっきのケバケバしいオバさんを折檻していた。
苦痛と快楽を与えて、負の感情を絞り出す……というアレだ。
それと同時に、悪霊の動きをけん制している。
さすがにコレを鎖で封じ込めることはできないが、地道に少しずつ侵食して、霧散させていた。
ユカヤには、この状況を一気に好転させる秘策があるが……できれば使いたくないと思っている。それをすれば、栄太の想いを無駄にすることになる。
途方に暮れている鈴音の前に、雫奈が現れた。
精神世界ではアキツコマネヒメが、美晴とその母親の精神を守っている。
かなり状態が良くない。一刻も早く、ここから助け出さなければならない。
美晴の父親の応急処置を終えたシズナが、母親の守りを引き継ぐ。
「鈴音。美晴ちゃんを外へ」
「うん、分かった」
鈴音は意識を失った美晴を背負うと、窓から外へ出る。
雫奈もそれに続き、母親を抱えて外へ出ようとするが、それに悪霊が抵抗する。
シズナに対して攻撃をしてくる。
具体的には、シズナの周りの悪意が濃くなり、母親の守りが弱まった。
結果、母親が暴れ、雫奈を振りほどこうとする。
「……離せ、私は悪くない! 何でこんな事に。絶対に許さない!」
聞き取れたのは、これだけだ。あとは、言葉にならない声でわめいている。
やせ細り、目は落ちくぼみ、肌も病的な白さで、髪もボサボサ。まるで幽鬼のような姿だ。
「お待たせしました。姉さま」
「優佳、この人をお願い」
現れた優佳が、暴れる母親を抑え込む。
もちろん、無茶は出来ない。優しく手加減をしながら動きを封じる。
シズナも調律神器で、闇の拘束から逃れた。
「でも、どうしましょう。悪霊はこの人に憑いているから、逃がしてはくれなさそうですし……」
母親を救うには、悪霊を祓えばいいのだが、おそらく悪霊は、攻撃されると母親の精神を一気に蝕む。そうなれば、母親がアラミタマ化し、地獄に送るしかなくなる。それだけは絶対に避けたい。
未だに母親が無事なのは、悪霊もその辺りを理解しているだからだろう。
「う~ん、そうね。いつでも運び出せるように玄関に運びましょ」
「はい、姉さま」
途中、かなり不気味がられたし、露骨に避けられたりもした。
ぶつかられた方が危険なので、そういう意味では都合が良かったが、たぶん、悪い噂が広がることだろう。
なんとか俺は、郡上家にたどり着いた。
「よう鈴音、無事だったか。美晴も無事そうだな。魂の方は……綺麗なままだ」
「ミハ姉は、ボクが守ってたから。……ごめんね、エイ兄。あのね……」
美晴は俺がやった犬アクセのお守りを、手首に巻いて付けていた。
たぶん、そのお陰だろうか。魂の値も四十七で、黒に染まっていない。
叔父さんのほうは相変わらずだが……いや、少しマシになっているようだ。
「だいたいの事は聞いた。美晴に口止めされてたんだろ? 神様としてなら、お前は三姉妹土地神の末っ子だが、この世界では郡上鈴音だ。犬の姿でも美晴の立派な妹で、郡上家の一員だ。だから気にするな」
「ありがとう、エイ兄」
「ところで、状況はどうなってる?」
「その前に、エイ兄、なんか変」
そりゃそうだ。
まさか上手くいくとは思わなかった、苦肉の策だ。
ベッドに横たわる俺の肉体を見て、俺は必死に考えた。
俺は精神世界にいる精神体で、いわば幽霊のような状態だ。
そして、目の前に肉体がある。
だったら乗り移れるんじゃないかと思い、試しにやってみた。いわゆる憑依だ。
そりゃまあ、自分の肉体なんだから、相性が悪いはずがない。……そう思ったのだか、かなり苦戦した。苦戦した末に、指が動いて希望が見えた。
一度コツを掴めば簡単だった。……が、これを憑依と呼んでいいのか分からない。まるで人形を操作しているような感覚で、全然馴染んでいない。
それでも立って歩くことができたから、必要なモノをカバンに詰めて、なんとかここまで操作してきた。
さながらゾンビのような動きだっただろう。
「説明すると長くなるから、今は勘弁してくれ。二人をこんな道路に置いてたら、目立っちまうな。先にどこか、目につかない場所に移動させようか」
「だったらこっち……って、エイ兄は運べないね」
「さすがにコレじゃあな。スマンが鈴音、運んでくれ」
「うん、分かった」
よかった、鈴音は思ったより元気だ。
てっきり責任を感じて、しょげ返っているとばかり、思っていた。
さて、どうするか……だが、効果があるか分からないが、一応秘策を持ってきた。とはいえ、一回きりのギャンブルだ。失敗する確率どころか、何も起こらない可能性も高い。
優佳が叔母さんを運んでくるのが見えた。が、かなり苦しそうだ。
悪霊は少し小さくなっているように感じるが、気のせいかも知れない。
先に雫奈が出て来た。
「あー、俺の無様な格好の事は気にするな。……で、状況は?」
「えっ……と、うん。悪霊は女の人に取り憑いているんだけど、外に出そうとしたら攻撃してくると思う。つまり、女の人はあの悪霊の人質ね」
数値は九十六でケガレはない。
いや、悪霊自体がケガレかも知れない。
シズナとユカヤが叔母を守っているのだろう。
「優佳は、あの中に入って大丈夫なのか?」
「そうね。全く影響がないってわけじゃないけど、まだ平気かな。いざという時は、強引にでも女の人を外に出さなきゃね」
「この中で、一番パワーがあるからな……」
「それでだ。この後、どうするつもりだ? いつまでもこのままって訳にもいかんだろうし」
「そこなんだよね。結局のところ、女の人から悪霊を引き離して浄化するしか無いんだけど、その引き離すっていうのがなかなか……ね」
「そう思って、こんなものを持ってきたんだが、役に立ちそうか?」
かなり手間取りながらカバンからプラスチックの容器を取り出す。
いつもお世話になってる、神木粉だ。
「なるほど、ちょっとやってみましょうか」
「それはいいが、失敗したらどうする? 当然、何か策があるんだろうな」
「そこはほら、臨機応変に……」
「それは、行き当たりばったりって言うんだが」
さすがにソレでは困る。結果的に最悪の事態を招いたら、洒落にならない。
「だったらボクが、その粉に祝福を与えるね」
二人を運び終わった鈴音が戻ってきた。
「おう、鈴音ご苦労さん。それで、祝福を与えたらどうなる?」
「短い間だけど、すごい力になると思う。……けど、そうしたらもう、お守り作れなくなっちゃうね」
「いや、それは気にするな。神社の経営より、郡上家のみんなのほうが大事だ」
でもまだ、決め手が足りない。
そこで……
「なあ雫奈。コレって使えないか?」
取り出したのは、お守りの失敗作。
雫奈石と命名した、雫奈が作った闇を浄化する石だ。
一応、優佳石と鈴音石を合わせて、三つまとめて保管すると、不思議なことに中和されるのか、周りに全く影響が出ない。
今の俺では、石に直接触れることができない。
雫奈も優佳石には触れられないらしい。その逆も然りだ。
唯一、鈴音石だけは、みんなが触れるらしい。
「そうね。やってみましょう」
雫奈は雫奈石を手に取ると、調律神器を演奏して準備を始めた。
俺は、神木粉の入った容器のフタを開けようとするが上手くいかず、そのまま、鈴音に渡す。鈴音はクスリと笑ってフタを開けた。
「雫奈、優佳、鈴音、頼む! 叔母さんを助けてくれ!」
「任せて」
「お任せください。兄さま」
「うん、がんばる」
三者三様の答えが返ってきたが、皆の気持ちは同じだろう。
「じゃあ、始めるよ」
鈴音──コマネが精神を集中させる。……と、神木粉が輝きを放ち始める。
シズナが走り寄りながら弾丸を打ち込み、悪霊のぶよぶよに穴を開けて行く。
そこへコマネが駆け込み、一気に叔母さんの元へと近寄り、神木粉をまき散らした。
悪霊が苦し気に身をよじり、体積を小さくしながら黒を濃くしていく。
その後ろから駆け寄ったシズナが、叔母さんの身体に、雫奈石を置く。
一気にその周囲から黒の気配が晴れて行く。
だが、まだ完全には叔母さんが解放されていないようだ。
ユカヤも鎖で引きはがそうとしているが、芳しくない。
シズナが再び、調律神器を乱射する。
その間に、優佳と鈴音が、叔母さんを外へ運び出そうとするが……
悪霊に開いた穴が塞がり始めた。
たぶん、アレが閉じたら終わりだ。
だが俺に何ができる?
俺の手にあるのは触ることのできない優佳石と、どんな効果があるか分からない鈴音石だけ。
もう迷っている暇は無い。
俺は身体を操って、鈴音石を手に取ると、思いっきり悪霊目掛けて投げつけた。
俺はコントロールには自信がない。しかも、操り人形越しだ。とりあえず投げてはみたが、どこに行くかなんて誰にも分からない。
案の定、さして速度の出なかった鈴音石は、力無く玄関の床に落ち、不規則な跳ね方をする。そして……
上がり框に当たった鈴音石は、大きく跳ねて叔母さんの身体の上に乗り、転がって雫奈石に触れた。
まばゆい光と共に、闇が後退していく。
「今よ、優佳!」
三人で叔母さんを運び出すと同時に、シズナを中心に光の領域が広がっていく。
叔母さんを受け取ろうと一歩踏み出すが……
「駄目です兄さま、離れて下さい!」
思ったより強い言葉で優佳が忠告する。
そう言われても、こちらは身体の操作がおぼつかない。
なんとか尻もちをついて、地面を這いつくばりながら、家から離れる。
その前で、光の柱が天へと上り、闇の気配が感じられなくなった。
……いや、完全には浄化できなかったようだ。
「兄さま。少しコレを借りますね」
ニッコリと微笑んだ優佳は、地面に転がっていた優佳石を手に取ると、悪霊の残滓に投げつける。
見事に命中し……悪霊が石に吸い込まれたように見えた。
再びソレを拾い上げた優佳は、楽しそうに見つめる。
「さてこの子、どうしましょうかね……」
言葉や雰囲気はともかく、表情は最上の笑顔だった。
俺は視界を戻した。……と同時に、全身に激痛が走る。
あっヤバイ……
さすがに身体を酷使し過ぎたようだ。
痛みから逃れるように、俺は意識を失った……