9.没落姫騎士
二年間定住している宿屋の一室で、ミーシャは鏡に映った自分の顔を睨みつけていた。
正確に言えば、自分の右頬に残った醜い傷跡を恨めしそうに見つめている。
昨晩は散々な目にあった。
原因は、3週間前に張り出されたクラスメイディの討伐クエストだ。
手負いのバースティアを討伐するだけで50万Gという大金が手に入る。これまで目にしたことがない好条件のクエストに、彼女は迷うことなく飛びついた。
しかし、毎晩潜伏先を変えるクラスメイディを発見することは容易でなかった。
1週間で自力の捜索を諦め、情報屋のサライに情報提供を求めたのだが、情報料として報酬の9割、45万Gを請求されたのだ。
下級や中級の冒険者であればいざ知らず、上級冒険者ともなれば、報酬5万Gのクエスト等、探せばいくらでもある。
そんな条件で、誰が好き好んでバースティアを狩れるだろうか。
亜人種が続々と人間社会で人権を得ていく時勢に、バースティアの討伐はそれなりのリスクが伴う。
自らの評判低下に繋がるうえ、普段魔物を専門に討伐している身としては、どうしても良心の呵責に襲われる。
なにより、あの依頼には不明瞭な点が多すぎた。
『盗賊バースティア《クラスメイディ》の討伐』
盗賊と呼ばれるからには、何かしらの窃盗行為を働いたのだろう。
しかしながら、その明確な被害は記載されていなかったし、何を盗まれたのかは知らないが、いくらなんでも50万は高すぎる。
その上、名のある資産家のマダムが依頼者なのも、実は異例の事態である。
実際に顔を合わせたことは一度もないが、彼女の大らかさと寛容さは有名だ。
彼女について、こんな逸話がある。
物乞いの少年が露天からひとつのパンを盗んだ。店主はそれに気付き、少年を捕らえて火掻き棒で殴りつけようとした。
しかしその場に居合わせていたマダムが店主を止めたのだ。
マダムはその店の元締めで、月に一度の見回りに来ていたらしい。
そして彼女は少年に言ったのだ。
『いいから食べてみて。美味しい? ならよかった。これからも抜き打ちチェックをして、少しでも不味くなったら教えてちょうだいね』
その日から、物乞いによる窃盗行為は激減したと言う。
話を裏付けるかのように、この街は他の街に比べて格段に治安が良い。
それはこの街の市場を牛耳るマダムの人柄が成したものという話だ。
そんな彼女が討伐クエストを依頼したとなれば、その裏にどんな思惑があるのか、誰にも計り知れない。
その情報を掴んでいるのは恐らく、『屋根裏の蝙蝠』と呼ばれるあの女だけだった。
45万という提示額からして、彼女があの依頼に対して消極的であるのは確かだった。
殺し屋相手にも金次第で情報を流すあの女が、事実上情報の提供を拒否したのである。
それにもかかわらず。
2日前、冒険者になったというあの男。
サライは彼に特別目をかけ、あろうことかクラスメイディの居場所をタダで教えるというではないか。
「……ササキナオト」
ミーシャは一目見た時から彼が嫌いだった。
小さなギルドであるが故、新人が入れば良くも悪くも噂になる。
それも情報屋のサライと、かつて『斬魔』と呼ばれた元Sランク冒険者である武器屋の店主、グラッドの紹介ともなれば、注目は集まって然るべきである。
だが実際に彼を目にして、ミーシャは酷く憤りを感じた。
見るからに不摂生なその姿も、やる気の感じられないあの声も、責任は全て他者にあると言いたげな振る舞いも、彼の存在全てが彼女の神経を逆撫でした。
そして何より、彼がマギアを付けて魔法の練習をする姿がとても腹立たしかったのだ。
彼がどうして魔法を使えないのかは知らないし、知りたくもない。
そんなことよりも、大衆の目前で恥じる様子もなく、子供用の道具を使って練習をするあの姿。それを見て嘲笑する有象無象の冒険者達。
それがただただ許せなかった。
ミーシャの冒険者ランクは『B』。
上級と呼ばれる中では最低のランクだ。
彼女がBランクに到達したのは3年前、17歳の年のことである。
通説では、才能のある冒険者は2年に一度のペースで昇格する。
裏を返すと、2年以上そのランクに留まることがあれば、それは才能の限界を迎えたことの証明なのだ。
『自分の力量を見誤るのは冒険者として落第点だね』
昨晩、忌々しい蝙蝠に言われたことだ。
「……分かってるわよ、言われなくても」
彼女が上級の最底辺で燻っているのには理由がある。
彼女は魔法の才能が欠落しているのだ。
ライセンスカードを見れば一目瞭然である。
魔法を司る『魔力』は精神力に依存しており、その平均値が9から10程度と言われている。
そんな中、彼女の精神力は『14』。
十分に高い値と言っていい。
なのに、肝心の魔力の数値はたったの『7』しかない。
これは、生活する上で必要最低限と言われる数値と丁度同じなのである。
暖炉に火をつける、花に水をやる、濡れた髪を乾かす。ミーシャに使える魔法は、精々その程度の物でしかない。
戦闘に利用できる魔力は『12』からと言われるこの世界で、彼女の魔力は全くと言っていいほど使い物にならないのである。
だからこそ、血反吐を吐きながら体を鍛え、死に物狂いで剣技を磨き、這々の体でBランクまで登り詰めた。
だが、もう限界は見えている。
魔法の才能がなくともAランクやSランクに到達した冒険者は確かにいる。
だが、彼らには共通点があった。
それは、全員『男』だということ。
男と女、少なからず肉体の構造が違う。
女であり、魔法もまともに扱えない彼女の限界点が、このBランクという現状なのだ。
魔法の才能がないこと、それは唯一にして決定的なミーシャの弱点なのである。
だからこそ、魔法を使えない直人と、それを馬鹿にするその他大勢に対して、我慢ならないほどの苛立ちを覚えた。
彼は修行を始める前の自分と同じだ。
魔法も使えず体も弱く、その癖鍛えようともしていない。
それなのに、彼は今更になって魔法を習得しようとしている。
馬鹿にされている気分だった。
彼は魔法を使えないが、それでも男だ。
男であれば、訓練次第でAランクにもSランクにもなれる。本物の上級にたどり着ける。
ならば身体を鍛えるべきなのだ。
魔法の習得などにうつつを抜かさず、現実を見て最適な手段を選ぶべきなのだ。
それすら出来ないような奴が自分と同じ冒険者となり、果ては同じギルドを根城するなど、彼女のプライドが許さなかった。
だからこそあの晩、直人の足を取って笑い物にした。
二度と顔を合わせないように、彼に釘を打ったつもりだったのだ。
しかしその翌日の昼、つまりは昨日。
ギルドを訪れた彼女は目の当たりにしてしまったのだ。
マギアを付けながらも、拳大の火球を生み出す直人の姿を。
それも、見たことも聞いたこともない紫色の炎だった。
あのサライですら食い入るように見つめていた火炎魔法は、ミーシャを激しく動揺させた。
自分が9年かけて鍛えた身体と磨いた剣技は、あの炎に勝てるのだろうか。
一晩だ。
たった一晩でこれなら、数ヶ月で自らの数年を超えるのではないだろうか。
ミーシャは焦った。
そして、とある情報を手に入れた。
直人がクラスメイディ討伐に向かう。
サライが手引きする以上、クラスメイディはそこにいる。
50万Gという大金を手に入れ、同時に直人という芽を潰す。
その手段はあまりにも単純で、どんな方法より確実だった。
ミーシャは夜まで待ち、ギルドを出る二人の後を追った。
もしもサライが彼の側を離れず、共にクラスメイディと戦うのならば諦めて帰るしかなかったが、ターゲットが潜む廃屋前で、サライは踵を返してギルドに戻った。
磐石だ。
ミーシャには追い風が吹いていた。
外からでも中の気配は伺える。
タイミングを見計らって突入し、『先代の爪』を入手するのは容易いことだ。
立っているのが直人であれクラスメイディであれ、少なからず力を消耗していることだろう。
仮に全快であったとしても、自分には鍛え抜いた身体と家宝の剣がある。
二人掛りならともかく、1対1で負ける気はない。
ミーシャは待った。
決着がつくその時を。
どちらが勝ったか、それは正に火を見るより明らかだった。
紫の光が闇夜を照らし、女の悲鳴が微かに聞こえた。
本来ならその時点で突入するつもりだったが、ミーシャは尻込みしてしまった。
一瞬見えた紫の光が、明らかに昼に見た拳大のそれではなかったからだ。
それに、聞こえてきた女性の悲鳴が短すぎた。
本来炎に体を包まれた者は、もっと長時間苦しみ続けて、気絶するように死んでいく筈だ。
一瞬で焼き殺さなければ、そんな状況になり得ない。
だとすれば、あの炎はどれだけの火力を有しているのだろう。
そんな火力の炎が、避けることが困難なほど巨大であれば、それはもう、手の打ちようがないではないか。
考えれば考えるほど、ミーシャの身体は凍ったように動かない。
だがその身体をも溶かすほど、想定外の事態が起きた。
子供のバースティアが現れたのだ。
ぺたぺたと足音を鳴らし、大切そうに何かを抱え、見ているこちらの気が抜けるほどの眩しい笑顔が月明かりに照らされていた。
(あの時……私はあの子を呼び止めるべきだった)
どんな方法でもいい、彼女をあの現場から遠ざけねばならなかった。
でも、身体が動かなかった。
それが何故なのかはわからない。
直人への恐怖心か、それとも大金への執着か。
どちらにせよ、結果は悲惨だった。
少女が建物に入った後、またしばらく様子を伺った。
今度は紫の光が見えず、ただ揉める様な音だけが響いていた。
やがてその音も止み、完全な静寂が訪れた。
炎が見えなかった以上、中がどうなっているのか判断が付かない。
ミーシャは敢えて、大きな足音を立てて階段を登った。
直人が生きていれば何かしらのアクションがあるだろうし、あの子が生きていれば窓からでも逃げ出してくれるだろうと考えたのだ。
しかし、たどり着いた現場には3体の影が横たわっていた。
ひとつは判別不能な黒焦げの死体、ひとつは胸に短剣が突き刺さった少女の死体、ひとつは血塗れの直人の死体。
酷い臭いがした。
あんなに凄惨な現場を見たのは初めてだった。
(その現場の一部を作ってしまったのは、間違いなく私だ)
討伐対象のバースティアはともかく、少女を呼び止めていれば、彼女と直人が死ぬことは無かったはずである。
自分がもっと強ければ、余計な死人を増やすことも無かったはずだと、自責の念が溢れ出した。
だがその時、微かな声が聞こえた。
『アリッサ……』
それは紛れもなく、直人の寝言であった。
激闘の末、気絶でもしたのだろう。
彼が生きていたことに胸を撫で下ろすと同時に、どうしようもなく、やり場のない怒りが込み上げた。
それは直人への怒りであると同時に、自分自身への激しい怒りだ。
こんな素人相手に、気持ちで負けていた。それに気がついてしまったのだ。
(いや、そんなわけがない。そんなわけないじゃない)
教えてやらなけらば。
彼が踏み込もうとしている世界は優しくない事を。
油断すればすぐ寝首をかかれる、弱肉強食の世界であるということを。
絶望しろ、考え直せ、お前の居場所はここにはない。
ミーシャすぐに辺りを見回した。
そして案外簡単に、『先代の爪』らしきものを見つけ出した。
黒焦げ死体のすぐ横に落ちていたのだ。
見れば全身が炭化しているにも関わらず、死体の爪は煤ける程度でしっかりと形を残していた。
クエスト募集の張り紙には、「討伐の証として『先代の爪』を持ち帰ること」と書いてあった。
討伐することが目的で、爪はあくまでもその証明というニュアンスだが、これだけの強度を誇るのであれば、何かの素材として利用できるかもしれない。
(でも、もしそうなら全ての爪を回収したいはずよね。それに……)
クエスト達成報告の際、報酬金と共に爪は返却されていた。
今になって考えたところで、ミーシャには分からないし、あの現場をよく観察すれば何かが分かったとも思えない。
ミーシャは先代の爪を手に入れたところで、すぐにでもギルドへ帰りたかった。
だが、どうしても少女の遺体が目についてしまう。
あんなに可愛らしい笑顔の少女が、胸を刺されて死ぬなんて似合わない。
左手で彼女の胸を押さえ、右手でゆっくりと短剣を引き抜いた。
その時、彼女の懐に固い感触があった。
少女が纏う布の隙間に手を入れてみると、それは先代の爪とよく似た鋭い爪だった。その根本には炭化した肉塊がこびりついている。
もしやと思い確認すると、クラスメイディらしき死体からは、右手中指の爪が失われていた。
それがバースティアの儀式の様な物だということを、ミーシャは即座に理解した。
きっと少女は母の爪を手にして、一人前の大人になった。戦士になったのだ。
ならば、この少女はどうなる。
立派に戦って、死後も全ての爪を残したままで、次は何と戦えというのだろうか。
爪を剥ぎ取ることは、彼女たちの武器を奪うということだ。
それはバースティアが死後、何者とも争わず、安らかに眠ることを願った習慣なのかも知れない。
ミーシャにはその想像が当たっているかどうかなど関係なかった。
エゴでも構わない、少女が安らかに眠ることを願い、遺体の右手中指から爪を剥ぎ取った。
でも、これを持つべきは自分ではない。
この爪の所在は、呑気に眠りこけている直人が決めるべきことだ。
(まさかその爪でこんな傷を付けられるなんて。ほんと馬鹿みたい)
その後ミーシャはギルドに戻り、報酬金を受け取った。
そして飲み慣れていない酒を煽った。
アルコールの力を借りて、全ての感情を洗い流そうとしたのだ。
今にして思えば、逃避の方法としては最悪の部類だろう。
1時間ほどして、サライに担がれた直人がギルドへ帰還した。
その姿を見た瞬間から、全てのストレスは彼に向けられていた。
今度こそ彼が二度とギルドに足を運ばないように、有る事無い事なんでも言って、精神的に追い詰めた。
あの時は激昂する直人に対して、冒険者達の冷たい視線が集まっていると思っていた。
しかし、今ならわかる。
実際に冷ややかな視線を浴びていたのは、彼女自身だと。
冒険者は弱肉強食。
だが、誰しもが誇りを持っている。
人の報酬を横取りするなど、たとえ場末のギルドでもあり得ない。
人一倍プライドが高かったはずのミーシャは、焦りのあまり自分を見失っていたのだ。
『調子に乗んなつってんの』
『たぶん、それは貴女が背負うべきものだから……』
サライとミラーナに言われた言葉が、今更になって突き刺さる。
中級冒険者に金を払い、中途半端に治癒された頬の傷の痛みなど、気にならないほどに胸が痛む。
昨日の今日でギルドに行けば、誰もがミーシャを後ろ指で刺し嘲笑うことだろう。
だが、彼女には金が必要だ。
何がなんでも金を稼がなければならない。
お山の大将と揶揄されようと、上級冒険者が少なく、上級のクエストをほぼ独占できるこの街を離れることなど出来ないのだ。
ミーシャは真紅のドレスの様な鎧を身に纏い、家宝の『聖剣アルトリアム』を腰に携えた。
頬の傷を強調するかの如く、あえて赤髪を上げて後ろ一本に縛り付ける。
(お父様、お母様、お姉様。もうしばらく待っていてください。私が家を立て直してみせるから)
プライドが高く傲慢、そして魔法を使わない戦闘スタイル。
皮肉を込めて『姫騎士』と呼ばれる没落貴族の令嬢は、今日も休むことなくギルドへ足を運ぶのであった。
* * * * * *
「……いらっしゃいませ」
今日も今日とてアリッサは元気に酒場でバイト中である。
武器屋のパートが休みだった為、久しぶりに直人とゆっくりできる!
雑草ティーと木の実スウィーツで小洒落たブレイクタイムと洒落込もう!
などと張り切ってはみたものの、昨夜から直人の様子が明らかにおかしいのだ。
というのも、昨日は彼の冒険者としての初仕事だったのだが、どうやら失敗してしまったらしい。
彼が帰宅したのは空が青み掛かった頃だった。
血塗れの服で帰ってきた直人に驚き、聞きたいことは山ほどあった。
しかし、彼は何一つ言葉を発することなく、黙ってベッドに潜り込んだので、アリッサは何も聞かなかった。
彼が眠りについた後、服を脱がせて身体中を確認したが、傷らしい傷もなかったので、一先ずは安心だった。
だが今にも泣き出してしまいそうな彼の表情が、ずっと頭から離れない。
目が覚めてからも、直人は一切口を聞かず、布団から出ようとはしなかった。
昨晩持ち帰った料理も、結局手付かずのままテーブルの上に残してきてしまった。
「おーい、アリッサちゃん」
「は、はい。なんでしょう?」
「いやほら、接客だからさ。スマイルスマイル」
店主は少し困った顔で、自分の口角を上げて見せた。
直人のことが気になって仕方ないアリッサだが、彼の言う通り今は仕事中、メリハリはつけなければならない。
笑顔、笑顔だ!
笑うのだアリッサ!
「は、はい! に、ニコ〜!」
(っしゃあ可愛い)
ぎこちなさはあるが、店主は大満足である。
自分の様な50代半ばのオッサンと、もはや婆さんと呼びたくなる妻が経営する場末の酒場に、息子より年下の美少女が居る。
それだけでありがたいのだ。
妻の手前、しっかりしないといけないが心苦しいばかりである。
「あ、ほらお客さんだよ。ばっちり接客してきな!」
「はい! いってきます!」
入り口のドアベルが鳴り響き、アリッサはおしぼりを手に厨房を飛び出した。
「いらっしゃいませ!」
「あら、新人さんかしら? 可愛いねぇ」
「きょ、恐縮です! あ、こちらおしぼりです!」
「はい、ありがとうね」
案内するまでもなく、その年配女性は端の席に座っていた。
彼女はおしぼりを受け取ると、優雅な仕草で手を拭いてみせる。穏やかな口調や上品な服装も含めて、どうにもこの店とはミスマッチな人物である。
アリッサがその姿に見惚れていると、彼女は「注文いいかしら」と微笑んだ。
「はい! 承ります!」
アリッサも自然な笑顔で対応していた。
先程までのぎこちなさが嘘の様である。
「えっと、そうねぇ。じゃあ、『マダムがいつもの』って伝えてくれる?」
「えっと、マダムがいつもの? で、よろしいでしょうか?」
「ええ。それで伝わるから大丈夫よ」
「はいよろこんでー!」
疑問が顔に出ていたらしく、女性はクスクスと笑っていた。
(マダムって、最近どこかで聞いたような……? 気のせいだよね)
アリッサは急いで厨房に戻り、「えっと、『マダムがいつもの』……とのことです!」そう伝えた途端、店主は厨房から身を乗り出して、女性客の姿を確認した。
「やっときたか! アリッサちゃんもおいで」
基本的に厨房から出ない店主が、嬉しそうに客席へと駆け出した。
アリッサも慌てて後を追うと、「マダム、最近見えなかったじゃない」とか、「あら、ごめんなさいね。寂しかった?」とか。
二人は親密そうに談笑を始めた。
「あ、紹介しますよ。この子は昨日から働いてもらってるアリッサちゃん。よろしくお願いしますよ〜」
「あ、あの! アリッサです! よろしくお願いします!」
「やだもう、ごめんなさいねアリッサちゃん。知らないお婆ちゃんで混乱しちゃうわよね?」
「ああ、そうっすね。えっと、このお方はマダム・ドグラル。うちの店のオーナーだよ」
「オ、オーナー!?」
「そう、そんでもって俺がガキの頃から色々助けられてんのよ」
「もう、相変わらず大袈裟ねぇ。アリッサちゃん、私のことはその辺のお婆ちゃんだと思って、緊張しなくていいからね?」
「は、はい! よろしくおににゃいしまふ!」
「それよりマダム、今日はどうしたんですか?」
「ん? そうねぇ。気掛かりが片付いたから、そのお祝いかしら?」
「お、じゃあ気合入れて作りますよ!」
それからアリッサが仕事に戻っても、店主はしばらくマダムと談笑を続けていた。
10分程して厨房に戻った彼はとても楽しそうで、「どうだ? 驚いただろ?」と、アリッサを茶化すように問いかけた。
「はい、えっと……犬の亜人種?」
「正解。あの人『ティンダー』なんだよ」
マダムは、真っ白な老犬の様な姿をした亜人種『ティンダー』だった。
その毛並みはとても美しく、動物好きのアリッサはついつい見惚れてしまったのだ。
「とっても素敵な方ですね」
「ああ、人間なんかより、よっぽど人間を愛して下さるお人だよ。俺もどんだけ世話になったか……あ、でも猫の話は厳禁な?」
「猫ですか?」
「おう。犬だからかなぁ、生理的に受け付けないんだと」
「そうなんですね。可愛いのに」
アリッサは、子供のバースティアを思い出していた。
とっても可愛くて、すごく優しい子だった。
(今夜も会えたら、またなでなでさせてくれるかな?)
直人のことは気がかりで、ダブルワークは大変だが、仕事終わりの楽しみが出来たアリッサは、幸せな気持ちで満たされていた。
バースティアの少女とは二度と会えないが、そんな事は知る由もなかった。




